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angelspace、しばらくお休み状態でしたが、ぼちぼち動き始めます。キネシオロジーのセッションではなく、占星術やタロットカードを使っていく予定です。しばらくは対面セッションはせず、メールのやり取り、テキストのやり取りで始めます。そのうち、準備が整ってきたら対面もあるかも。

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    原初舞踏、舞踏、バリ舞踏など、身体表現、

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    月欠損についてという事も含めて、あれこれ書くことが多くなったので、マガジン増設しました。

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お面を外すということ

お面を舞台の上で外すということは、昔からいつかやりたいと思っていたことの一つでした。 それを今回の踊りの中で実際にやってみたわけですが、それは思っていた以上に意味のあることだったと思います。 お面を外すことで、世界は全く変わります。物理的にも、お面をつけて踊るということは、なかなか大変なところがあるのですが、これはあまり知られていないことかもしれません。 まず何よりもお面をつけるとほとんど見えません。明かりの具合によっては全てがホワイトアウトになったり、ブラックアウトに

    • 「オブスクラ 舞の発生」から少し時間をおいて

      いろんな人の感想を読みながら、断片的な記憶をつなげながら、公演終了後の、ただただ興奮していた状態から、だんだんと脱し始めているような気がする。 さっき、こちらの河城さんのポストを読んで、突然にすべてを忘却している自分、自分が何者なのか全くわかっていない自分ということに気がついて、愕然とした。 思えば、「舞の発生」とは人間が自らの出自を問うようなことであって、しかもそれを観念でどうこうというのではなく、身体を通して、微かな手がかりを求めて、実験を積み重ねていった結果、ようや

      • 落下と無限後退

        今日も川瀬統心さんの動画を見ながら考えたことを書きます。 落下することと、自己言及の無限後退には似た響きがある。 落ちていくことが怖いのは、どこにも安全に着地できないのではないかという事もある。しかし最も怖いのは、このまま永遠に落ち続けることになるかも知れないということかも知れない。 背後から自分を見るということは、実は前から見ていることであり、それはもともと自分がいたのは前であったことの発見につながる。自分の主体の居場所は、実は前だったということだ。 このような視点

        • 私たちはみな、哀しみの戦士たち

          YouTubeを見ていたら、表示されたこちらの動画。前にも見たことのある、川瀬統心さんの切り抜き動画でした。 家系図の書き方には二種類あります。ひとつは先祖から始まり、たくさんの子孫が増えていくという、枝分かれ式の裾広がりの家系図であり、これがいわゆる普通の家系図です。 それに対して、もうひとつの家系図は自分から父母、祖父母と、過去に遡るほどに関わる人が多くなっていくというもので、これを逆家系図と呼んでいます。 普通の家系図においては自分はその他大勢の中の一人に過ぎず、

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        お面を外すということ

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          最上和子さんの舞踏公演「オブスクラ 舞の発生」を見て

          昨日の最上さんの舞踏を反芻しながら今日は過ごしていました。本当に衝撃的と言っても過言ではない舞台でした。 後半現れた「別のもの」はまさに稀人であり、それは何万年もの間忘れ去られたように見えて、実は密かに凝縮し、熟成し、老成していった、ある種の化身とでもいうような存在でした。 それが立ち現れたのは、真っ暗だった舞台の窓が開かれ、そこから差し込む太陽の光と、今この瞬間の空気と雑踏の音が入り込んできて、いきなり今の、現代の東京になった時に、そこに佇む最上さんはもはや先ほどまでの

          最上和子さんの舞踏公演「オブスクラ 舞の発生」を見て

          膨張、収縮、反転

          前回の8月25日の稽古でのこと。もうひとつ床稽古のことで書いておきたいことがありました。 いつも通りまず予備動作としてゆっくりと手を上げながら空間を広がっていき、広がりきったところからは収縮に転じて落ちていきます。 いつもはそのまま床に横たわって床の下の方に、重力を感じてさらに落ちていくということになるのですが、前回の稽古では少し様子が違っていました。 手をあげながら空間が広がっていくのを感じながら、足もまた無限に伸びていき、やがて広大な球空間となりました。その球の中心

          膨張、収縮、反転

          着物を着ること、着物を脱ぐこと

          8月25日の稽古でとくに心に残ったのは着物を使った稽古でした。 着物は、まずは布の肌触りが他のどのような服とも違うと思います。それに加えて布の持つ匂い、着物自体の持つ重たさが、皮膚を通して伝わってきて、手に取り、羽織る段階ですでに卒倒しそうなほどでした。 着物に袖を通す時、袖の形状を確認しながらも、やることは手を未知の領域に入れて行くということで、やがて迷路のような袖を通り抜けて指先が袖口から出た時に感じるフレッシュな空気感は独特のものがあって驚きました。袖を通すことで、

          着物を着ること、着物を脱ぐこと

          深化することで溶けて消える

          数日前の最上さんのポストから始まって出てきた一連の言葉を整理して書き残しておこうと思います。 「より内部に入ることで癖を内側から溶かしてしまうこと」という言葉が響いた。 僕自身、深く身体に染み付いたバリ舞踏の動きだから、完全になくなることはないにしても、原初舞踏の稽古を重ねたことで、何かが深化して変容してきたような気がしていて、特に今年になって確かに動きが変わり、体験も濃くなってきたように感じている。 深化することで溶けて消える。そしてそれはトラウマ的なものも同じという

          深化することで溶けて消える

          誰かのためとか言い始めたら1アウト

          今日は坂爪圭吾さんのnoteを読んで思ったことを書いておこうと思う。これ↓ 「誰かのためとか言い始めたら1アウト。こんなに頑張っているのにとか思ったら2アウト。やりたいからやっていますと言えなくなったら3アウト。チェンジ。生き方を変える合図だ。」 この書き出しを読みながら、昔田んぼを手伝いに来てくれた人とした話を思い出した。 僕「子供たちのために、子供たちの未来のために、というような言い方がものすごく嫌い。やるなら自分がやりたいからやるというのでないと嘘だと思う。」

          誰かのためとか言い始めたら1アウト

          8月11日の稽古のこと

          今日は火曜日で、稽古から2日経ったところです。稽古で体験することは言葉にするのがむずかしいことがあり、また膨大な情報量を伴うこともあり、なかなか簡単に書き残して置けなかったりします。書き出すことを躊躇することもあります。 しかし、ちゃんとまとめ切れなくても曖昧なままでも、書いてみて残しておくということはほんと大事なことだと思うのです。呼び水とはよく言ったもので、その姿勢に見合った何かが無意識的に出てきたり、つながったり、見えないところで準備されているのかもしれないと思うとこ

          8月11日の稽古のこと

          誕生日〜太陽回帰図から見るこれからの一年

          今日、8月13日は64歳の誕生日でした。そしてこのホロスコープは僕の今年の太陽回帰図(ソーラーリターン)です。 僕が生まれた時の太陽の位置に戻ってきた、今年のチャートということで、これからの一年間をここから読んでみたりします。 アセンダントは双子座1度。MCは水瓶座12度ということで、どうも風のモードが強い年になりそうですね。 双子座1度のサビアンは「静かな水に浮くガラス底ボート」。海の底を眺めて好奇心のままに、深く薄暗い未知の領域に触手を伸ばして、欲しい知識にアプロー

          誕生日〜太陽回帰図から見るこれからの一年

          床稽古〜立ち上がる

          昨日の床稽古は予備動作なく、床に横たわった状態から始めました。横たわったらすぐに聞こえてきたのは、「目の玉を後頭部に落として、そのままどんどん落ちていく」という声。 その形はまさにヨガの死骸のポーズであり、墓場に横たわる死体として、どこまでも落ちていく感じ。。。 このように床に横たわるのはとても懐かしく、それは昔々、下北沢の稽古場でヨガの最後に死骸のポーズをした時にタイムスリップしたかのような感覚でもありました。 「敗北」「何者でもない」感に包まれて、それはそれでとても

          床稽古〜立ち上がる

          原初

          この動画の最後の言葉、「メディアを疑え、カリスマを疑え」という言葉と、「原始人の気持ちに戻って考えてみる」という姿勢に、とても強く響く力のようなものを感じたもので、しばしそれについて考えていました。 たしかに今の時代が危うくなってしまっていることは認めた上で、これもまた次の文明次元に進む上で、必然なプロセスなのだと思うところがあって、そういう意味ではただ原始時代に戻れば問題が解決するというような単純な話ではないのだと思います。 それでも、この動画は響くものがあったので、シ

          ただ身体そのものになる

          原初舞踏に惹かれたのはこういうことだと思った、今日の最上さんのポスト。 「ただ身体そのものになる」というところ。 神も女神も観音も聖母も仏陀もキリストもシバもカーリーも天皇もマルクスも出てこない。 「ただ身体になる」ことはもっとも基本的なことでありながら、もっとも難しいことでもある。 特別な何かになったり、神秘的な何かに奉納したりって、結局は対象化の道でしかないということなんだろう。 僕自身、さんざん奉納のための踊りを目指してきたけれど、それだからこそ挫折もしてきた

          ただ身体そのものになる

          一期一会

          7月14日の原初舞踏の稽古のこと、まだフレッシュなうちに書いておきます。この日の稽古はいつもとは違った変則的な稽古でした。床稽古やスローの稽古をせず、オーム斉唱の後、フリーダンスを3回というものです。4人ずつ3組に分かれて順番に踊り、他の人はそれを見るという感じ。 僕自身今日は力を抜いて気張りすぎないことと自分なりに決めていたということもあって、このフリーダンス1回目においても何も決めず踊りに入りました。 何も決めていないけれど、少しずつサインがあり、衝動に従いながら動い

          巡礼することと漂流すること〜歩行の稽古の意味

          「東京巡礼」という言葉に接して思い出した言葉として、「東京漂流」という言葉があった。「東京漂流」は40年ほど前に出版された本の名前で、当時衝撃を受けた本だ。 表の東京に対して、裏の東京に目を向けているという点をとれば、「東京巡礼」と「東京漂流」は互いに通じるところがあるものの、その両者はまったくもって存在の質が違っている。 何がどう違うのか、最初はおぼろげだったのだけれど、だんだんと見えてきた感覚があって、今日はそのことを少しまとめておこうと思う。 巡礼者と漂流者の違い

          巡礼することと漂流すること〜歩行の稽古の意味