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短編「雨のちくもり」

 三時間かけて小説を読み終わり、顔を上げる。右目の大きなものもらいが存在を主張するように瞼の動きを妨げ、目の位置がひどく下にあるように感じる。小説に引っ張られた思考で頭の中がぐわんぐわん揺れていて、開け放した窓から雨の降る音と、その雨の上を車が通っていくざあっという音が聞こえる。静かで、雨のせいで鈍く痛む頭がぼうっと、ものを考えることを拒む。
 そういえば、と思う。そういえばこの間、婦人科に行った日もこんな雨だった。考えたくないと思えば思うほど、脳は婦人科での出来事を鮮明に思い描こうとする。重い頭を左右に振ってみるが、その重さを思い知らされただけで、その思考はどこにも飛んでいってくれない。先ほど読んだ小説の主人公の女も、わたしと同じように考えたことがあるだろうか。恋人と呼べる人がいなくても、三十五を過ぎていても、人生を謳歌しているらしい小説の主人公は。

「子どもがほしい」

 三十六の誕生日を迎えたあと、次の誕生日を迎えるまでの一年間、取り憑かれたようにそのことばかり考えるようになった。毎晩飲んでいたアルコールもやめ、食事にはこれまで以上に気を使った。豆類やごま、わかめなどの海藻類、野菜は特に緑黄色野菜、肉よりも魚、しいたけなどのきのこ類、それから芋類。いわゆる「まごわやさしい」を中心にバランスの良い食事を心がけ、運動も大事だと医者や友人に言われて仕事終わりに週二回、休日に週一回はジムに通った。職場でも家でも、真夏以外は綿一〇〇%の腹巻をつけ(最近はスタイルに響きにくい薄手で暖かなものがたくさんある。)、素足でいたいのを我慢して足首が冷えないよう靴下も毎日履いた。眠れない日は卵子凍結のことや精子バンクのことなんかを調べて余計に眠れなくなったりする日もあったけれど、それでも、その暮らしのおかげか鏡を見るたびに顔色は良くなっているのだった。

「それで、結局、どうなったんですか?」
 目の前に座る男が、いかにも真剣だというような目でこちらを見つめたまま前のめりになって聞いてくるのを、由紀子は好ましく思いながらも少し目を伏せる。口に含んだレモンサワーが冷たい。この一年、毎週お世話になっていたパーソナルトレーナーである佐々木が転職するというのはしばらく前から聞いていたが、今日が最後の出勤だというのでなんだか名残惜しく、せっかくだからという枕詞とともに、ジムに近い駅前のおいしい居酒屋に誘ったのだった。
「まあ、今ここでお酒を飲んでるのが答えですよねー」
「そっか、そうですね」
「あ、でもいいんです。望みは最初から薄かったし、なにせ恋人もいないですし。むしろ誰かに聞いてほしかったから、嬉しいです。貴重な機会」
 少しお酒が回っているのか、余計なことばかり言っているのかもしれない。それでも口角を上げてみせると、佐々木はほっとしたように微笑んだ。
「僕、パーソナルトレーナーしてるのに、ダメですよね。どうも鈍感で。由紀子さんがそんなこと考えながらジムに通ってたなんてことも、思いもしませんでした」
「隠してないとはいえ、誰にも言ってなかったですし……。だって、三十六の、自分で言っちゃあれですけど、バリキャリウーマンってやつ?が、恋人もなしに突然子どもほしいなんて、どうかしたのかなって、周りの人は思うだろうし」
「それは……言えてますね。あ。僕はもちろんそんなこと思わないですよ。でも、僕も三十五にして突然カメラマン目指すなんて言って……」
「え、カメラマン?」
 そうなんです、と言いながら照れたように笑う佐々木は、きっと鈍感で繊細な写真を撮るのだろう。
「カメラマンになったら、ぜひその写真、見せてください」
 佐々木の撮った鈍感で繊細だろう写真を、なぜだか強く見たいと思う。
「え?ええ、もちろん。もちろん、見てください」
 筋肉質の大きな男が戸惑い、恐縮しながらも力強く頷く様はなんだかおかしく、すると佐々木もつられたように笑う。
「久しぶりかもしれません。こんなにいい気分なの」
 アルコールがほとんど一年ぶりというのもあるのかもしれないけれど。心の中でそう付け足しながら、なんとなく前向きになれたような気持で、由紀子は手元のサワーを飲み干した。

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