肉体喪失から「身体」へと至る道筋
先日来、肉体を喪失した三島由紀夫、2階から降りられなくなった芥川龍之介などなど、あれやこれやと考えてきました。
最初はこれ。
幼少期に内的自己をうまく育めなかった人は、生きるために外的自己を肥大化させ、ペルソナをつけることで、なんとか生き延びようとします。そうして肉体を喪失した人となり、自分が何者であるのかを見失うことになるわけです。
まさに三島由紀夫の「仮面の告白」であり、太宰治の「人間失格」ですね。三島が自分でも肉体がないことを課題として、ボディービルや武道などをしていたのかと思うと、悲しくなるし、また太宰が「道化」として振る舞うことの痛々しさも胸に突き刺さってきます。
それもこれも「身体」という方向性がまだ未開拓だった時代ゆえの試行錯誤だったのかなとも思いますが、しかしながら、これは程度の差こそあれ、多かれ少なかれ誰にでも起こりうることなのでしょう。僕自身も少なからず心当たりがあることです。
特に、怒りを持っている人、誰かを批判しないといられない人、他者を啓蒙したり、コントロールしたい人というのは、須く内側に欠如を抱えていて、それを誰かに満たしてもらいたいという欲求を持っているのだと思います。
そして、そういったことを理解した上で何か自分ができることを探すとするならば、きっと踊ることしかないのかも知れないと思いました。
でも、それはまだまだ入り口に過ぎないのだとも思います。踊りを深めていく過程において、次々と湧き上がってくる亡霊と向き合うたびに一つ一つの成就があり、その度に瘡蓋が剥がれるように脱皮したり、下痢したり、発熱したりして、やがて身体を蝕んでいた原因が成仏して、最後には溶けて消えてしまうのでしょう。
身体に取り組むことの難しさは、身体空間がモナドであり、外部とは繋がりがないからなのかも知れません。外を見る限り空しさは絶対に消えません。しかしモナドは窓がないかわりに全てをフラクタルに映していて、ある意味ツーと言えばカーと返ってくるようなところがあり、その響きはたぶん信頼していいものだと思うのです。
あとはいかに深化するか、いかに濃化するか、というところだけど、原初舞踏がやろうとしているのはこのあたりのことなのかも知れないと思います。
そしてこちらは芥川龍之介の話
元々、「梯子」は外的自己と内的自己をつなぐためのものであり、2階から降りられなくなった芥川龍之介を始めとする、病める現代人にとっての救いともなるはずの梯子ということになると思います。
その梯子を手にできそうなところまで、ようやく人間は来ているのかも知れないと思いながら、妄想を働かせて書いた文章ですが、おそらくそんなには間違っていないような気がしています。
文明の行き詰まりは圧力鍋のようなもので、皆苦しくなったからこそ、垂直方向に新たな道筋が開くに相応しい時代ということでもあるのだと思います。
三島にしても太宰にしても芥川にしても、それはもう一人の自分だと思うところがあるからこそ、いつかリアルに出会って自分の経験してきたことを話せたらと思ったりします。
そしてオーム斉唱や床稽古やスローの稽古などを一緒にできたら、などと妄想している自分がいて、おもしろいです。そんな荒唐無稽なことが実際に可能なような気がするんですよね。それはそれは、とても不思議な感覚だなと思います。
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