先生の説明

澤村先生のところに初めて行った日、家族がみんな一緒に来てくれた。病院①での診断結果も一緒に聞いていてくれて、澤村先生のところにも一緒に来てくれた。今まで受けた検査の結果は持って行ったけど、追加で検査を受けてから診察室に入った。ひょうひょうとしたおじいちゃんで、診察室に入ったら、「はいはい、どうぞ~。お、みんなできたの」って笑ってくれた。今でもそうだけど話しやすくて昔からの知り合いみたいな、そんな感じ。
でも先生が話してくれたことは決して話しやすいことではなかった。それでも先生はまっすぐ私に病気のこと教えてくれた。このまま何もしなければ当時26歳だった私がおそらく30歳を迎えられないであろうこと。日本全体で見てもこの病気を知っている医者自体が少ないこと、まして治療したことがある医者なんて数えるほどしかいないこと。状況からみてガンマナイフは腫瘍だけに放射線を当てるから、私の腫瘍のグレードで予想される浸潤(周りの組織への食い込みには対応できず、再発の可能性が高いこと。化学療法(抗がん剤)なんてやったら死んでしまうかもしれないこと。10年前だったら手術室に入ったら誰も出てこられなかったこと。手術の難易度がとても高いこと。症例がとてもとても少ないから、生体検査の結果も判断材料としてはあまり信ぴょう性が高くないこと(検査するたびに結果が変わることも間々ある)などなど。

私がその時聞いた話をまとめた、実際のメモの内容は以下の通り。
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・松果体実質腫瘍(PPTID)は殆ど症例がないから、腫瘍全部とって病理に出しても、はっきり正しい結果が出るとは限らない。まして生検だと検体もかなり小さいから殆どわからない状態。
・日本でこの腫瘍の病理検査を一番多く経験しているのは恐らく北大(澤村先生がいつも検体を出しているから)。先生が手術したら北大に検体送って検査して、グレードをもう一度判断してその後放射線することになる予定。
・澤村先生はグレードごとでこんなふうに考えている。
グレードⅠなら手術でほぼ完璧に治る。術後生存率も99%くらい。放射線は必要なし
グレードⅡは、ⅠよりかⅢよりかによって変わってくる。手術でとって、腫瘍の周りに放射線で予後は様子見。転移の可能性は低いけど、浸潤していれば腫瘍があった所の近くに再発する可能性はある。5年生存率80%弱。でも8年後に再発した例もあるらしいから、どのグレードにしても10年後生存率はもう少し低くなる。
グレードⅢも、ⅡよりかⅣよりかで変わってくる。Ⅲになると悪性で転移する可能性が高くなってくる。状況がちょっと厳しくなってくる。手術で腫瘍を摘出して、術後に腫瘍の周りと場合によっては転移しやすいから脳脊髄にも放射線を照射する。ただ、広い範囲で放射線照射すると、高次機能障害起こして認知障害とか記憶障害が出てくる可能性がある。当てるか当てないかは本人次第。5年後生存率は30%
グレードⅣだともう手術はしない。しても助からないから。
・今日とったMRIの画像だと、私はグレードⅡくらいじゃないかとのこと。核分裂能は今の段階では5%、周りの組織との境目が比較的明瞭で、形も丸に近い。とること自体はそこまで難しくないと思う。
もちろんやってみないとわからないから希望的観測。
腫瘍の大きさは病院①で10~15mmと判断されているが、1番大きいところだとすでに20mmはある。大きくはないけど小さくもない。機械の違いなのか、腫瘍が大きくなってきているのかはこれまでの詳しいデータを病院①からもらって再度調べてみる予定。
(澤村先生のところに言った時点ではまだ詳しいデータをもらっていなくて、持参していなかった)
・日本全国で週2回は手術をしている澤村先生でも、この手術は年に1回あるかないかくらい。でも先生はこの手術で患者さん亡くしたことはない。
ただ腫瘍が大きくなれば手術のリスクもあがる。手術自体は難しい手術だし、普通の脳外科医にはできない。これまではなくても今回の手術で術中死はありえるし、脳死も考えられる。
・後遺症として、複視くらいは覚悟してって言われた。複視くらいで済むならいい方だって。確率は低いけど半盲になる可能性もある。
・ノバリス(放射線)は25から27分割で6から7週間かけて当てる予定
ノバリスの危険性とか聞き忘れたから今度聞いてみる
・放射線治療は北大出身の小野寺しゅんいち先生という先生が、放射線治療医の中で多分1番PPTIDに詳しい人なのでお願いすることになると思う。(ちなみに中村記念病院は放射線治療医ではなく、医者が放射線治療をする。澤村先生は、放射線治療は医者ではなく放射線治療医に任せた方がいいという考え)
・手術は5時間くらいで終わらせる予定。
・普通の他の癌だったら5万、10万件の症例を集めて論文を書くけど、この腫瘍は1件で論文になる。それくらい珍しいし、少ない、分からないことが多い。
珍しくて難しいからこそ経験値がものを言う。自分なら手術できる。
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とにかく説明されたことを必死で書いていたから、いろんな深度の情報が混在しているけど、その時私ができる精いっぱいだった。

話をきいて、私は初めて死を感じた。「私も、死ぬんだ」と思った。
あたりまえのことだし、今まで大切な死に触れてきたこともあるけど、それは自分以外の死への考え方で、自分の死のことじゃなかった。自分のことは考えたことあるふりをしていただけというか、あくまで仮というか、現実じゃなかった。遠い先の話だって勝手に思っていた。いざ目の前に突きつけられるとどう扱ったらいいのかもわからず、かといって動揺するわけでもなく、初めて病気を告知された時と同じで「まじかぁ…」ってぼんやりしていた。

私はあの時、というかこの闘病中になんというか、どうしようもない死への恐怖みたいなものを感じたことはなかった。不安は往々にしていつもあったけど、恐怖とはまたちょっと違ったように感じる。あとから考えて、なんで私はこういう風に考えたり感じたりしていたのだろうって思ったときに、死にたくないって思うことがなかったからじゃないかと思った。それは死んでもいいやとかそういうことではなくて、あくまで死にたくないと思ったことがないだけ。なんというか、生きることにどこまでもどん欲にしがみつくというか、並々ならぬ思いみたいのが多分なかったからだと思う。
26年間生きてきて、あの時の私は一番自由だったと思う。なんというか、この世界に思い残しがあまりなくて、あの漫画の続きを読みたいとか、行ってみたかった場所とか、やってみたいこととかそういうのはあるけど、残していけないものが多分なかった。大切な家族はいるけど、私がいなくても大丈夫なのはわかっていたし、おそらく悲しんでくれる大切な人たちを悲しませるのは嫌だったけど、それはその人たちの日常でしかない。結婚もしていないし、子供もいないし、やり残した大きなこともないし、自分をこの世界に縛るものが本当に少なかった。想い、みたいなものが良くも悪くも軽かった。だから私は、不安はあったけど恐怖を強く感じることはなかったし、とても楽観的だったと思う。どこかでそうあろうとしていた部分もあったのかもしれないけど、それまでの人生で普段考えごとすると、必要以上に物事を重くしてしまう自分が、あの時あんなにいろんなことを軽やかに重くせずに考えられたことは本当に意外というか、今考えても不思議だし、でもそれってきっと今の自分の考え方とか自信みたいなものにつながっているように思う。今の私は本当に、ついている。こんな簡単なことじゃないのかもしれないけど、世界は、世のなかはなんだかんだ言って結局うまくいくようにできているって本当に思う。だからこそ、思い出したくないような記憶もたくさんあるけど、そのうち無駄じゃなかったと思えるようになると思うし、ちょっとした失敗とか、考え方とか、気持ちとか、前よりずっと受け入れられるようになったのだと思う。自分のこと大好きかって言われたらやっぱり即答はできない。でも、自分を認められるようになった。許容したり許したりできるようになったら、今までより生きやすくなった。他人にそうなったかはちょっとわからないけど、でも自分から出てくる行動は確実に少しずつ変わってきた。落とし物を拾ったり、声をかけたり、席を譲ったり、そういういままできなかった、伸ばせなかった手が、考えなくても出るようになった。声が、でるようになった。反射で。これは本当に自分の中で大きなことで、変わったなって思う。他人に迷惑かけなきゃいいやって思えるようになってから、できるようになったことがあると思う。自分を大切にするからこそ、できるようになったのかもしれない。人との壁は相変わらずあるし、エネルギー消費量も半端じゃないけど、それでも前より楽に壁を越えられるようになった気がする。
原因のわからない気持ちとか、今は向き合えない気持ちとか、抱えきれないものとか、直視できないものとか、そういうものはまだまだたくさんある。これからもきっと、自分の中に生まれる。でもそれを全部、すぐにどうにかしなきゃいけないってわけじゃなくて、向き合えるようになったら向き合えばいいし、できるときに扱えばいいし、時間がたったらもっと変わっていくし、私が変わることで気持ちの大きさや重さも変わるし、抱えきれない気持ちがあることもいろんな感情と向き合えない自分も悪いわけではない。しんどくなったり、最高!て思ったりしながら幸せに自分と自分の大切なものを愛して生きていきたいって今は思う。

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