「キョウハフタタビコヌモノヲ」(1)【連載小説】

 手のひらの中にすっぽりおさまった文庫本には、どぎつい真っ黄色の帯が巻かれていた。『TikTokで話題沸騰!』と書かれたその帯をはぎ取ると、とたんにその本は頼りなくてうすっぺらなただの紙の束になりさがってしまった。いざ改めて冷静に見直してみると、つるつるしたカバーの肌はたくさんの人の手に取られたせいで汗ばんでいたし、裏表紙についた開きグセも急に気になりはじめた。くたびれた税抜き780円の文庫本は、本屋の照明に照らされて情けなくテカっていた。よく見たら日焼けとシミもあった。

 それは、服を脱いだ彼氏をはじめて見た時を思い出させた。
 
 カーテンが閉じた、彼氏の部屋。暗闇と期待で目がちかちかしていた。静かに、それでいて乱暴に彼氏が服を脱ぐ。露わになったあいつの生白い肌には虫刺されがいくつかあって、あばらがうっすら浮いていた。ちぢれた体毛がまぶしたようにそこら中にくっついていて、あいつが靴下を脱いだ時には、気味の悪いむっとした汗のにおいが部屋中にたちこめた。黄ばんだベッドの上、私は何か大きな選択を間違えたと思ったけれど、もう時すでに遅しだった。「減るもんじゃなし」とわざわざ自分自身に言い聞かせなくちゃならなかったあのときの悲しみは、それから数週間、鉛の杭みたいに心に刺さりつづけてとりのぞけなかった。二時間もお互い粘るように気遣いあって、びっくりするくらいお腹が痛くなっていた。ずっと下っ腹を殴りつづけられた鈍痛と胸の痛みで正常な判断もなにもあったもんじゃない。私には、童貞をなくして浮足立っているあいつにコンビニアイスをたくさん買わせてやること以外に、この気持ちの発散方法を思いつけなかった。三つも買わせたゆきみだいふくは、当然私がぜんぶ食べた。やわらかくてひんやりつめたくて、初めて触れる男の身体がこんな触感とこんな色ならよかった、と唇を舐めながら思った。プラスチックの棒をもっちりした皮に突き刺す瞬間、自分の身体がそのピンクの棒で貫かれたような気がして、身震いした。

 二回目は、結局なかった。今あいつがどうしているのか全く知らない。

 さっきまでこの本に感じていた魅力が、ヘリウムみたいにシュウシュウ抜け出ていくのがはっきりわかる。つまらない男に騙された。つまらない装丁に騙された。そんな気がした。

 表紙のイラストの中では、すらりと手足の長い男の人が室外機に腰掛けてタバコを吸っていた。男の人は前髪で目が隠れていて、うすっぺらいペイズリーの柄シャツを着ている。絵の中の夜空に向かって、本のタイトルがアーチ状に書かれていた。『今日は、ふたたび来ぬものを』という、意味がありそうであまりない、ありがちなタイトルだ。最近の小説は、中身のなさをとりつくろうとして、タイトルばっかりどんどん長くなる。

 芥川賞にノミネートされたばかりのその本は、入り口に近い棚に山のように平置きされていた。

 もっと別の本にすればよかったかもしれない。うずたかく積み上げられた男たちはどれもまったく同じ顔をしていて、同じポーズをとって、同じ室外機の上に腰掛けている。つまり、どこにでもいる量産型だ。

 本当にいい男は、いちいち顔に汚い汗をかかないし、身の丈に合わない古着は着ないし、髪も長くない。それに、本当にいい本は、本屋の一番目立つところなんかに置かれていない。

 イラストの中の男が、黄色い歯をちらりとのぞかせた気がした。
 べこべこになってしまったカバーをぎゅっと押し付けて、私はその本をバッグの内側に放り込んだ。もうお金を払ってしまっていた。どんなに誠実でもそうじゃなくても、私が払ってしまったなけなしの税抜き780円を取り返すすべはもう何もない。何をどうあがいても、この本を読むしかない。私はもう取り返しがつかない場所にいる。あのときの、暗くて黄ばんだベッドの上と同じだ。今度は別の男といっしょに、もう戻れないところにやってきた。

 期待通りの腕だろうな? 私を満足させるだけのテクはあるんだろうな?

 バッグの上から平たいシルエットをバンと叩く。腹を殴られた文庫本が、なさけなくて愛しい悲鳴をあげた。


 駅店のブックストアから出ていくOLたちの顔はどれもくたびれていて、今が夜の九時台なのか十時台なのかを確かめる気力もなさそうに見えた。それなのに、みんな揃って「まだ九時だとうれしい」という顔をしていた。
   
 私は、タイル張りの駅構内を歩きながら、同僚たちの顔を思い出す。
 彼女たちはいつも、押し流される人生の中でかすかな希望を見だして、必死に笑っていた。令和の時代に韓国人の推しにすがりついて日々の辛さに耐えている彼女たちは、江戸時代に天草四郎にすがって戦った隠れキリシタンたちとなんにもかわらないし、たぶんそれが正しい生き方なんだろうとも思う。手の届かない世界を見つめてないと、すぐそばの息苦しさにたちまち囚われて食い殺されてしまうから、彼女たちはアクスタもチケットもタオルも買う。

 みんな、推しを求めてこの本屋にやってきた。
 きっと、情けない今日という日の終わりを少しでも知的なものにするつもりで本屋に来たんだろう。夜が近づいて毛穴が開きはじめたOLたちは、本棚から辻村美月を手に取って駅構内に戻っていく。

 綿矢りさ、金原ひとみ、町田その子、宇佐美りん、西加奈子、今村夏子

 女性たちのとっていく本は、どれも同じ女性の本ばかりだった。今にも爆発しそうな人生のひずみにそうっとメスを挿れて膿を取り出してくれるような、優しくて鋭い文章が上手い女性作家たちだ。

 私は、そんな波の内側に入りたいと思いながらじっと眺めていた。きれいな波だ。それなのに、私の手の中には、脂ぎったどうしようもなさそうな男が書いた本がある。

 みんな、助けてもらいたがっている。才能があって精神年齢が高くて、その上美しくて儚い仲間に、この掃きだめみたいな現実からひっぱりあげてほしいと思っている。きれいな美少年か、きれいな女性作家か、もしくは、そう、その両方に。

 私はためいきをついて、改札のまわりの人波を縫って歩いていった。OLたちが汚い男たちの視線を完全に無視しながら歩いていく。みんなパステルとベージュ色のマスクをして、切りそろえた並行眉をゆらしている。髪にはハリがあって毛先までキューティクルが整っている。

 私の手の中に、夢みたいな救済はどこにもない。あるのは、ただ何百枚かの紙の束だけだ。天国に続く蜘蛛の糸なんて、お話の中にしかない。


 ホームに降りると、ちょうど京浜東北線が滑り込んできた。真っ先に乗り込み、わずかな空席にすぐに座り込んだ。それから、『今日は、ふたたび来ぬものを』を膝の上に乗せて、大きくため息をついた。くしゃくしゃになった髪の長い男が、表紙からこっちを見上げている。

 作者の彼はインディーズ時代からカルト的な人気があるバンドのフロントマンで、コラム連載や映画評でもそこそこの評価を得てるらしかった。当然作詞作曲もするし、俳優業にも手を出している。ウェブラジオと配信でもいくつかレギュラーを持っているそうだ。今回の本は文學界で連載していた初の小説で、夜職の女性と暮らすバンドマンの話、らしい。なんだかんだ好評で、小さい賞を獲ったうえで芥川賞にもノミネートされている。

 ときどき、そういうタイプの人がいる。人間的魅力をどの媒体でも存分に発揮できて、どうしようもない自尊心と妬みをただよわせながらも、きちんとファンに崇拝されて愛されるタイプのアーティスト。どう考えても万人受けしないのに、必ず万人の心をざわつかせる器の深さを持つ男。あまたの女性たちに、積極的に金づるになりたいと思わせてしまう男。

 彼からは、いぶした若者の汚いにおいがする。

 私はマスクの上からゆっくり深呼吸をした。隣の座席で寝ているおじさんの加齢臭がたっぷり鼻の中でうずまいたけど、なんだか安心できた。目の前の表紙のフロントマンの口も、これくらい臭いといいな、と思った。それなら、胸をうずめられる。

 品川駅で人がたくさん降車して、また押し込められるように人が追加されていく。きれいな化粧をした子も、汚く禿げた大人も、みんな平等に息苦しそうだった。

 浜松町をすぎたあたりで心を決めた私は、ようやく一ページ目をめくった。その瞬間、指先からじんわりと血がこぼれだした。紙で指を切ったことに気づくまで、少し時間がかかった。真っ赤な気球に熱い空気を吹き込んだように、血だまりがみるみるうちに膨れ上がっていく。
 私は、しばらく自分の指先をほれぼれしながら見つめていた。

 はじめてのときに出る血にしては、なかなかキレイな方だった。

 私は鮮やかな赤を舌でなめとると、流れる夜景には目もやらずに、本を読み始めた。


                    *

             『今日は、ふたたび来ぬものを』

 

 人は、身体の中にいくつか他人を飼っている。
 頭の中に飼っているのが一番上等だ。
 
 何をしている最中でも、ふとした瞬間にそいつは考えの隙間に入り込んできて、あっというまに脳の歯車をギシギシ言わせて思考停止に追い込んでしまう。

 たとえば、別れたばかりのあいつが今なにをして笑っているのか気になって気になって、目の前の文字が目を滑ったままぜんぜん入ってこなくなったり、目の前のジョッキをどこに片づければいいのかわからなくなる。

 そういうとき、あなたは未練がましくその元カレを頭の中に飼っていることになる。せっかく居酒屋でゲロを拭き取って稼いだ金を使って総菜を買ってご飯を食べて脳に糖分を与えているのに、そのほとんどを頭の中に陣取ったそいつを考えることに捧げてしまう。もう彼はあなたに一円も使ってくれないし、一分だって会ってくれないのに、あなただけが、身を削って頭の中のそいつを生かしつづけている。

 この世にある苦しみは、だいたいあなたの頭の中にいるその人のせいだ。自分より生きやすそうな友達も、自分より思慮の深そうな友達も、みんなあなたが頭の中に飼っているだけの偽物で、その正体はバカなあなたのバカな妄想だ。

 あなたの人生は、そいつらにひどく苦しめられながら、醜く続く。

 

 例えば、あなたの腹の中には、あなたが食べた飯を生み出したその人が住んでいる。

 実家暮らしのあなたの腹の中には、あなたの母親が巣くっている。あなたの母親が丸一年かけてあなたを腹の中に宿して大きく育てたように、あなたは一人前の身体を持ってなお、未練たらしく母親を腹の中に宿してふくれている。

 生産者の顔が見えないつまらない総菜を買ったり、自炊に明け暮れているあなたは、その腹の中に寂しい自分自身を抱えていることになる。あなたはあなたの一部を腹に入れているだけだから、仮に満腹になったとしても、どことなく残るその孤独さに押しつぶされそうになる。洗い物の山を目の前にして、あなたは、あなたがどこまでも一人で歩き続けるしかないという事実に気が付く。人生は、自転車操業。バテたら、堕ちる。死ぬならまだしも、底辺で生きつづけることになるから厄介。

 ファミレスでやけに動きの堅い学生バイトに運ばれてきたイカ墨パスタを食った日には、そいつがあなたの腹の中で生きつづけるし、駅ナカで気持ちの悪いくらいの笑顔のおばさまに手渡されたサブレーを食えば、その人がお腹の中で微笑みつづける。

 なにが幸せなのか? それはあなたのお腹に聞くしかない。

 

 目の前の男の丸太ぐらいありそうなぶよっとした太ももにも、きっと誰かが宿っているだろう。彼の太ももには、細くて黒々した産毛がべとべととくっついていた。わたしは、そのちょうど間に挟まれるように顔をうずめている。ほっぺたの両側に生温かくてぺとっとした太ももの感触がして、なんだかベーグルみたいだな、と間抜けなことを思う。

 お互いの出す音が聞こえないよう店内に爆音で流れるヒットチャートと磨りガラスの敷居のせいで、この空間には、私と私の口の中のモノ以外何もないように思えてくる。

 今日のこの男の性器には、わたしが宿っている。目の前の性器は、最大まで硬くなっても大した長さにはならなかったけれど、それでも彼は必死に私の唇を押しのけるようにして、なんとか奥まで届かせようとしている。

 唾をためて、先端をいたわってやる。この男のためというよりは、乾燥したままだとわたしもつらいからだ。男の口からは、ううん、という蒸気のような息遣いがずっと漏れている。

 時折、軽く爪を立てて脚をなぜてあげる。彼が、ん、と低い声を出す。おおきなかたまりが、ぶるんと揺れる。
 とろんと溶けるような上目遣いで、彼の目を見つめてやる。あまりに長く見ているとわたしの方が萎えてくるので、ほどほどに。出すことに集中しすぎて天井を見つめているタイプの男も多いけれど、今回はそんなこともなかった。濁った白目がばっちり合った。

 しばらく惰性の時間が過ぎる。唇をぎゅっとすぼめたり、性器の側面にペンキでも塗るようにぐるりと舌を回転させたり、先をこすりすぎないように気を付けながら頭を素早く動かしたり。
 わたしは、自分がこのピンサロの客として座っているのをよく想像する。冷たいドリンクからしずくがしたたり落ちるその短い間に、わたしなら何度いけるか。

 彼が、突然わたしの頭をつかんだ。巡回中の黒服が一瞬びくっと肩を震わせてこちらを見たが、私はさりげなく大丈夫だとサインを送った。男の手は限りなく優しくて、力が抜けていた。少しコースを逸れたゴルフボールをそっとフェアウェイに戻すような手つきだった。体の中からほとばしる熱を、きちんとわたしの脳天にまっすぐ注げるように、彼の両手はわたしの頭を軽くピン止めするくらいの力で押さえている。

 男の中に飼われているたくさんの人間たちの声がする。そのほとんどが、喚き散らして地団太を踏んでいる。彼の中で消化しきれなかったひとたちの叫びが、彼の身体の中で暴れている。目の前の男の身体の中に住んでいるのは、会社の上司か、ボケた父親か、縁の切り方もわからない女か、もしくはその全部なのか、わたしにはわからない。ただ、その全員が、二度と顔も見たくないのに彼の体に巣くって離れないひとたち全員が、すべて真っ白な正常な欲望に濾過されて、わたしの口に流れ込んでこようとしている。

 ゴムの伸びたパンツの奥で、丸い塊がぐにぐにうごめいている。わたしはひたすら上下運動のペースを速める。自慰行為に慣れきった中年たちは、よっぽど素早くこすってやらないと、最後までいかない。責任でがんじがらめになった中年がとんでもない量の酒を飲まないと本音が言えないのとまったく同じ理屈だ。

 彼は、誰に対しても威張れないこの現実を忘れ去りたくて、わたしをはけ口にしてすべて注ぎきる。人間の尊厳が詰まった頭の中に自分の一部をつっこみ、自分の怒りを放出して、いっときの間だけでも、相手を支配したいと思うらしい。たぶん、それは男にとって健全な願いだ。女にとっても。
 自分だけが頭に人を飼って悩み苦しむなんて割に合わない。自分だって、誰かの頭に植え付けたい。自分という存在が、誰かの悩みのタネでありたい。

 ホモサピエンスの最大の特徴は、脳の容量の大きさだ。動物から人間に進化した代償として、ひとは、相手の子宮よりも、相手の頭の中に自分の一部を注ぎ込みたいと思う生き物になった。

  すごい、でたねえ

  ゆっくりと、口の中のものをティッシュにあける。

 彼は、それを見つめている。今日ここに来たのが正しかったのか間違っていたのか、不安そうな瞳をしている。薄っぺらいスーツの奥の身体が満足げに震えながら、冷や汗をかいている。

 事務的な雰囲気は、なるべく出さない。それがこっち側の礼儀だった。たとえそれがピンクサロンだろうとなんだろうと、男は余韻を楽しみたがる。わたしには、余韻をつくる義務があった。
 今、この瞬間だけはあなたに頭を支配されていますよ、ときちんと態度で伝えてあげる。静かに手を振って、目の前の男を夜の冷えた雑踏に送り返すまでは、わたしは脳を犯されたぼーっとした顔を作って、じっと膝をついている。
 もちろん、いつまでもぼんやりはしていられない。次の客がやってくる。私の脳は、新しい男を入れるために、すぐにからっぽになる。そして、はっと気が付いた時には、すべてが終わっている。

 すべては慣れの問題だし、わたしはもうとっくに慣れていた。

 チカハルとはじめて出かけたとき、わたしはまだ二十で、チカハルは五歳上だった。あのときのチカハルのバンドには、口約束レベルの契約を持ち掛けてきたスカウターがひとりだけいたけれど、結局ノルマを二回払ってくれたきり連絡が途切れていた。自分の才能について考えるのを辞めかけていたチカハルは、不思議と肌ツヤが良くて、それでいて無口だった。出会った頃の彼はいつも、歯を食いしばるように微笑んでいた。

 風が少し強い夜で、不思議と生ぬるい気温がわたしの足取りを軽くしていた。わきを通り抜ける車が吐く排気ガスの匂いも、チカハルがよく吸っているキャメルの匂いに似ている気がして、いちいち胸いっぱいになった。

「あ、レクサス」

 チカハルはポケットから手を出して、車道を軽く指さした。

「ホンダ?」

「ばか違うよ」とチカハルは黄色っぽい歯をゆらして呟いた。「ばか」という言葉が深刻に響かない関係を築けたかどうか、確かめているみたいに優しかった。

 しばらく歩くうちに、わたしたちはもう何も話すことがないことにお互い気づいていた。お互いが気づいていることにも、はっきり気づいていた。

 話せなくても一緒にいるだけで楽しい、なんてことはありえなかったし、あなたのためなら退屈も我慢できる、というほど上から目線にはなれなかった。たぶん、「チカハルと一緒にいるためなら、今この時間を心底楽しいと思い込むことができる」というのが一番近い気がした。チカハル、あんたのためなら、わたし、自分を騙せるかもしれない。

 ふっと顔をあげると、そこには生白い首筋をあらわにした彼が歩いていた。

 チカハルは少し伸びた無精ひげをさすりながら、道に張り出した石垣を見つめてふらふら歩いていた。いつ見ても、切れ長で黒々した目じりは姿のない何かに怒っているように見えた。

 今日のご飯代もなにもかも、チカハルが奢ってくれていた。年も上だし、チカハルは学生じゃないし、何より男なんだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。ただ、それが当たり前だと思えたらどんなに楽だろうな、と思った。私が金を出そうとするといつも、チカハルはむきになってそれを押しとどめた。財布をしまいながら、かたちだけでも大人ぶりたいチカハルの心の内側を思うだけで、わたしは虫唾が走るくらいの愛しさを覚えた。

 わたしたちはそうやって、ひたすらお互いのことを考えながら歩いて歩いて、大きな垂れ下がった桜の木に出会った。気味悪くライトアップされ、薄くにじんだピンクの大木は、すぐ下のお堀の水面の中でふつふつとゆらめいていた。

 グロテスクなくらい巨大すぎる千鳥ヶ淵の夜桜が、風に散っていった。
 わたしたちはどちらともなく足をとめた。

 大きな透明な手にすくいあげられた無数のはなびらが、わたしたちの目の前を吹き荒れて突っ切っていった。あまりに多すぎて、大所帯の渡り鳥の群れに見えた。はなびら一枚一枚が焼けたように明るく光っていて、水面に落ちるたびにシュウと花火を水に突っ込むような音が鳴っている気がした。

「うわ」

 チカハルは小さく呟いて、そのまま錆びた欄干に腕をかけた。

「すごい」とわたしも重ねるように呟いた。
 言の葉は宙に舞って、また無言になった。

 すべてのはなびらが散り終わるまで優に三分はかかったような気がした。
  
 あのとき、わたしたちは「綺麗だね」とは言わなかった。あの瞬間に散った桜のはなびらは確かにキレイだったかもしれないけれど、それよりも、どうしようもなく、何かの終わりの匂いがした。

 

 

 わたしは少しだけ強がっていた。

 わたしは今、あのときのはなびらだ。

 わたしは客を待ち構えているわけじゃない。風に吹き流されるはなびらと同じで、わたしの方が店内をぐるぐるぐるぐる回らされて、次の場所へと移動する。その男に気に入られなければ、わたしは次の場所へと回されて、また次の場所へ流されていく。そういうシステムで、この空間は回っている。

 あのときの千鳥ヶ淵は、くるくる回って踊らされた末に水の中に沈んでいったはなびらたちであふれかえっていた。彼女たちの叫び声は深い水の底で全反射して二度と水面に上ってくるこなかった。たとえ聞こえたとしても、それは風情という言葉で片づけられておしまいになる。
くるくるくるくる、いいように使われたわたしたちの、名残。
 
 
                    *

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?