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1. 七人だけが聴いた昭和初期のクラシック演奏会


 ANAの機内アナウンスで本から目を離し、窓外をみると深青の海が横たわっていた。日差しが、波立つ絹の上に注がれて静寂を映している。

 2020年。混沌とした焦燥感とともに、何をさしおいても手放したくないものを自覚した半年をいま振り返っていた。旅の活力が、わたしのこれからの方向性と、核心を教えてくれるような気もして、どうしても由布岳の里を訪れてみたかった。

 同伴者は、日本の東西に別れて暮らし4年目になる娘のN。年に1・2度の旅が親子を結ぶささやかな習慣となり、私の喜びでもあったのだ。

 福岡空港から由布院まで高速バスに乗り約90分。黒い駅舎には人も電車も抜きとられ、いやに閑散としていた。7月の豪雨災害で山間部が崩れ、「日田(日田市)-向之原間(由布市)の交通網は遮断されている」と土産物屋の店主がぼやいている。気温は37度をとうに超えている。入道雲がぽっこり浮いたまま流れていかない。湯の坪街道から金鱗湖の標識を目印に20分近く歩くと、せせらぎを越えたあたりでみどりが濃くなり、「亀の井別荘」がみえてきた。


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 茅葺きの門をくぐると禅寺のような素朴で厳粛な空気だった。

 風呂に浸かれば透明でやわらかく、どれだけ浸かっても湯あたりしそうもない。由布岳からの山水をそのまま沸かしたような透明感のあるやさしい泉質だった。セミが風呂場に飛び込み、湯桶の側で鳴くのもいい。

 「風の畑から供する」。これが今夜の食のテーマという。奇をてらわない素材本位の味つけ。炭火で焼いたおおいた和牛は歯をたてれば柔肌のように崩れおち、肉質は濃く、乳の匂いが微かにした。


2階の天井窓から黄色い月がみていた


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 確か、旅館の案内人は、館内を案内する時にこう説明していた。「象の置物を置いております。これは道標、外廊下では5頭の象を辿っていけば談話室です」と。

 扉を引くと、ハシゴ付きの壁一面の書庫。圧巻だった。往年の作家たちの初版がガラスの下までずらり。新刊などどこを探してもない大人のライブラリー(談話室)は、今回の旅の楽しみにしていたひとつだ。全員マスク姿の観衆を前に、昭和10年製の蓄音機キングが金のアサガオのようにラッパを広げていて、「あれは、ラ・カンパネラ!」と娘のN。リストの真骨頂!音がやわらかな水になって耳に飛び込んできた。

 「さ。お好きな曲をリクエストなさってください」と宿の主人が小さい声で、私たちにささやく。

 浴衣姿の客人をよく見ると、レストランでお見かけした2組だ。赤い眼鏡をかけた教師風の女性は40歳半ばくらいだろうか。ご主人も眼鏡をかけ地方教授のよう、同じ空気を纏って、浴衣の裾から出た下駄の脚でリズムをとっていらした。もう一人は、中央の応接椅子に堂々とした貫禄で座る中年紳士。猫背だから繊細なエンジニアか。レストランでは赤ワインをボトルで注文されていて、おとなしそうな妻をリードする健啖家だとお見受けした。

 今度は、クライスラーの「ウィーン奇相曲」。くぐもった強い音。遠い過去から降ってくる旋律だ。デジタル特有の金属的な音はなく、唱うような音色で情感に訴える。一曲約10分。終われば裏返して聴くSP盤らしく、一枚を演奏し終えると、新しいレコード針に備える贅沢仕様だという。

 私と娘は、ドビッシィー「アラベスク第1番、2番」をリクエストした。次は眼鏡のご夫婦がヘンデル「ラルゴ」をリクエスト。う、うんという咳払い。浪々と大音量の中にある静けさ。音の雨がコロナ禍で偶然に出会った人たちを濡らす。

 深夜10時になった。「最後の曲です」との呼びかけに宿の主人の推薦曲を、と私はリクエストした。

 長いタメのあと、レコード針を〝竹針〟に替えて、バッハの「無演奏チェロ組曲、第3番ハ長調」が溢れ出した。またひとつ音の原風景に近づく。余韻が談話室に波となって響きわたり、自分のふるさとにかえってきたような安らぎが私の中に陰翳を刻んでいく。

 忘れ得ない時間。音楽と本だけに包まれた夜だった。

 翌朝5時。朝霧の中、娘をおいて一人で散歩へ出た。竹箒で庭を掃く作務衣姿の人。宿の人だろう、日に焼けた老人だった

 「部屋からずっとこの木をみていました。木をみるだけで、まるで由布岳そのものをみてる気がして、夜も朝もみていました」「樹齢120年のイチョウですな。二股に分かれているのは夫婦杉。神社にありそうな木々ばかりでしょう。昔はここの敷地も、金鱗湖のほとりにお祀りされている天祖神社の境内でして……」。

  なるほど、とわたしは胸を打たれる。ここに来てから湖畔での散歩も、蓄音機の演奏会でも、沈黙の声をわたしは感じていた。由布岳からの朝の風が、いまここにおわしていた。さあ、これから由布岳の下を散歩にでよう!


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