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「最後のページをめくるとき」第3章 ~明かされる秘密~

登場人物

吉田雅子(70歳)
和紙に記憶を漉き込む最後の継承者。認知症の進行で、自身の記憶だけでなく、先祖代々の記憶も失いつつある。

吉田美咲(45歳)
ミステリー作家。幼少期のトラウマで和紙に触れられない症状があり、家業から逃げるように家を出た。

吉田香織(42歳)
考古学者。古文書の修復技術を学んでいるが、家伝の和紙の力を科学的に証明しようと奮闘している。

吉田健太(39歳)
神経科学者。記憶と感情の関係性を研究しているが、家伝の秘密を知らない。

佐藤明(75歳)
元神主で陰陽師の末裔。吉田家の秘密を唯一知る外部者で、雅子の守護者的存在。

明かされる秘密

吉野の山々を覆う朝靄が晴れ始めた頃、吉田家の古い屋敷は、静かな緊張感に包まれていた。美咲、香織、健太の三人は、居間に集まり、佐藤明を囲んでいた。昨日の蔵での驚くべき体験以来、彼らの心の中には、好奇心と不安が入り混じっていた。

佐藤は、ゆっくりとお茶を一口すすり、話し始めた。

「吉田家の皆さん、昨日は驚くべき体験をされたことでしょう。今日は、その秘密について、詳しくお話しする時が来たようです」

三人は息を呑んで、佐藤の言葉に耳を傾けた。

「吉田家は、千年もの間、和紙職人として名を馳せてきました。しかし、その真の姿は、世間には知られていません」

佐藤は一瞬言葉を切り、三人の表情を確認した。

「吉田家の和紙には、特別な力があります。家族の強い感情や重要な記憶を、和紙に漉き込むことができるのです」

「それは、昨日私たちが体験したことですね」健太が口を挟んだ。

佐藤はうなずいた。「その通りです。その和紙に触れると、漉き込まれた記憶や感情を追体験することができる。これが、吉田家に代々伝わる秘密の技術なのです」

「でも、どうしてそんなことが可能なんですか?」香織が尋ねた。「科学的には説明がつかないはずです」

佐藤は静かに微笑んだ。「その通りです、香織さん。この技術は、科学では説明できません。これは、吉田家に代々伝わる特殊な精神統一法と、和紙を漉く際の独特の技法が組み合わさって初めて可能になるのです」

美咲は、黙って佐藤の話を聞いていた。彼女の心の中で、幼い頃の記憶が蘇っていた。母が和紙を漉いている姿、その際の独特の雰囲気。そして、自分が和紙に触れた時の恐ろしい体験。

「佐藤さん」美咲が静かに口を開いた。「私が幼い頃、和紙に触れて怖い思いをしたのも、この力のせいだったんでしょうか」

佐藤は深くうなずいた。「そうです、美咲さん。あなたは、まだ心の準備ができていない段階で、強い感情が込められた和紙に触れてしまったのでしょう。それが、あなたのトラウマの原因になったのだと思います」

美咲は、胸に込み上げてくる感情を抑えるのに必死だった。長年抱えてきた恐怖の正体が、ようやく明らかになった気がした。

「しかし」佐藤は続けた。「この力は、決して恐れるべきものではありません。むしろ、吉田家の誇るべき遺産なのです」

「遺産?」健太が首をかしげた。

「そうです」佐藤は頷いた。「この技術によって、吉田家は千年もの歴史を、生々しいまま保存し続けてきたのです。あの蔵に眠る和紙の一枚一枚が、吉田家の歴史書であり、先祖たちの日記であり、そして家族の絆の証なのです」

三人は、その言葉の重みに圧倒されていた。

「しかし」佐藤の表情が曇った。「今、その遺産が危機に瀕しています」

「母のことですか?」香織が静かに尋ねた。

佐藤は深くため息をついた。「はい。雅子さんは、この特殊な技術を完全に習得した最後の継承者なのです。彼女の認知症が進行すれば、この千年の歴史も、共に失われてしまう可能性があります」

部屋は重苦しい沈黙に包まれた。

「でも、私たちにも和紙に触れると記憶が見えました」健太が言った。「それなら、私たちでも技術を継承できるのではないですか?」

佐藤は小さく首を振った。「残念ながら、そう簡単にはいきません。和紙に記憶を漉き込む技術は、長年の修練が必要です。それに、単に記憶を見るだけでなく、その記憶を理解し、受け入れる心の準備も必要なのです」

「じゃあ、私たちに何ができるというんです?」美咲が少し苛立ちを込めて言った。

佐藤は三人をじっと見つめた。「あなたたち三人には、それぞれ特別な才能があります。美咲さんの文才、香織さんの考古学の知識、健太さんの科学的アプローチ。これらを組み合わせれば、新しい形で吉田家の遺産を守ることができるはずです」

「新しい形?」香織が尋ねた。

「はい」佐藤は頷いた。「例えば、美咲さんが小説の形で吉田家の歴史を書き記す。香織さんが和紙の保存と修復を担当する。健太さんが和紙の持つ力を科学的に解明しようと試みる。それぞれの方法で、吉田家の記憶を未来に繋げていくのです」

三人は、佐藤の提案に考え込んだ。

「でも」美咲が静かに言った。「それだけで十分なんでしょうか。結局、和紙に記憶を漉き込む技術は失われてしまうのでは?」

佐藤は優しく微笑んだ。「その通りです。しかし、全てを完璧に守り継ぐことは不可能です。大切なのは、吉田家の精神を、新しい形で次の世代に繋げていくこと。それこそが、真の継承ではないでしょうか」

その時、2階から物音が聞こえた。

「お母さんが!」香織が立ち上がった。

四人は急いで2階へ向かった。雅子の部屋に入ると、彼女はベッドに起き上がり、窓の外を見つめていた。

「お母さん」美咲が優しく声をかけた。

雅子はゆっくりと振り返り、微笑んだ。「みんな、来てくれたのね」

「ええ、母さん。私たち、ちゃんと理解したわ。吉田家の秘密のこと、全部」香織が言った。

雅子の目に涙が光った。「そう…良かった。私ね、もうすぐ全てを忘れてしまうかもしれない。でも、あなたたちがいてくれれば…」

「大丈夫です、雅子さん」佐藤が静かに言った。「あなたの子供たちは、それぞれの方法で吉田家の遺産を守っていくでしょう」

雅子は安心したように目を閉じた。「ありがとう…みんな」

その瞬間、部屋の空気が変わったように感じた。雅子の周りに、かすかな光のようなものが漂い始めた。

「これは!」佐藤が驚いた声を上げた。

「何が起きているんです?」健太が尋ねた。

「雅子さんが…最後の力を振り絞って、自身の記憶を和紙に漉き込もうとしているのです」

四人は、息を呑んで見守った。雅子の表情は穏やかで、まるで深い瞑想に入っているかのようだった。

数分後、光が消え、雅子はゆっくりと目を開けた。

「できたわ…」彼女は小さくつぶやいた。「私の全ての記憶を、この和紙に…」

美咲は母の傍らに駆け寄り、その手を握った。「お母さん、無理しないで」

雅子は優しく微笑んだ。「大丈夫よ、美咲。これが私にできる最後のことだったの。あとは…あなたたちに任せるわ」

その言葉とともに、雅子は再び眠りについた。

佐藤が静かに言った。「雅子さんは、自身の全ての記憶と、吉田家に伝わる技術の全てを、この一枚の和紙に漉き込んだのです。これこそが、吉田家の究極の遺産と言えるでしょう」

美咲、香織、健太は、畏敬の念を込めてその和紙を見つめた。そこには、千年の歴史と、一人の女性の人生が詰まっているのだ。

「さて」佐藤が三人に向き直った。「ここからが、本当の始まりです。この和紙を基に、吉田家の新しい歴史を紡いでいくのは、あなたたちなのです」

三人は顔を見合わせ、静かに頷いた。彼らの前には、想像もつかないほど大きな課題が横たわっている。しかし同時に、新たな可能性も開かれたのだ。

美咲は決意を込めて言った。「私たち、必ずやり遂げます。母さんの思いを、吉田家の歴史を、しっかりと受け継いでみせます」

香織と健太も同意を示した。

佐藤は満足げに微笑んだ。「それこそが、雅子さんの望んでいたことです。さあ、新しい章の幕開けです」

窓の外では、朝日が輝きを増していた。その光は、まるで吉田家の新たな出発を祝福しているかのようだった。

美咲は、母が遺した和紙を大切そうに手に取った。その瞬間、彼女の心に温かな感情が流れ込んできた。それは恐怖ではなく、愛情と希望に満ちたものだった。

「みんな」美咲が言った。「私たちの仕事を始めましょう。母さんの記憶を、吉田家の歴史を、そして私たち自身の物語を、しっかりと紡いでいくの」

香織と健太は力強く頷いた。そうして、吉田家の新たな挑戦が始まろうとしていた。それは、過去と未来を繋ぐ、壮大な物語の始まりだった。

その日の午後、三人は蔵に集まった。昨日まで恐れていた場所が、今では希望に満ちた空間に変わっていた。

「まずは、母さんが最後に漉いた和紙から始めましょう」美咲が言った。

香織が慎重にその和紙を広げた。「本当に、母さんの一生が、ここに詰まっているのね」

健太は興味深そうに和紙を観察していた。「通常の和紙とは、明らかに質感が違う。これを解析できれば、きっと何かが分かるはずだ」

美咲は深呼吸をして、和紙に触れた。その瞬間、彼女の意識は母の記憶の中へと引き込まれていった。

幼い頃の雅子、初めて和紙を漉いた日の喜び、美咲たち三人が生まれた時の幸せ、そして最後に、認知症と闘いながら、この技術を守ろうとする強い意志。それらの記憶が、まるで映画のように美咲の脳裏に流れていく。

「お母さん…」美咲の目から涙がこぼれ落ちた。

香織が美咲の肩に手を置いた。「お姉ちゃん、大丈夫?」

美咲はゆっくりと目を開け、微笑んだ。「ええ、大丈夫よ。むしろ、すごく温かな気持ちになったわ」

健太も和紙に触れ、目を閉じた。しばらくして、彼は驚いたように目を見開いた。「これは…まるで母さんの人生を追体験しているようだ。単なる記憶の再生じゃない。感情まで、ありありと伝わってくる」

三人は、順番に和紙に触れ、母の記憶を共有した。その過程で、彼らは今まで知らなかった母の一面を知り、また家族としての絆を再確認した。

「さて」佐藤が静かに言った。「これからどうしますか?」

美咲が決意を込めて言った。「私は、この記憶を元に小説を書きます。吉田家の千年の歴史と、母さんの人生を、一つの物語として紡いでいくわ」

香織も頷いた。「私は、この和紙の保存方法を研究します。そして、他の古い和紙の修復にも取り組みます。考古学の知識を活かして、吉田家の歴史を物理的に守っていきたいわ」

健太は少し考え込んでから言った。「僕は、この和紙の特性を科学的に解明しようと思う。もしかしたら、新しい記憶保存技術の開発にもつながるかもしれない。それが、現代における吉田家の貢献になるんじゃないかな」

佐藤は満足げに三人を見つめた。「素晴らしい。それぞれの才能を活かした素晴らしい計画です」

その時、美咲はふと気づいた。「でも、私たちだけでは足りないわ。もっと多くの人の力が必要よ」

「どういうこと?」香織が尋ねた。

美咲は説明した。「この和紙に込められた記憶は、単に見るだけじゃなく、理解し、共感する必要があるの。そのためには、様々な視点、様々な経験を持つ人々の力が必要だわ」

健太が頷いた。「なるほど。確かに、科学的なアプローチだけでは、この和紙の本質は掴めないかもしれない」

「じゃあ、どうすれば?」香織が尋ねた。

美咲は微笑んだ。「私の小説を通じて、多くの人々にこの物語を知ってもらう。そして、読者の感想や解釈を集める。それを新たな和紙に漉き込んでいくの」

佐藤は驚いたように目を見開いた。「なるほど。それは素晴らしいアイデアです。吉田家の記憶を、現代の人々の思いと融合させる。まさに、新しい形の継承と言えるでしょう」

三人は興奮して話し合いを続けた。それぞれの役割、今後の計画、予想される困難とその対策。議論は夜遅くまで続いた。

翌朝、美咲は早くに目覚めた。窓から差し込む朝日を見つめながら、彼女は深呼吸をした。今日から、新しい挑戦が始まる。

彼女はパソコンの前に座り、小説の執筆を始めた。

「千年の時を越えて」

そう、タイトルを打ち込んだ瞬間、美咲の指は止まることを知らなかった。母の記憶、先祖たちの思い、そして自分自身の感情が、言葉となって溢れ出していく。

一方、香織は蔵で古い和紙の調査を始めていた。一枚一枚丁寧に状態を確認し、必要な修復作業を行う。その過程で、彼女は様々な時代の記憶に触れ、吉田家の歴史を肌で感じていった。

健太は、大学の研究室に和紙のサンプルを持ち込み、分析を開始した。通常の紙とは明らかに異なる構造、そして微妙に発せられるエネルギー。彼の科学者としての直感が、ここに未知の発見があることを告げていた。

そして佐藤は、静かに三人を見守っていた。時折アドバイスを与え、迷った時には導いてくれる。彼の存在が、三人に安心感を与えていた。

数週間が過ぎ、美咲の小説の第一稿が完成した。彼女は家族を集め、その一部を読み聞かせた。

「西暦1024年、吉野の山奥に一軒の家が建てられた。そこに住む夫婦は、和紙職人だった。彼らはまだ知らなかった。自分たちが始めたことが、千年もの歴史を紡ぐことになるとは―」

美咲の朗読が終わると、部屋は静寂に包まれた。

「素晴らしいわ、お姉ちゃん」香織が感動して言った。「まるで、その場にいるような感覚になったわ」

健太も頷いた。「僕らの先祖の思いが、本当によく伝わってくる。これなら、きっと多くの人の心に響くはずだ」

佐藤は静かに微笑んだ。「雅子さんも、きっと喜んでいることでしょう」

その言葉に、全員の目が2階の雅子の部屋に向けられた。彼女の容態は日に日に悪化していたが、それでも時折、穏やかな笑顔を見せることがあった。

「よし、次は出版社を探さなきゃ」美咲が言った。「この物語を、一人でも多くの人に届けたいわ」

「僕の研究も、少しずつだけど進展があるんだ」健太が報告した。「和紙から発せられるエネルギーの波長を特定できそうなんだ。これが記憶の伝達と関係しているかもしれない」

香織も嬉しそうに言った。「古い和紙の修復技術も、だいぶ確立してきたわ。これなら、千年前の和紙でも、きっと救えるはず」

佐藤は満足げに三人を見つめた。「皆さん、本当によく頑張っています。きっと、これが吉田家の新しい歴史の始まりになるでしょう」

その夜、美咲は一人で蔵を訪れた。無数の和紙に囲まれ、彼女は静かに目を閉じた。

「お父さん、お母さん、そして御先祖様」美咲は心の中で呼びかけた。「私たちは、きっとこの遺産を守り抜きます。そして、新しい形で未来に繋げていきます。どうか、見守っていてください」

風が吹き抜け、蔵の中の和紙がかすかに揺れた。まるで、先祖たちが美咲の決意に応えているかのようだった。

美咲は目を開け、蔵を後にした。彼女の心は、不安と希望が入り混じっていた。しかし、一つだけ確かなことがあった。これは終わりではなく、新しい始まりなのだと。

吉田家の物語は、これからも続いていく。過去と現在、そして未来へと繋がっていく、終わりなき物語として。

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