緊急搬送後

救急車で運ばれて、病院に入ったらまず基本的な処置を受けた。この時処置してくれた先生が、病院①での主治医になってくれた。


処置がとりあえず終わって、3階の病室に移されて、とりあえずぼんやりしていた。しばらくしてから母が車を自分の家に戻して、必要なものを持って病室にきてくれた。


心配しすぎでちょっと怒っているみたいな、そんな感じだった。私は笑うしかなくて、なんかこんなんなっちゃいました、くらいのテンションでいた。会ってまず苦笑い、でも自分でも自分の状況がイマイチ分かってないから曖昧な説明しかできなかった。とりあえず分かっていることだけを伝えた。母はこの日から1日も欠かさずにお見舞いに来てくれた。


病院①には色んな人がいた。とくに3階にいた時は出入りが激しかったから色んな人をみた。頼れる人がいなくて保証人たてられずに泣いているおばあさんは、自分の肌に自信があるみたいでオススメの化粧品を教えてきた。嚥下障害なのか、ものが飲み込めなくなってベッドの上で管入れられる、ものすごく苦しそうなおばさんの声を聞いた。不妊治療中の女の人が髄液採取していた。若い人もおばあさんもいた。


若い男の看護師さんが多くて不思議な感じだった。入院してすぐの時はまだ痛みの波が来てなくて検査に自分で行っていた。古い病院で、作りが複雑だった。妹と絵しりとりで爆笑した次の日から全く動けなくなって、その辺はもう記憶がない。


頭が痛い以外のことが何も無かった。波はあったけど、ご飯は食べられなくなった。痛みがマシな時は話ができるけど、酷い時は痛くて暴れないように頭抑えてもらっていた。少しでも頭を動かしたり、起き上がったりするだけでも気が狂いそうなくらい痛いのに、痛すぎてじっとしていられないから頭押さえつけてもらった。ずっと点滴していたけど、何度も失敗された。腕が注射の跡だらけになった。痛み止めを限界量まで使っても痛くて、何も食べてないのに吐き続けた。トイレ行くと吐くことが癖になっていて、吐くために行ったわけじゃないのに個室に入ると反射的に吐いた。

人前でも堪えきれず吐くようになった。出される食事には全く手を付けず、たまにアイスや果物を食べる。それも自分では満足に食べられなくて、食べさせてもらう。きっと小さいときはたくさんたくさん両親やおじいちゃんおばあちゃんにしてもらったことだと思うけど、26にもなって家族や妹弟たちにこんなことしてもらうことなくて、とても不思議な体験だった。


私は母親に「お姉ちゃんでしょ」なんて言われたことはないけど、それでも妹弟がかわいくて仕方ないからお姉ちゃんでいた。だがら、誰かの世話を焼くのは比較的日常だったのだけど、誰かに常に助けてもらいながら生活するっていうのは自分の中ですごくしたことのない体験だった。

相手が誰であろうと、自分以外の人間にものを頼むのがとにかく苦手で、自分が頑張れば、少し我慢すれば何とかなるようなことだったら、多少無理してでも基本的には一人で解決して生きてきた。でもあの時の私は、あれ以上無理したら本当に死んでしまうし、頼らないとどうにもならないような状況だった。

そんな状況になって初めて私は人にお願いすることを学んだし、「人にお願いしてもいい、頼ってもいい」っていうことを学んだ。同時に、誰かに頼る勇気を少しだけ手に入れたし、誰かに頼る自分のことを許したというか、認めたというか、そんな感覚があった。できなくてもいいや。助けてもらえばいいや。まぁそんなこともあるさって。これは私にとってとても大きな変化だったと思う。自分を追い詰めることがずいぶん減ったし、良い意味でまぁいいかって思えるようになった。それは他人にも自分にも。

今まで私は自分のことになるとちょっとしたミスとか、間違いとかそういうものを許せなくて、すごく自己嫌悪に陥っていた。とにかくいやな気持ちになって全部投げ出したいって、自分が嫌だって思うことが多かった。でも絶対どう頑張ったって人に頼らなきゃいけない状況を経験して、人に頼ることを学んで、自分を許して認めて受け入れることで、前は許せなかったことが、まぁいいかって思えるようになった。

そうなると今度は、自分はすごくラッキーだと思うことが増えた。例えば雨に降られても、会社行く途中じゃなくてよかった、とか、カギを職場に忘れたときも結果として大好きな先輩と帰れたしいいか、とか。とにかく結果オーライ、結局いい感じになるって本当に小さいことだけど感じることが増えた。

結局世界はなんだかんだ言っていい風にまとまると、本気で最近は思っている。少なくとも私の世界は今そういう風に回っているし、私はその中を生きているって日々感じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?