選択と決断

澤村先生にメールした後に、実はもう一つ別の先生にもメールを出していた。脳外科治療の世界ではとても有名な先生で、テレビとかにも出ているらしい先生。調べたら出てきたから、この先生にも連絡してみた2日後くらいに病院から電話が来て、この日なら話せますけど予約取りますか?って言われた。すでに澤村先生のところに行った後だったからちょっと迷ったけど、行ってみることにした。実家の近くにある立て直したばかりの病院の中は本当に広くてきれいで人がたくさんいた。整理券をもらって問診表かいて、ザ・病院って感じだった。その先生は常時この病院にいるわけではなくて、いろんな病院に行って手術とか、なんかよくわかんないけどいろいろやっているらしい。この病院に来るのはせいぜい月1,2回。たまたまいるときに予約をとれた。部屋に呼ばれたら、偉そうなおじいさんと弱そうな子分みたいなおじさんがいた。この時も両親が一緒に行ってくれて、私が先生の正面に座って、両親が私の左右後ろに座っていた。この先生は澤村先生のこと知っていて、澤村先生からもらった情報見ながらいろいろしゃべっていた。澤村先生のことあんまりよく言わなかった。「僕はこの診察室にいながら現在進行形で手術をしながら君の話聞いてあげている。今も3件手術している、このモニターの手術は今僕がやっている手術。澤村先生にこの手術できるわけない、ここでガンマナイフやるのが一番いい、僕が見てあげるから大丈夫、もしガンマナイフがだめだったら僕が手術する、僕にしかできない手術だ」と、とにかくつらつらつらつら話続けて、子分がペコペコしながらうなずいていた。何が一番嫌だったかって、私が目の前にいるのになぜか両親に向かって話すのが本当に嫌だった。話し終わって、診察室出たらあたりまえのように看護師が近づいてきて、じゃぁ今後の手続きをしますね、と言ってきたからちょっと治療法考えさせてください、ここに入院することにしたらまた連絡しますって断った。今思うと先生の印象が最悪だったことばかり思い出すけど、当時の私はガンマナイフをすすめられたことに対して、あちゃーって感じで、うまく形容する言葉が見つからないけど、やっちまったなぁというか、聞かなきゃよかったなぁというか、余計なことしたなぁっていうか。単純にその時の状況は、2つの病院からガンマナイフをすすめられて、手術があまりにも難しいといわれた。澤村先生だけがガンマナイフでは意味がない(再発の恐れがあって完治を期待できない)、手術すべきだって言ってる。どちらにしてもみんなが口をそろえて手術は難しい、ガンマナイフを勧めてきた病院に至っては、最終手段だからできればやりたくない雰囲気満載だった。私は両親に困ったように笑うことしかできなくて、どーしたもんかなぁ…って思ってた。家に帰って妹弟にも話して、さすがに元気にふるまうのもおかしいなって思って早めに寝ることにした。寝れなくてぼんやりしてたら隣で寝ていた妹が手を握ってくれた。

弟妹それぞれ、本当に一生懸命私のことを支えてくれた。楽しい時を一緒に過ごしてくれた。手術直前離れる前に泣いてくれた。初めて病室に来た時泣いてくれた。つらい時をずっと支えてくれた。毎日病院に会いに来てくれた。手術の時もみんながいてくれた。
みんなずっと何も言わずにそばにいて支えてくれた。自分にとってどれだけ救いだったかなんて言葉にはできない。だから私は私をこれからも大切にしようって思う。この大切な人たちが大切にしてくれる、こんなにも思ってくれる自分を私は大切にしなきゃいけないって。生きなきゃいけないって今も思う。

考えて、考えて、私なりに状況を整理した。私の前にある選択肢は二つ。大きなリスクをとって手術をするのか。今の危険は回避して放射線治療をやってみるのか。どちらにしてもはっきりとしたものはないし、どちらにもリスクはある。でも何もせずほっとけば30歳にはなれない。選ぶしかなかった。考えて、考えて、澤村先生に決めた。最後はやっぱり澤村先生なら信じられるって、命預けてもどんな結果になっても受け止められると思ったから。リスクは高いけど、私は今を生きるためではなくて、未来を生きるために手術を受けることにした。先生は手術の予定が毎週のように入っている中で、ほかの患者さんをずらして私の手術の予定日を決めてくれた。病院①でやった生体検査手術で病原組織の一部をちぎっているから、長く放置しておくと播種の可能性が高まる可能性がある。早く手術したほうがいいって言われた。発症してからも、一回目の手術からも、かなり時間がたっていたこと少し怒って心配していた。決めたときにはすでに一週間後には手術、みたいな迫り方だったと思う。

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