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紙の舟 ep.5

単純な対話の連続が僕たちの会話だ。彼女のよく聞き取れないことに関しては紙に書いたが、僕の知っている中国語を入れたりして、それは僕の勉強にもなる。

ここまで書いて、パチンコ店内での対話には、会話と言うにはかなりの表現的な無理があることに気づいた。この会話に関しては、事実はもっと断片的なのだ。
もしそのまま記述しなければならない、事実に即して書かなければならないというような命題を与えられたとしたら、そして僕がそのことに従って記述を進めたら、読者はその時点でこの拙文を読むことを放棄することだろう。
ことなげに対話と書いているが、店内を縦横する大音響の音楽にパチンコ玉のガラス面を打つ音が混じり、そのつど飛び込むホール従業員のアナウンスや、カウンターではそこに取り付けられた計数機に流し込まれる玉音で、話す言葉はかき消されてしまう。
会話をすると言っても、実際は怒鳴り合うようにして話をしているのだ。もし一瞬でも(停電でもあって)雑音が無くなる瞬間には、ただ怒鳴り合う二人のバカでかい奇声だけが取り残される事だろう。
パチンコ店内での会話には、それなりの声量と体力を必要とする。したがってカウンターで客を呼ぶ場合でも、文書にすると「お客さん!」と自然に表現できるが、実際は「オギャグサン!」と叫んでいるのだ。
また、パチンコの店店員は客とあまり話をしないことと従業員規約に記されている。これはマナーの問題であるばかりではなく、無駄な体力の消耗を避けるためのものではないかと、時々僕は思うのである。
客と談笑し、こちらが「ワハハ」と自然に笑ったのでは、喧騒の中のこと、相手が聞き取れなければ客に対してニヤケタようで失礼に当たる。「ギャハハ」と精一杯力を込めて表現しなければ客に伝わらないのだ。
このままでは、「オギャグサン」と「ギャハハ」で紹介される世界は、美麗で飾る文学に合わなくなってしまうだろう。サド、マゾの世界でも、文学はまだ美しい。
そこで、天変地異の動乱をも静寂に置き換える文学の方法論が捻出される。その結果、パチンコの騒乱も静かな情景描写に取って変わる。
かくして文学は、事実と叙述との落差を乗り越え、表現としての言語の不確かさを最大限に活用して読者を安心の世界へと誘うことになる。問題なのは、僕の叙述の不器用さをどう克服するかという、肝心な一点に絞られるだろう。
最大の問題である。もし、連載途中で僕の文書綴りが批判されるようなことでもあれば、すぐ打ち切るつもりだ。その時は「ある日突然、江はいなくなってしまった。」とシメルことにしている。ジ・エンドにはこれが一番いい。文学とは便利なものだ。
さて、この騒音について話を戻そう。
当然のことながらパチンコの店員は、喧騒の渦の真っただ中で働いている。実は、このような環境の悪さが江との関係にとって、後で問題になる原因の一つだろうとは、その時まで気が付かなかった。
僕たちは自分の馴れた環境を当然としているが、そこに初めて直面する人にとっては、馴れるまでには相当の苦痛を伴うことだろう。
この苦痛は当人にとって、果てしない道程のほんのひとこまなのだが、人は勝手にそれを試練という。
だがこの試練を当然なこととして、例えば健常者が目の萎えた人に我々と同じ責を課すことが許されないのと同じように、少しでも相手の立場に立とうとし、当然対等の関係を結ぼうとするならばなおのこと、その障害を意識的に除いてあげなければならない。
僕たちは、平等という言葉に慣れているが、対等な関係ということには疎い。平等は分配や権利保障ということでは理解されているが、人間として対等になることまでは関われないでいる。
それにしても、言葉がよく聞き取れない人に、この喧騒は何にも増して障害だったことだろう。繰り返すが、僕はそのことに気が付いていなかった。そして言葉というものの不確かさにも。

「ところで江さんは、今の民主化のデモに参加したの。」
「私、怖くて参加しなかった。言ってること、大切なこと分かるよ。だけど参加しなかった。」それは彼女の呟きだった。
「北京は今、戒厳令下だが、学生に対する市民の協力で軍隊は市内に入れないようだ。中国当局の考えが良く分からないが、この民主化運動はどうなるのかね。」
「中国が良くなるためには、民主化必要よ。でも心配ね。」
江は目を落として応えた。その姿には、最初に感じた民主化に対する熱意はなかった。
「このような民主化の運動が現実にあるということは、少なくとも一歩駒が進んだということだ。中国の何億という人々のエネルギーを考えると、たとえ最初は遅くとも確実に良くなると思うよ。」
江は、そのことにはうなずかなかった。それまで彼女の指は細かい髪を梳いて流れるように動いていたが、最後は耳のそばで止まって掌を頬に当てていた。目は一点を凝視している。その顔に、希望は窺えなかった。
テレビでは天安門での学生の動きを連日報道していた。画面からは、当局との緊張した空気が伝わってくる。天安門に掲げられた毛沢東の額に物が投げられたという報道もあったが、学生の代表が女性になったということから見て、非暴力の意志をそのまま貫徹する心づもりらしい。ハンガーストライキは、なおも続けられている。
天安門を埋めた学生・市民と、中国共産党との緊張は今や民主化を認めるかどうかという問題ではなく、自律した大衆の運動と統制・秩序を重んじる当局の面子とのぶつかり合いである。
僕は沸騰点に達しそうな過熱した状況をテレビ越しに見ながら、劇的な何かが起こる予感を持っていた。
それはあたかも報道がドラマ化し、そのことから当然展開されるであろう次幕への期待でもあり不安でもあった。このドラマは次幕で盛り上がらなければならない、そんな筋立てに沿っていた。

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