02. スイートピーの花

骨張った頬に、ギョロッとした大きな目。母や私をなじる。いつ、何に怒りだすか分からない。おしゃべりで、虚栄心を満たすための自慢や作り話が大好き。家族も騙して裏切る、詐欺師。反社会的行動を繰り返すかと思えば、自分以外には正義を求める。美談や勧善懲悪を好むロマンチスト…それが父親。

幼少の頃から私は父を恐れていた。なるべく刺激しないように、静かに、笑顔でいることを心がけた。そんな私の気持ちなど知らず、母は「あなたがいつも笑顔で私は気持ちがいい」「辛いときも笑顔でいてほしい」と言った。

母は父に比べれば、行動はおっとり、口下手な人だった。父の暴言に対抗することは少なかったが、実姉との電話口で愚痴や悪口を並べていた。それを聞かされることは、当時の私には辛いことだった。子どもの私は母を良い人だと思いたかったが、時折きつい差別的な言葉を発したり、猫に強烈な恐怖心をもっていて、追い払おうと石を投げたりする様子は、私には理解しがたかった。40年近く父の悪行に不満を抱きながら、父の最期まで連れ添った。私には不可解な人…それが母親。

おしゃべり好きで一見社交的な父だったが、会社勤めは2〜3年が限界だった。人間関係の構築が難しかったのだろう。自ら事業を起こしても失敗し、借金返済が滞っている状態でも、派手な金遣いを自制もできず、家族で住まいを追われる。このサイクルが3〜4年周期で繰り返された。私は度重なる転校で学校になじめない上に、家庭にも居場所がなかった。思春期にさしかかる頃には私にとって、父は赤の他人よりも信頼できない大人となった。父の娘であることを恥ずかしく思い、父との関わりがなくなることを望み続けた。

学童期の私は体調を崩しがちで、学校に1ヶ月間行けないことも珍しくなかった。私の潜在意識が、SOSを送っていたのだと思う。母は積極的に看病してくれたが、父だけでなくやんちゃ盛りの弟に振り回され、手一杯だったようだ。学校でのいじめや、性的被害に遭った時も、私にゆっくり向き合って、慰めの言葉をかけてくれたことはなかった。

近年のカウンセリングで気づいたことだが、母の口から “共感の言葉” を聞いたことがない。「怖かったね」「痛かったね」「嬉しいね」等の言葉を、私に与えてくれたのはカウンセラー達だった。「母は私を助けてはくれない」という諦めの気持ちは、自分も気づかぬうちに、子ども時代に既に深く根付いていたのかもしれない。

社会に出ると同時に、私は両親のもとから脱出した。それから数年のうちも、父が起こすトラブルは断続的に発生していた。母も変わらない。その様子は私の心をかき乱し続け、私の体の中は、両親への憎悪でドロドロだった。その頃は、私のような人間は親になるべきではないと思っていた。不幸な子どもを増やすだけだ。自分の子をもつ夢は、諦めていた。

迷惑をかけ続けたことで親類にも嫌われてきた父は、8年間の闘病の末、他界した。父は最後まで変わらない人間のままで逝った。私には大きな恥辱が残った。

父の余命宣告の前後から、私はほぼ1年泣き通しだった。心地よい晴れの日も、好きな音楽を聴いても、楽しみにしていたライヴに行っても、とめどなく涙が溢れて止まらなかった。少しも悲しくなかったのに。あの涙の理由は、10年経った今もよく分からない。

父の死後、幼い頃の父との思い出を伯父に聞いた。いくつかは、少しショッキングな内容だった。父の思い出話は本人からたくさん聞かされていたから、初めて知らされるエピソードがあるのは不思議だった。それほどに、父にとっては忘れたい、触れたくない、辛く悲しい記憶だったのだろう。

父の母親であった祖母は、息子を見送った後も5年ほど生きた。時折、息子の子どもの頃を思い出すらしく、ある時ぽつりと言った。「あの頃、あの子はスイートピーの花を、とてもきれいだと気に入っていた」

風に優しく揺れるスイートピーの繊細な花。私が恐れ、憎み嫌った父は、傷つきやすく繊細な心をもった子どもだったのだと、今は思う。今年10歳になる私の息子と、何も変わらない子どもだったのだ、と。


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