見出し画像

躁うつ日記#7 お医者さんは探偵ではない

ここ2週間、いや下手したら1ヶ月くらい、右くるぶしが痛いまま放置していた。歩いたり、少し捻るような動作をするとちょっと痛い、くらいだったので、そのうち治るかな〜と思ってそのままにしていたら治る気配がなく、重い腰をあげて整形外科に行った。

レントゲンを取ってもらっても正常。痛みのきっかけとなるような出来事もなく、普段足を酷使するような動作をしているわけでもなく。

「んーーーなんでしょうね。強いて言うと足首がちょっと硬いみたいなので普段から足首を回してあげてください。気になるようでしたらまた2週間後くらいに様子を見せに来てください」と言われ、ロキソニンテープをもらって帰ってきた。

うーーーん。結局よく分からなかったな……先生も首傾げてたし、病院にかかるまででもなかったかな……となんだか少し恥ずかしい気持ちを感じながら足首をくるくる回す。やっぱり少し痛い。

最近、さまざま科を受診して感じることがある。

それは、お医者さんは「分からない」ことを「分からない」ままにし、それを率直に伝えてくれる正直さがある、ということだ。

そりゃもちろん、その態度には、テキトーな診断名をつけることは危険だからテキトーなことは言えない、という、社会的なリスクや責任を負っているからという背景があるのだろう。

だが、たとえば普段の生活においては、自分の悩みについて「ズバッと言ってくれる気持ちよさ」を求めていたり、反対に、自分が相手にヘルプを求められた時には「なんか役に立たなくては」精神が先立ち、とりあえずそれっぽい結論を出しちゃう、みたいなことは結構あると思う。そして、実際にそういうある種の親切さ、優しさみたいなものが沁みる時もある、と思う。

お医者さんはその点、原因について様々な推測を立てながら検査したり、質問してくれたりなど試みてはくれるが、「分からないことについては分からない」とハッキリ線引きし、同時に、「また様子を見せて」と、次に会うことも排除しない。

このバランスが、仕事として人と付き合っていく上で大事なのかもしれないな〜と思った。

探偵はズバッと犯人を見つけてくれるし、解決したら今後はもう会わないわけだけど、お医者さんは私の問題を絶対に解決してくれると約束する人ではないし、一回こっきりの出会いではない(かもしれない)人なのだ。まあ、一回で全てがOKになったら言うことないんだけど。

精神科に通い初めた頃は、限られた時間でいかに自分の苦しさを訴え、「的確な」薬を出してくれることに命を燃やしていた。

でも、実際に通い続けるなかで、微妙に服薬の量を変更したり、飲み方を変えてみたり、自分のコンディションをある程度の期間様子を見てみたり、ということをしないことには分からないことがある、ということを実感している。一進一退は、必要な過程なのだ。

次の精神科の診察では「特に大きなこともなくすごしてますね〜」と、伝えられる自分になっていたい。でも、やっぱりいっぱい相談するかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?