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イラッとする感情の裏には自分の本音が隠れている

「人って、自分が自分に禁止していることをいとも簡単にやってのける人を見ると、イラッとするものです」

という一文に出会った時、私は思わずこれだっと声が出た。
なーんだ、そうだよねえっと思えて、今までモヤモヤしていた気持ちがかなりラクになった。

そうやって思い返してみると、夫や仕事仲間や友人の言動で小さなイラッを感じた時も、ある意味、それは自分の本音を写す鏡だったのだということに気づいたのだ。

相手の行動にイラっとするのは、無意識のうちに自分で禁じている自分の本音がその行動の中にあるからなのだ。そこに自分の本音が一ミリも入っていなければ、多分、イラッとはしない。

例えば、雨の中を出かけてまで用事をするのは、正直面倒だ。でも、用事は必ず済ませなければならないと思い込んでいる私は、無理矢理、その本音を押さえ込んでいる。

そんな時に夫が、
「オレ、雨はどうしても苦手で外出できない」
と悪びれることもなくその用事を先延ばしにしているのを見たらどうだろう。

「私だって、雨の中を出かけるなんて億劫なのにっ」
と、自分が禁止している本音がざわつかないだろうか。

それでも表向きは何事もなかったかのように、雨の中を出かけて用事を済ませてしまうところが私にはある。

そうしてしまう理由はいろいろある。

用事は済ませるものという思い込み。
わがままは悪いことだと固く信じているから、気ままに振る舞う人と同じ種類の人間になりたくない。
正しいことをするいい子でいたい。

正しいことをすることは間違っていない。
当然だ、正しいのだから(笑)
でも、正しいからと言って、生真面目に必ずすべて今、その通りにやらなければならないということでもないはずだ。

くだんの夫だって、その用事がどうしても今、雨の中を出掛けてまでもしなければならないことなら、やっている。

要するに私は、正しいと思われること、人からいい子と思われることは、自分の本音を見て見ぬふりをして、半自動的にやってしまう癖がついてしまっていただけなのだ。

そうなった背景には、親のしつけや子供の頃の体験が複雑に絡んでいたりする。つまり、それくらい本音を抑え込まなければならない理由が少なくとも過去にはあったということだ。その環境の中で、頑張って自分を押さえ込む癖を身に付けた。

でも、本音が消えるわけではない。
嫌なものは、やっぱり嫌なままだ。

そうして大人になって、親の考え方も世間の目も冷静に判断ができるようになって、自分の本音に気づけるようになった。それが、あのイラッの正体なのだ。

我慢ができるというのは、素晴らしい能力のひとつだと思う。
何も我慢を100%やめる必要はない。我慢が必要な時はたくさんある。
ただ、我慢ができる自分を褒めつつ、状況に応じて、我慢の蓋を外して、もっと自由に生きてもいいということなのだ。

夫の代わりに雨の中を出かけて用事をすることが、イラッとせずにできるのなら、それをやれている自分を大いに誇りに思えばいい。

でも、イラッとする種があって、後々それを引きずりそうなら、その本音に従って行動をすればいい。

自分の行動に無理強いをすることは、誰も幸せにしない。

まずは自分が幸せになることを基準に行動すればいい。

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