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短編「人生の1ページ 」

 泣き疲れたのか、いつの間にかソファで眠っていたらしい。ビニールのこすれるような音がかすかに聞こえて目を開けると、夫がエコバッグから出した総菜を食卓に並べているのが見える。
「あ、起きた。明太子サラダ、好きなやつ、買ってきたよ。食べる?」
 夫の優しい声と言葉がぼやけた頭に意味を成して流れ込んで来て、もう出ないと思ったはずの涙がまた、不意に込み上げてくる。
「今回も……」
 ソファで横になっているわたしの前にしゃがみ込んだ夫が、わたしの左手に握りしめられたままの妊娠検査薬をじっと見つめたあとに数秒だけ、自分の顔を手の平で覆い、気持ちを切り替えるように顔を上げ、わたしの頭を大きな手の平で撫でる。「ダメだったのか」と言わない夫の気遣いと手の平のあたたかさに、また涙腺が緩む。
 もう何度目かわからない陰性に、ありがちな表現だとわかっていても「お前は欠陥品だ」と烙印を押されているような錯覚に陥る。先月は、夕食中にテレビで流れた「シロイルカの出産」というニュースを見て泣いた。同じ哺乳類なのに、なんでシロイルカは妊娠できてわたしは妊娠できないのだろう。

以前、まだ友人に相談できていたころ(今は自分が不妊治療中だなんてことはだれにも言いたくない)、「夫にも検査してもらったら?最近は男性にも不妊ってあるらしいよ」と言われ、自分の身体だけが欠陥品でなかったとしたら少しは気持ちも楽になるだろうかという邪な気持ちもあって夫にお願いすると、あっさりと検査に同意し、あっさりと検査へ行き、あっさりと自分は不妊ではなかったらしいと帰ってきたのだった。

「まあほら、子どもは授かりものだから。妊活やーめた、なんて思って諦めた矢先に授かったりするもんよ」
 次の日実家に帰ると、もう何度言われたかわからない言葉を明るい口調で言われ、昨日の涙がまた吹き上げそうになるのをこらえる。
「あんたはパソコン仕事だし、一日中目を酷使して、座りっぱなしで、血流が滞ってるのよ。せめて、プライベートの時間は楽しく体を動かしたりして、とにかく妊活以外のことを考えなさい。旦那と海外旅行するもよし、映画館に行くもよし、子どもができたらしばらくはできないことを満喫する。それが妊活の第一歩よ」
 わかった?と念を押す母の明るい声が見慣れた子供部屋の壁に反射して、追い詰められたような気持ちになる。高校三年生のとき、滑り止めにと思って受けた私立大学がすべて不合格だった時のことを不意に思い出し、あのとき流した涙が妙に滑稽なものに思えて、きっと今この瞬間の涙もそうなるのだろうとなぜだか確信めいた気持ちでため息をついた。

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