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シャンタル・アケルマン「私、あなた、彼、彼女」(1974)

シャンタル・アケルマンが監督を務めた映画「私、あなた、彼、彼女」は、撮影当時24歳の彼女によるセルフポートレート的作品である。原題:Je, tu, il, elle (1974)

殆ど家具のない無機質な部屋で、一人の女=“私”がマットレスの位置を変えて寝転ぶ。誰かに向けて手紙をしたため、スプーンで砂糖を貪り食う。無意味とも思える行為が延々と反復され、女はモノローグを繰り返す。やがて女は雑音の入り混じる街へ繰り出し、トラックをヒッチハイクする。“彼”との短い旅を終えたあとは、かつて親密であったことを思わせる“彼女”のもとを訪れ、身体を重ねる。



本作品が描くのは、双方向的なコミュニケーションの困難さである。前半部において、女は手紙を書き、便箋を床に並べるが、その宛先は明示されず、ポストに投函されたのかさえ分からない。行く宛のない手紙を、女はひたすら読み上げる。殺風景な部屋の外には雪景色が広がり、通行人の姿、部屋のなかを窺う何者かの影も見えることから、この女は外界から完全に隔絶されているわけではない。しかしながら、女はただ一人部屋に閉じ籠もり、モノローグを続ける。マットレスの上で裸になりながら砂糖をひたすら食べる行為は、一種の依存症である。

やがて砂糖は底をつく。街へ出た女は、トラック運転手の“彼”に出会い、ようやく食事らしい食事にありつく。行き先も分からぬまま、女は“彼”の運転するトラックに揺られる。車内で、“彼”は陰茎を握らせ、上下に動かすよう、女に指示する。やがて恍惚とした表情で果てた男は、妻との馴れ初めや現在セックスレスであることを話し始めるが、このとき、女の姿は殆ど映されず、フレーム外に押しやられている。“彼”の一人語りに、女は反応を示さない。偶然出会った“彼”との擬似的なセックスは、男性優位の一方的な――ともすれば暴力性を孕んだ――行為に過ぎないのである。ここに双方向的なコミュニケーションは成立し得ない。

“彼女”の部屋を訪れた女。軽い食事と噛み合わない会話のあと、二人の女は激しいセックスを行う。肉の塊がぶつかり合う音、シーツの擦れる音、ハミングのような吐息。このシーンは、中盤部における運転手との性行為の場面と対照的である。彼女たちは対等に身体をぶつけ合い、互いに全身を撫で回す。映像作品におけるレズビアン表象の先駆となったこの場面には、いわゆる「百合」として〈消費〉されるようなフェティシズムは一切ない。カメラは主人公の眼差しとは同化せずに、ひたすら行為に耽る二人の女を淡々と映し出す。
しかしながら、対等な立場で抱き合い、求め合ったところで、互いの皮膚と心が融合することはなく、“私たち”は永遠に一つになれない。他者と身体を弄り合おうとも、その行為はモノローグ的である。すべてが終わったあと、“彼女”が眠りについている間に、“私”は部屋を出ていく。一言も言葉を交わさずに。

恋愛や性愛に限った話ではなく、人間関係の多くは一方通行である。他者に対し、自分と同じ距離感、あるいは同じ重さの愛情を求めることなど到底不可能だ(そもそも愛に重さなどない)。よって、人間関係の殆どは片思いである。古めかしい例えかもしれないが、レコードの裏面のように、音を鳴らしていても、相手には届かない。どんなに愛し合っていても、完全に分かり合えるわけではない。双方向的なコミュニケーションとは、決して容易ではないのである。
アケルマンの「私、あなた、彼、彼女」において、登場人物の会話はダイアローグにはなり得ず、モノローグに終始している。かといって、この映画はコミュニケーションの不可能性を嘆いているわけではない。主人公の女は、次の船着き場を探すように、淡々と部屋を出ていく。他者とのダイアローグの困難さを受け容れつつ、“私”の語りは反復するのだろう。この「困難さ」を受け容れつつ、沈黙に陥らず、“あなた”に語り続ける。本作品には、その過程が描かれている。



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