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「最後のページをめくるとき」第2章 ~謎の和紙~

登場人物

吉田雅子(70歳)
和紙に記憶を漉き込む最後の継承者。認知症の進行で、自身の記憶だけでなく、先祖代々の記憶も失いつつある。

吉田美咲(45歳)
ミステリー作家。幼少期のトラウマで和紙に触れられない症状があり、家業から逃げるように家を出た。

吉田香織(42歳)
考古学者。古文書の修復技術を学んでいるが、家伝の和紙の力を科学的に証明しようと奮闘している。

吉田健太(39歳)
神経科学者。記憶と感情の関係性を研究しているが、家伝の秘密を知らない。

佐藤明(75歳)
元神主で陰陽師の末裔。吉田家の秘密を唯一知る外部者で、雅子の守護者的存在。

謎の和紙

朝靄の立ち込める吉野の山間に、吉田家の古い屋敷が佇んでいた。朽ちかけた門柱に「吉田和紙」の看板が掛かっている。かつては名だたる和紙職人の家系として栄えたこの家も、今では静寂に包まれ、時の流れだけが過ぎていくようだった。

美咲は玄関先で深呼吸をした。幼い頃から慣れ親しんだはずの木の香りが、今では妙に鼻につく。隣では香織が静かに立っていた。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

香織の声に、美咲はハッとして我に返った。

「ええ、平気よ」

そう言いながらも、美咲の手は小刻みに震えていた。和紙に触れられない症状は、今でも彼女を苦しめていた。

玄関を開けると、懐かしい畳の香りが二人を迎えた。しかし、その香りにも埃っぽさが混じっている。長年人の気配がなかったことを物語っていた。

「ただいま」

二人の声が、がらんとした家の中に響いた。

「おかえりなさい」

応えたのは、母・雅子の声ではなく、佐藤明だった。

「お二人とも、よく来てくれました」

佐藤の目には、安堵の色が浮かんでいた。

「母は?」美咲が尋ねた。

「2階で休んでいます。少し前まで起きていたのですが…」

佐藤の言葉に、美咲と香織は顔を見合わせた。母の状態が思わしくないことは、電話で聞いていた。しかし、実際に会うとなると、どう接していいのか戸惑いを感じる。

「健太は?」香織が尋ねた。

「もう到着しています。蔵の方を見ていますよ」

その言葉に、美咲は眉をひそめた。

「蔵?あそこは…」

「ええ、長年封印されていましたね」佐藤が静かに頷いた。「しかし、雅子さんの指示で開けることになりました」

美咲は言葉を失った。あの蔵には、幼い頃から近づくなと言われ続けてきた。そこに何があるのか、誰も知らなかった。あるいは、誰も知ろうとしなかった。

「行ってみましょう」

香織の声に、美咲は我に返った。

二人は佐藤の後に続いて、庭を横切っていった。庭の手入れは行き届いていないようで、雑草が伸び放題だった。それでも、かつての美しさを偲ばせる風情は残っていた。

蔵に近づくにつれ、美咲の足取りは重くなっていった。幼い頃の記憶が、断片的に蘇ってくる。和紙に触れた瞬間の恐怖、そして母の悲しげな顔。美咲は首を振って、その記憶を払いのけようとした。

蔵の前に着くと、そこには既に健太が立っていた。

「よう、姉さんたち」

健太は軽く手を挙げて挨拶した。その目には、科学者特有の好奇心が宿っていた。

「中を見てきたけど、すごいよ。想像以上だった」

健太の言葉に、美咲と香織は顔を見合わせた。

「どういうこと?」美咲が尋ねた。

「自分の目で確かめてよ」

そう言って、健太は蔵の扉を開いた。

中に入ると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。棚には無数の和紙の束が、年代順に丁寧に並べられていた。その数は千年分にも及ぶようだった。

「これが…吉田家の歴史」

香織が畏敬の念を込めて呟いた。

美咲は入り口で立ち止まったまま、中に入ろうとしなかった。その様子を見た佐藤が静かに語りかけた。

「美咲さん、恐れることはありません。これらの和紙は、あなたたち家族の歴史そのものなのです」

美咲は深呼吸をして、ゆっくりと一歩を踏み出した。

健太は興味深そうに和紙を観察していた。

「これらの和紙、普通のものとは明らかに質感が違う。何か特殊な製法があるのかもしれない」

そう言いながら、健太は何気なく一枚の和紙に触れた。

その瞬間だった。

健太の目が大きく見開かれ、体が硬直した。

「健太!」

美咲と香織が駆け寄ろうとした瞬間、健太の口から言葉が漏れた。

「川…川の音が聞こえる。そして、和紙を漉く音…」

健太の目は焦点が合っていなかった。まるで、別の世界を見ているかのようだった。

「そこに…誰かいる。着物を着た男性だ。彼が…和紙を漉いでいる」

健太の言葉に、美咲と香織は息を呑んだ。

「江戸時代…だ。そう、間違いない。これは江戸時代の吉田家の光景だ」

数秒後、健太は我に返った。彼の額には汗が浮かんでいた。

「今の…なんだったんだ?」

健太の声は震えていた。科学者としての彼の世界観が、大きく揺らいだことは明らかだった。

佐藤が静かに口を開いた。

「それが、吉田家に伝わる和紙の秘密です」

三人は息を呑んで佐藤の言葉に耳を傾けた。

「吉田家の和紙には、不思議な力があるのです。家族の強い感情や重要な記憶を和紙に漉き込むことで、後世の人々がその和紙に触れた際に、その記憶や感情を追体験できるのです」

一瞬の沈黙の後、健太が口を開いた。

「佐藤さん、それは科学的に証明されているんですか?」

「いいえ、この秘密は代々厳重に守られてきました。科学の目にさらされることはありませんでした」

今度は香織が疑問を投げかけた。

「でも、なぜ今そのことを私たちに?」

佐藤は深くため息をついた。

「雅子さんの認知症が急速に進行しています。彼女は、この特殊な技術を完全に習得した最後の継承者なのです。彼女の記憶が失われれば、この千年の歴史も消えてしまう…」

美咲は黙って佐藤の話を聞いていたが、突然立ち上がった。

「私には信じられません。そんな荒唐無稽な…」

「お姉ちゃん、落ち着いて」

香織が美咲の腕を優しく掴んだ。

「確かに信じがたい話だけど、佐藤さんにはウソをつく理由がないでしょう」

健太も冷静に状況を分析していた。

「仮説を立てて検証する必要がありますね。この現象が本当だとすれば、科学的に非常に興味深い」

美咲は再び和紙の束を見つめた。そこには、千年の歴史が眠っている。そして、その中には自分の知らない家族の記憶も…。

「私も…触れてみたい」

美咲の言葉に、皆が驚いた表情を浮かべた。

「でも、お姉ちゃん。和紙に触れられないんじゃ…」

香織の心配そうな声に、美咲は小さく頷いた。

「分かってる。でも、もし本当にこの和紙に家族の記憶が込められているなら…それを知る権利が私にもあるはず」

美咲は震える手を伸ばし、一枚の和紙に触れた。

その瞬間、美咲の目に涙が溢れた。

「お母さん…」

美咲の目に映っていたのは、若かりし頃の雅子だった。和紙を漉きながら、優しく微笑んでいる。その表情には、美咲の知らない母の一面があった。

「私の生まれた日の記憶…なのね」

美咲の声は震えていた。長年抱えてきたトラウマが、少しずつ溶けていくのを感じた。

香織も別の和紙に触れ、目を閉じた。

「戦国時代…私たちの先祖が、戦乱の中で和紙を守ろうとしている」

健太は科学者としての冷静さを取り戻し、次々と和紙に触れていった。

「明治維新、大正、昭和…それぞれの時代の吉田家の姿が見える。これは驚異的だ」

三人は夢中になって和紙に触れ、それぞれの時代の記憶を追体験していった。その光景を見守る佐藤の目には、安堵の色が浮かんでいた。

突然、2階から物音が聞こえた。

「お母さんが!」

香織が叫び、皆で急いで家に戻った。

2階に駆け上がると、雅子が必死に何かを伝えようとしていた。

「和紙…大切な…忘れちゃいけない…」

雅子の目は涙で潤んでいた。美咲は母の傍らに駆け寄り、その手を握った。

「お母さん、私たち、分かったわ。和紙のこと、家の秘密のこと、全部」

雅子はホッとしたような表情を浮かべ、そっと目を閉じた。

美咲は、長年抱えてきた感情が溢れ出すのを感じた。和紙への恐怖、家族への複雑な思い、そして失われゆく母への愛情。それらが全て混ざり合い、大きな決意となって心の中で形作られていった。

「みんな」美咲が家族に向かって言った。「私たちにしかできないことがあるわ。この千年の歴史を守り、そして新しい時代に繋げていく。それが、私たちの使命なんだと思う」

香織と健太は頷いた。三人の目には、同じ決意の色が宿っていた。

佐藤は静かに微笑んだ。「吉田家の新しい章が、今始まろうとしています」

窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。その光が部屋に差し込み、雅子の寝顔を優しく照らしている。それは、まるで千年の時を超えて、先祖たちが今の吉田家を見守っているかのようだった。

美咲は静かに呟いた。

「私たちの物語は、ここからが始まりなのね」

そう、これは終わりではなく、新たな始まりだった。吉田家の和紙に込められた千年の記憶と、そしてこれから紡がれていく新たな物語。それらが交錯する中で、美咲たち三人の挑戦が始まろうとしていた。

翌朝、美咲は早くに目を覚ました。昨日の出来事が夢だったのではないかと思うほどだった。しかし、隣で眠る香織の寝顔を見て、全てが現実だったことを再確認する。

美咲はそっと起き上がり、窓を開けた。朝もやの立ち込める庭を見渡すと、蔵の存在が否応なしに目に入ってくる。あの中に眠る千年の記憶。美咲は深呼吸をして、自分の中に湧き上がる好奇心と恐怖を感じていた。

「お姉ちゃん、もう起きたの?」

香織の声に振り向くと、彼女も起き上がっていた。

「ええ、なんだか落ち着かなくて」

「分かるわ。私も同じよ」

二人は黙ったまま、しばらく窓の外を眺めていた。

「昨日のこと、まだ信じられないわ」美咲が静かに言った。

「私も」香織が頷いた。「でも、あの和紙に触れた時の感覚は、間違いなく本物だった」

美咲は黙って頷いた。確かに、あの感覚は偽物ではなかった。幼い頃から感じていた和紙への恐怖も、実は理由があったのかもしれない。

「健太は?」美咲が尋ねた。

「まだ寝てるわ。昨日の夜遅くまで、和紙のことを調べていたみたい」

香織の言葉に、美咲は小さく笑った。弟の科学者としての好奇心は、この不思議な現象を前にして、きっと抑えきれないのだろう。

「そうね。健太らしいわ」

二人は静かに階下へ降りていった。リビングでは、既に佐藤が朝食の準備をしていた。

「おはようございます」佐藤が優しく微笑んだ。「よく眠れましたか?」

「はい、ありがとうございます」美咲が答えた。「母は?」

「まだ眠っています。昨日は疲れたようですね」

美咲と香織は顔を見合わせた。母の状態が気がかりだった。

朝食を取りながら、三人は今後のことについて話し合った。

「まずは、蔵の和紙を整理する必要がありますね」香織が言った。「考古学的な手法で、年代順に並べ直すことから始めましょう」

「そうですね」佐藤が頷いた。「そして、それぞれの和紙に込められた記憶を確認していく」

美咲は黙って聞いていたが、ふと疑問が湧いた。

「佐藤さん、昨日言っていた『生前整理』のことなんですが…」

佐藤は静かに頷いた。

「はい。実は、雅子さんは自分の記憶が失われていく前に、全ての記憶を和紙に漉き込もうとしているのです」

「そういうことだったのね」香織が呟いた。

「でも、それだけじゃないんです」佐藤が続けた。「雅子さんは、吉田家に伝わる全ての記憶を整理し、次の世代に引き継ごうとしているのです」

美咲は息を呑んだ。それは、まさに千年の歴史を整理するという壮大な作業だった。

「私たちに、それができるのかしら」美咲が不安そうに言った。

「できますとも」佐藤が力強く言った。「あなたたち三人には、それぞれの才能があります。美咲さんの文才、香織さんの考古学の知識、健太さんの科学的アプローチ。これらを組み合わせれば、きっと素晴らしい結果が生まれるはずです」

その時、階段を降りてくる足音が聞こえた。振り向くと、そこには寝ぼけ眼の健太がいた。

「おはよう」健太が大きなあくびをしながら言った。「みんな、もう起きてたんだ」

「おはよう、健太」美咲が言った。「昨日は遅くまで起きていたそうね」

健太は少し照れたように頭を掻いた。

「ああ、あの和紙のことが気になってね。でも、科学的にはまだ何も説明がつかないんだ」

「それは当然です」佐藤が静かに言った。「この秘密は、科学では説明できないものかもしれません」

健太は不満そうな顔をしたが、何も言わなかった。

朝食を終えると、四人は再び蔵へと向かった。朝日に照らされた蔵は、昨日よりもずっと神秘的に見えた。

蔵の中に入ると、昨日と同じ光景が広がっていた。しかし、今日は違った。美咲たちの目には、この和紙の山が、単なる紙の束ではなく、千年の記憶の集積として映った。

「では、始めましょうか」香織が言った。「まずは、年代順に並べ直すことから」

四人は黙々と作業を始めた。和紙を一枚一枚丁寧に扱い、その質感や色合いから年代を推測していく。時折、誰かが和紙に触れて記憶を追体験し、その内容を他の人に伝える。

作業を進めるうちに、美咲は徐々に和紙への恐怖心が薄れていくのを感じた。代わりに、これらの和紙に込められた家族の歴史への興味が膨らんでいった。

「ねえ、みんな」美咲が突然言った。「私、この記憶たちを小説にしてみようと思うの」

三人が驚いた顔で美咲を見た。

「小説に?」健太が尋ねた。

「そう」美咲が頷いた。「千年の歴史を、現代に生きる私たちの目線で綴る。そうすれば、この秘密を世界に明かすことなく、吉田家の物語を後世に伝えることができるんじゃないかしら」

香織が目を輝かせた。「素晴らしいアイデアよ、お姉ちゃん!」

「賛成です」佐藤も笑顔で言った。「それこそが、雅子さんの望んでいたことかもしれません」

健太は少し考え込んでいたが、やがて頷いた。「僕も協力するよ。科学的な視点から、この現象を小説の中で説明できるかもしれない」

美咲は嬉しそうに頷いた。「ありがとう、みんな」

そうして、吉田家の新たな挑戦が始まった。千年の記憶を整理し、それを現代に蘇らせる作業。それは決して簡単なものではなかったが、四人の心には希望が芽生えていた。

日が暮れる頃、美咲は一人で母の部屋を訪れた。雅子は静かに眠っていた。美咲はそっと母の手を握った。

「お母さん、私たち、きっとやり遂げるわ。だから、安心して」

美咲の言葉に、雅子はかすかに微笑んだように見えた。

窓の外では、夕焼けが美しく空を染めていた。それは、吉田家の新たな章の幕開けを祝福しているかのようだった。

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