病院を変えてみて。
今まで行っていた病院から違う病院に変えてみた。いわゆる、セカンドオピニオンとよばれるものである。
自分の中で違和感があったことや、立地的な問題からも私は病院を変えた。
今までは、個人の病院に通っていたため、お医者さんの独断というか、全てお医者さんに委ねられていた。
しかし、変更先の病院は大手と言われそうな病院で、今までとは違って、情報がしっかりと与えられているような感覚を得た。
加えて、心理テストや血液検査もあり、数値的にわかることもありがたかった。数値は全てではないけれど、やっぱり大切な目安となると感じる。
今日は全ての結果が返ってきたが、なぜか自分でショックを受けていた。
自分では克服できていると思っていたことが、実は克服できていないかもしれないということが分かったからだ。
しかも、ピンポイントで。
驚いていた。こんなにも当たるものかと。図星、の一言。
過去受けたトラウマを引きずっている、というようなことが書かれていた。
気にしていないつもりだったし、もう関係ないものだと思っていた。でも、どうも自分の中での処理は追いついていないらしい。
点数化された心理テストでも、そこそこの点数で、中等度から軽度のうつ状態にある、という結果が出ていた。正直なところ、ちょっと症状が重く出るように答えた気もしているが、こんなにもはっきりでるものか、とショックを受けてしまった。気にしなければいいのかもしれないけれど。
明確な尺度がないこの状態は、とても困るものだ。元からの性格が、白黒はっきりしててほしいと思うタイプであることも影響していると思うけど、胸を張って元気だと言えない、今は、なんとももどかしいというか。
気にしなければいいのかな。みんなどうなのかな。わからないや。
ただ、母から事務連絡が来ても、ああ、と思って返事ができるくらいの余裕はできた。びっくりしないほどの余裕ができたから、進歩していることに間違いはないと思っている。
去年の出来事を通して、私はいろんな意味で強くなったと思うことが多いのだけれど、その理由がいまいち分からないでいる。
人になんと言われようと、気にしない。
そのスタンスがすごく、確立された。
人があれこれ言うのは、勝手だし。
というような、一種の無関心とも言えるこの感覚は何によって作り上げられたのだろうかと気になるけど、理由はわからない。
周りの人をみていて、気にしなければいいのに、と思う一方で気になる心理もわかるのだ。以前の私は気にする人だったから。
自分は自分だとはっきり確信したその根本は何だったのか。
他人が、私を肯定しようと否定しようと関係ないのだ。だって私は私であり、変わるものはないから。
以前は、どれが本当の自分かわからなくなることが多かった。どの自分も本当の自分とは違うようで、迷子のようだった。本当の自分がどこにいるかわからなくなるくらい、複数の自分が存在し、その自分が入れ替わり、本当が分からず泣いていた。
それがいつの間にか一つの自分に統合された。今の私には、一つの自分しか存在せず、何かを行うにしても、全ての選択基準は一致している。
ああ、そうか。
私は、他人の人生を生きてきたから、複数の自分がいたのか。
今の私は自分基準で全てを選択しているけれど、他人の求める私を演じるから、本当の自分とのギャップが生じて、泣いてしまうのか。
自分が自分で居られるようになった理由は、自分の人生を生きようと思ったこと、そして、自分の理想の自分を捨てたこと。
自分の理想の自分は、とても負荷がかかる。
本人の力量を超えるように設定されているはずだから、そもそも無理がある設定だったのだ。
私は、誰かの相談役になりたいと思っていた。いつも誰かに助けて、、、と声を発するほうだったけど、実は相談される側になりたかったし、もっとしっかりさんになりたかった。
ただ、そんなことは不可能だ、と気づいてしまった。
そこからは、いい意味でも悪い意味でも私は私に期待しなくなった。
それは、自分の中での負荷が減った瞬間だった。
それができたのは、母の作る私を捨てたからかもしれない。いつの間にか作り上げていた母の求める私を私は、去年捨て去った。
捨てざるを得なかった。これが、全ての根本であるように思える。
誰かの求める私より、私が好きな私のほうが私は輝ける。
だから、苦しんでいる人に伝えたい。
自分が好きな自分に、なれますように。
ここまで読んでくださり、ありがとう。
あきは
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