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「夜の星屑の桜いろ」 第一章 ~星降る夜の帰郷~


登場人物

  • 藤井 悠介(ふじい ゆうすけ):主人公。二十八歳。都会のストレスから逃れるために名古屋の八事に戻る。物静かで内向的だが、深い思いやりを持つ。音楽が好きで、祖父からもらった古いギターを愛用している。

  • 桜井 結衣(さくらい ゆい):菜月の妹。二十六歳。姉を事故で失ったショックから人付き合いを避けてきた。内向的で、空想の世界に浸ることが多い。星空を眺めるのが好きで、アマチュアの天文愛好家でもある。

  • 桜井 菜月(さくらい なつき):悠介のかつての恋人。故人。明るく活発で、誰とでもすぐに打ち解ける性格。四年前の交通事故で亡くなった。

  • 藤井 健一(ふじい けんいち):悠介の祖父。故人。多趣味で、特に星空観察を愛していた。悠介にとっての精神的な支えであり、遺品の中に多くの天文書や観測記録が残されている。

  • 山本 拓也(やまもと たくや):悠介の幼なじみで、地元のカフェを経営している。陽気で社交的。町の情報通で、悠介が戻ってきたことを喜び、色々と世話を焼く。

プロローグ: 東京の星なき空

2024年7月31日、水曜日。東京の夜空は、いつもと変わらず光に溢れていた。高層ビルの窓から漏れる明かりが、まるで地上の星座のように瞬いている。だが、本物の星は一つも見えない。

藤井悠介は、オフィスの窓際に立ち、ため息をついた。パソコンの画面には、まだ完成していない企画書が開かれたままだ。締め切りは明日。けれど、頭の中は真っ白で、何も浮かんでこない。

「星が、見たいな」

ふと、そんな思いが胸をよぎった。そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、実家からのメッセージ。祖父が亡くなったという知らせだった。

悠介は、スマートフォンを握りしめたまま、もう一度夜空を見上げた。そして、決意した。 「帰ろう。星の見える場所へ」

シーン1: 八事駅、懐かしい風景

名古屋の八事駅に降り立った瞬間、悠介の鼻腔をなつかしい空気が満たした。東京の喧騒とは違う、どこか懐かしい匂い。土の匂い、木々の匂い、そして、星空の匂い。

改札を出ると、目に飛び込んでくる駅の案内板。よく見ると、その形が北斗七星を模していることに気づく。悠介は思わず微笑んだ。

「ここは変わっていないな」

祖父の家への道を歩き始める。夜の街並みは、悠介の記憶の中にあるものとほとんど変わっていなかった。ただ、少しずつ星が見え始めていることに気がついた。

コンビニの前を通り過ぎる。高校時代、よく友達と集まってアイスを食べた場所だ。公園の鉄棒。小学生の頃、逆上がりの練習に明け暮れた思い出が蘇る。そして、あの交差点。菜月と初めてキスをした場所。

思い出が次々と押し寄せてくる。悠介は立ち止まり、深呼吸をした。

ふと、空を見上げると、そこには東京では決して見ることのできない星空が広がっていた。オリオン座、カシオペア座、そして、北極星。

「ただいま」

悠介は小さくつぶやいた。星たちが、静かに瞬きながら彼を迎え入れてくれているようだった。

歩みを進めるにつれ、星空はより鮮明になっていく。東京では見ることのできなかった星々が、次々と姿を現す。悠介は時折立ち止まっては、首を傾げて星空を見上げた。

「ここにいると、まるで時間が止まったみたいだ」

そう呟きながら、悠介は自分の心が少しずつ癒されていくのを感じた。東京での慌ただしい日々、締め切りに追われる毎日、人間関係のストレス。それらが、星空の下でゆっくりと溶けていくような感覚。

祖父の家に近づくにつれ、懐かしい風景が次々と目に飛び込んでくる。小学校の頃、よく遊んだ公園。中学時代、友達と秘密基地にしていた古い倉庫。高校の帰り道、菜月と二人で歩いた並木道。

それぞれの場所に、思い出がこびりついている。嬉しかったこと、悲しかったこと、恥ずかしかったこと。すべてが、この町での生活の一部だった。

悠介は歩きながら、ふと立ち止まった。ポケットから古びたギターピックを取り出す。祖父からもらったものだ。

「おじいちゃん、僕は帰ってきたよ」

星空に向かって呟いた言葉が、夜風に乗って消えていく。

シーン2: 祖父の家と山本拓也との出会い

祖父の家が見えてきた。月明かりに照らされた庭には、季節の花々が静かに揺れている。藤の木は相変わらず大きく、その枝葉が家の一部を覆っていた。

そして、屋根の上に、小さな天体観測ドームを見つけた瞬間、悠介の胸が締め付けられた。祖父がどれほど星を愛していたか、改めて思い知らされる。

「おお!悠介じゃないか!」

振り返ると、見覚えのある顔があった。山本拓也だ。相変わらずの笑顔で近づいてくる。

「拓也か。久しぶりだな」

「うん、四年ぶりかな。祖父さんのこと、本当に残念だった。最後まで星を見ていたんだぜ」

拓也の言葉に、悠介は複雑な表情を浮かべた。

「そうか...最後まで元気だったんだな」

「ああ。最後の晩も、『今夜は流星群が見られるかもしれない』って言って、屋上のドームに登っていったよ」

悠介は黙ってうなずいた。祖父らしい最期だ。

「じゃあ、俺はこれで。また明日にでも寄るよ」

拓也が去った後、悠介は深呼吸をして家の中に入った。

玄関を開けると、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れる。

部屋の中は、まるで小さな宇宙博物館のようだった。星座をモチーフにしたカーテン、天体儀のテーブルランプ、月の満ち欠けを表した掛け時計。どれもこれも、祖父の存在を強く感じさせる。

悠介は、ソファに腰かけた。テーブルの上には、天文学の専門書が積み重ねられている。その隣には、祖父が使っていた古い双眼鏡が置かれていた。

手に取ってみると、レンズにかすかな指紋が残っている。きっと、祖父が最後に使ったときのものだろう。悠介は、その双眼鏡を胸に抱きしめた。

祖父の書斎に足を踏み入れる。壁一面に並べられた本棚には、天文学の専門書が所狭しと並んでいる。机の上には、半分書きかけの観測日記。最後のページには、「今夜、ペルセウス座流星群」という走り書きが残されていた。

悠介は、祖父の椅子に腰かけた。机の引き出しを開けると、中から一枚の写真が出てきた。幼い頃の自分と祖父が、望遠鏡を覗いている姿。裏には、祖父の筆跡で「悠介、初めての星空観察」と書かれていた。

「おじいちゃん...」

思わず、声が出た。懐かしさと悲しみが、波のように押し寄せてくる。

遺品の整理を始めながら、悠介は祖父との思い出を一つずつ思い返していた。初めて星の名前を教えてもらったとき。流れ星を見て、一緒に願い事をしたとき。天体望遠鏡の使い方を教わったとき。

それぞれの思い出が、まるで星座のように、悠介の心の中でつながっていく。

シーン3: 結衣との予期せぬ再会

遺品の整理を始めて数時間が過ぎた頃、悠介は庭に出てみることにした。夜風が心地よく頬をなでる。

ふと、庭の奥で人影を見つけた。望遠鏡を覗いている後ろ姿。女性のようだ。

「誰...?」

声をかけようとした瞬間、女性が振り返った。

「悠介...さん?」

月明かりに照らされた顔。それは、桜井結衣だった。

「結衣...」

言葉が出なかった。菜月の妹。そう、菜月が亡くなってから会っていなかった。

「あの、私...祖父さんから、星を見せてもらっていて...」

結衣の声は、か細く震えていた。

「そうか...祖父は、君にも星を見せていたんだね」

二人は、しばらく無言で立ち尽くした。星空だけが、静かに輝いている。

「あの...北斗七星、覚えてる?」結衣が、おずおずと口を開いた。「私たち、子供の頃によく探したよね」

悠介は、懐かしい記憶が蘇るのを感じた。

「ああ、覚えてる。菜月が、いつも最初に見つけてたな」

菜月の名前を口にした瞬間、二人の間に静寂が落ちた。

「私ね、姉が亡くなってから、毎晩星を見るようになったの」結衣が、静かに語り始めた。「星を見ていると、姉がそこにいるような気がして...」

悠介は、結衣の横顔を見つめた。星空を背景に、儚げで、でも強い意志を感じさせる表情。

「天文学って、素晴らしいと思う」結衣は続けた。「私たちは、何億光年も離れた星の光を見ているんだよ。過去の光を、今見ているんだ。だから...」

「だから、菜月もどこかで輝いているかもしれない」悠介が、結衣の言葉を続けた。

結衣はうなずいた。その瞬間、一筋の流れ星が夜空を横切った。

悠介の胸の中で、何かが動いた。懐かしさと新しさが混ざり合ったような、不思議な感覚。

菜月への思いと、結衣への新たな感情。それらが、星空の下で静かにうねりはじめる。

「結衣...これからも、一緒に星を見ていいかな」

悠介の言葉に、結衣は小さくうなずいた。

エピローグ: 夜空に輝く新たな星

悠介と結衣は、庭に寝転んで星空を見上げていた。満天の星が、まるで二人を祝福するかのように瞬いている。

「ねえ、悠介さん。また流れ星!」 結衣の声に、悠介も目を凝らした。確かに、一瞬だけ光る軌跡が見えた。

「うん、見えた」

悠介は、胸の中に芽生えた温かい感覚に気づいた。故郷への愛着。そして、結衣との再会が意味するもの。

「明日も、星を見よう」 悠介がつぶやくと、結衣は静かにうなずいた。

新しい章が、始まろうとしている。それは、星々が見守る中で、ゆっくりと、でも確実に。

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