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床稽古

床稽古。今日は家でひとりでやってみました。

ときどきひとりでもやってみてるのですが、今日はセッティングして、集中して、ちゃんとやってみようと思ったのです。もちろん稽古場でやるのとは、まるで様子は違ったけれど、それなりのところまではできたかもしれません。

今日は、外から見たらどんなふうに見えるのかと思って撮影してみました。時間的には30分くらいなんだけど、とても時間というような尺度では測れないような濃密な空気があって、とても気持ちが良い時間が延々と続く感じがします。

おそらくサマーディーとか、アムリタとか、、、瞑想とか、修行とかの世界では、そう言われるようなことが起こっているんだろう思います。空間がゆがんで見えたりしますし、いろんなイメージが去来しますし、いわゆる変性意識状態と十把一絡げ的に言ってしまってもいいかもしれません。

気持ちよいというのは、そういう意識状態に入った場合、多くの人が体験するもののようです。「気持ちよい、瞑想」とかで検索すると、ヨガや瞑想や、チベットの修行法とか、仙道とか、たくさんの情報がヒットします。

そしてその状態についての解説があったりもしますね。ただ、体系によって、その先、どこを目指すのかというようなところが違っていて、それぞれの流派の立場とか、世界観とか、宇宙観が垣間見えておもしろいです。

いずれにしても、その気持ちよさは通り道で必ず起こることなのだということなのだと思います。原初舞踏では床稽古は基礎だそうです。自我を落とし、本来の軸を見つけるためにやるのが、基本としての床稽古って感じでしょうか? 

筋力をなるべく使わないで、ゆっくりと立ち上がろうとするときに、かろうじて立ち上がってくる軸というのが、もっとも原初的な軸なのだと言うことなのだと思います。

普段、立っている時には筋力を使って、気張りますし、踏ん張りますし、固めてるわけですからね。そこにあるのは自我でガチガチになった軸であって、鎧みたいなものと言えるかもしれません。

重力にすべて明け渡して、最小限の力だけで立ち上がろうとするときに、自我は落ちていくしかなくなるような瞬間があるのかも知れません。

だから、時空ではない次元に意識は気づき始めて世界が変わって見えるのではないかと思います。まだまだ、先はあるだろうと思います。深く潜ることは僕の大好物なので、もっと探求していきたいと思いました。

あとで、録画されたものを見ていたら、自分の内側で感じていたイメージとのズレもあったりして、おもしろかったです。そして、この前の稽古のときに気がついた、足の裏の下に広がるもうひとりの自分であるとか、裏に対してじゅうぶんに意識が向いていなかったことに気がつきました。その分、身体は軽いというか、浮ついて感じるのは、裏とのつながりが十分ではなかったからなのかも知れないなと思いました。

まぁ、今日のところはこれでいいんでしょうね。まだまだ、これから何度も何度もやっていくことだと思うので。。。

また、この文章を書いていたら、意識が変性し始める感じがあります。昨日、最上さんが語られている言葉を聞きながら、言葉を書き起こしたのですが、それを読んでいるときにも同じようなことが起こりました。きっと、その領域のことを思考することで、その領域は立ち上がってくるような気がします。きっと、これを繰り返して、なじみとなっていくならば、なんらかの新しい世界が見えてくるのかも知れません。

ひとりで森の中を歩くときとかにも、そういうことは起こりますし、どこに意識をフォーカスするのかということで、体験の深さも変わってくるのでしょう。その方向に器官なき身体があるのだと思います。

そして、これを追求することは、往相ということになるのでしょうね。そこを深めたならば、どうやって還るか、、、還相ということが、これからのテーマと言うことにもなるのかも知れません。

往相と還相については、昨日書きました。ぜひ見てみてください。


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