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紙の舟 ep.3

次の日、僕は事務所で事務員の甲さんに江小薇の話をした。
「中国の人に勤まるのですかね。中国人でしょうー。」
よりによって、パチンコのカウンターで働くとは、という顔をしている。
僕より八つ年上のこの女性は、在日朝鮮人だ。
常識人の彼女にとって、このパチンコ業界は従業員の無軌道な生き方に日常的に接していることから、非常に批判的である。
皆がそうではないのだが、個々の従業員の生活態度を見て、パチンコ業界に対するある種の偏見が植え付けられているといっても良い。
うちの店を含めて、この業界には古い体質が残っている。
ボストンバック一つで渡って来てその日から働ける気安さと、いつでも移れる気楽さで、従業員はその日暮らしの感がある。
他に楽しみがないので、どうしても賭博や遊びに金を遣って、いつもピーピーしている。会社の方も、彼らをまともな人間と見ない傾向がある。
パチンコの従業員を、入れ替え可能なパチンコ台と同一視しているのである。
僕は、自分の生き方を彼らに重ねて見ているので、そんな彼らを愛しく思っている人間の一人だ。
甲さんは徹底した常識人なのだが、やはり市民社会で通用する判断を基にしている。市民社会の常識といっても、それは世間で通用するというぐらいの、狭い意味なのかも知れないのだ。
ところで現在この業界は、近代化を計るためにサービス業として、当然の市民社会的従業員教育を開発推進している。ロボット化された長期滞在型積極的従業員の育成である。
それが、この業界に取り残された気楽な生き方をも排除しようとしていた。
近代化された設備と無軌道な古い体質を残すこの業界の妙なアンバランスが面白くて僕は働いているのだが、常識で切って捨てようという「近代の日本型」価値観を学んでいる江小薇から見て、この古さがどのように映るのかを考えると、少し心配になってきた。
甲さんは事務をする手を止めて話しかけてくる。
「私は、中国人はどうも好きになれないのよね。
毎朝立っているバスの停留場で列を乱して集団で割り込んで平気でいるし、所かまわず大声を出したり、大体マナーが悪すぎる。ああいう自分勝手なことをしているのは見て直ぐわかるけど皆中国人よ。ああいやだ。」
日本人だって同じだと心で念じながらも、朝鮮の人には歴史的に中国に対して日本人とは別の感情を持っていると僕は思っている。
朝鮮戦争の時、中国義勇軍が参戦したのを知った韓国軍が一時パニックに陥ったのも決して中国が大国だからというだけでなく、歴史的に対峙し、絶えず侵入されるのではないかという恐怖が先祖から伝えられる意識に残っているからだろう。
追いつめられた韓国軍(国連軍)が、俄然反撃を開始するのも唯一朝鮮をまもるという捨て身の闘争心に立ち返ったからだとも説明できる。
いずれせよ、日本人とは違う中国観は存在する。
「江さんに関しては真面目そうに見えますよ。しっかりやってくれると思うのですが。」
「しっかりした人だったら、反対にこの業界を見て逃げ出してしまいますよ。もし平気でいられるのなら、間違いなくおかしな人よ。」
どこまでもこの業界に対して差別的である。いつもこの辺の話になると僕もむきになり、口論になるのだが、この件以外に関しては、僕の良きパートナーである。
それにしても、江小薇を雇った以上、彼女にもしっかりと働いてもらわなければならない。ひとつは、人手不足のため少しでも長く居てほしいということ、もうひとつは、地域・市民運動に多くの知人がいる以上、僕の店で中国の人が働ききれなかったと言われたくないという、運動レベルでの面子もある。
何としても彼女に働きやすく良い職場だったと思われるような、ぼく自身の努力も必要だろう。
五月も、もう僅かな日を残すだけだ。暖かい風が、春の陽気をベランダに運んでくれていた。
仕事に就いた江小薇は内容の呑み込みが早かった。良く理解をし、そして必死だった。
最初のハードルかも知れないが、外国人である彼女に気の毒だったのは、カウンターで出すタバコの種類を覚えることだった。本人も吸わないタバコの名前を覚え、球数を操作盤で探すのは大変だろうと思うのだが、その上タバコのほとんどは、彼女が未だ馴れないカタカナで表示されている。約三十の種類が、そのつど品をかえ数をかえて頻繁に出るのだ。
他に面倒なのは、雑多な端数で出される端玉商品。うちの店では五コ単位から出しているので、四十コまで刻んで出す商品と種類が多い。(これは、端玉を通した細かいサービスとして客には好評だが、働く側としては馴れるまで苦労する。いつも同じ物を出すわけではなく、月や季節によっても変えている。ちなみに両替分の最小単位は四十一コからだ。これは消費税が入っている。)
そしてコード入力システムを使っているので、各商品にはコード番号がついている。ポス操作においては、多くはスキャナーで自動読み取りがきくが、中には読み込めないものも多い。その場合は素早く手板に表示されている商品を見つけ、コード番号を探らなければレジ操作ができないのだ。うちの店では、現在五七〇番までのコード番号を使っている。五七〇種類の商品があることになる。


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