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先生が忙しくなる理由のひとつ。


コントロールする?しない?

学校に入ると各種習慣についてきちんと身に着けるようにと言われますよね。それは大切なんですけども、その奥にもっと大切なことが隠れていることに大人たちは気づいているかな?

それは質の高い自己決定

習慣が身につくように大人がコントロールして、身についたら自分で頑張れる子になるのかな?

習慣が身につくように大人がコントロールして、それができなかったら親子で疲弊して劣等感が増え、自己肯定感は下がるんじゃないかな。
親のやり方が悪かったのかとなる。子どもが言うこと聞かないからだとなる。

コントロールしなかったらしなかったで、甘やかしすぎ、管理できなすぎ、だらしない、親がきちんとコントロールしないからだとなると、どうすりゃいいのさ。誰にも相談できないさ。

そんなこんなで、
コントロールできないなりに、コントロールしてる風なことを親は言う。
でも、子どもはそれを見抜いている。

・大人がコントロールする方が子どもの自己決定力を上げるのか?
・大人がコントロールしない方が子どもの自己決定力を上げるのか?

どっちだと思いますか?

先生が忙しい原因

仕方ないことかもですが、思ったより
学校には「させたい」が溢れています。

先生は「まとめる」ことに精一杯。
先生は「率いる」ことに精一杯。
先生は「個別対応」にも精一杯。
先生は「教える」ことに精一杯。
先生は「指導する」ことに精一杯。
先生は「ジャッジする」ことに精一杯。

全部先生がどうにかしようとしているから忙しくなる。
でもこれが先生の仕事でしょって思われる先生は、なんでご自身は先生になったのかのところから深堀してみて欲しい。
ご自身は質の高い自己決定で先生になったのかどうか。
あなたは先生じゃないから大変さが分からないんだっておっしゃっるなら、何が大変かそれを教えて欲しい。それについて対話したい。

そして子どもたちにどうあってほしいか。
深堀してほしい。

無理なこと思われるかもしれませんが、子どもたちこそ無理なことに晒されています。
心が迷子になる対応を受けています。
それこそ先生も、一度迷子になって考えみて欲しい。

話し合いじゃなくて、複数人での対話が大切


でもこれは先生を責めたくて言ってるんじゃない。
私たちはいっぱい子どもをコントロールしてマルトリートメントをやってきた。
話し合いの場なら、いい悪いに終始してしまう。
対話の場なら、一緒に懺悔して子どもに謝って前に進める。

不登校の親の会で集まった知識って、先生方の忙しさ・困り感へのヒントがたくさんあると思うんだけど、うるさいクレームと受け取られることが多くて、なかなかそれが伝わらない。
なんとか伝わってほしいな。
winwinな内容だとおもうんだけどな。
価値観を逆転するような内容も多いから受け入れにくいのかもなぁ。

私たちは先生方と対話して、シェアできたらいいなと思うんですが、なぜかそれが難しいようです。
その提案はたくさんしてきました。
でも繋がりにくい・・・
繋がるかどうか曖昧なニュアンスを残されます。

もちろん
私たちもまた先生に、させることも、コントロールすることもできません。

自己決定でそうなってくれるのを待つのみ。

ただ、
学校へ行けない子どもたちは、学校が安心安全な場所になるのを待っていることを想像してみて欲しい。

だけど、子どもが学校に行く時期は、こうして待っているうちにあっという間に過ぎてしまいます。
私たちはいつまで学校の準備が整うのをを待たないといけないのでしょうか?

自己決定できる先生が増えてほしいな。

でもそれが難しいのは、学校には自己決定を奪う仕組みがたくさんだからなのかもしれません。
それでやることが増えて忙しくなって、不登校が増えて・・・
という悪循環。

自己決定を奪う学校のNGアクション

①おうちの方が見てあげてください

小学校に入学すると、これを言われました。

・宿題
・準備物
・忘れ物

まぁ、小1だとまだ小さいから・・・
と思うのですが、振り返ってみて思うのは、これを親が手伝ったり口出しすることは良くなかったなと、今なら分かる。

これさ、
学校の先生も子どもも困らないために、おうちの人も協力してね。そしたら授業がスムーズにできますから。
ってことなんだろうけど、これ、もっと本質を考えたらそうじゃないってことが分かりだすと思う。
ちょっとややこしいことかもしれないけど、超シンプル。
あえて答えは書きません。考えてみて欲しい。

おうちの人が見てあげることで先生の仕事が増えてるのではないかと思いますよ。

②学年ごとの学習時間の目安を伝えること

この学年ならこれくらい・・・
という発想がなんかな。
本気で学びたいと思ったら時間を忘れて学ぶと思う。

③音読・健康観察チェックシート

チェックシートが向く人がごく一部いらっしゃるけど、向いてない人は多い。
子どももそう。
管理の意図があるようなテンプレートは苦痛になる。
でもできない自分が劣っていると思い込んでしまうこともある。

だったらテンプレートを自分で作る!
ならまだいいけれど、大人になってチェックシート作ってみて、その通りに毎日きちんとコツコツと家事を・・・
と思っても上手くいかない経験があるのは私だけではないはず。

一部の向いている人が活用すればいい。
親のハンコ押すのもなんかなぁ・・・

今タブレットでチェックする仕組みもあるのかな。
チェックするしないも自分で決める。

④◯◯ウィーク

例えば読書ウィーク

読書は大切!
家族で読書週間を。

ああ・・・
私は子どもの頃、この言葉にどれほど苦しめられてきたことだろうか。
私は全く本が読めない子どもで、読むというのが苦痛でしかなかった。
だから私はバカなんだろうと思ってた。

読書は大事だよってセリフ、結構偏った言葉だと思う。
あんなに本読んでいるんだから、いろんな人の気持ちが分かりそうなものなのにと不思議に思っていました。

読書週間もおうちの人とってワードがセット。
親子で読書するきっかけ作りは大切なんだけども、なんか違うかなと今なら思う。

親子で・・・
これ、響きはいいし、必要そうなんだけど、危険な場合があるんじゃないかな。
危険だなんて大袈裟なって先生は思われるかもしれませんが。

・メディア時間制限ウィーク

これも親子で考えて実行してねってやつ。
できた、できない、って確認し続けるの、なんか変じゃない?
劣等感植え付ける装置に思えてしまう。

振り返れば息子は早い段階からこれの無意味さを見抜いていたのかもしれない。こういう類のものは、小さいころから一切提出しなかったな。

トイレ掃除ウィーク
外遊びウィーク

⑤子ども同士のトラブルの間に入ること

うちの場合これが原因で、先生への不信感が募り学校へ行かなくなりました。
間に入ってなんとかしようとするから、時間もかかる。ややこしくなる。
その上、子どもからも保護者からも感謝されるどころか遠ざかるだけ。
相手の子の意見は通されたが、相手の子にも結果的に何一ついいことが無かった。学校には行ってるけれど、周りから人が離れていったっていう。

何が起きたかよりも、それぞれの子がどうしたいか、何に困ってるか聞いてあげて欲しい。

⑥子ども同士のトラブルを親に連絡すること

どちらかが明らかに悪い、というトラブルがあったとする。
その時、悪いとされる子の親に、こういうことがあって・・・と連絡をすると、その子の親は子どもを叱る確率は高いかもしれない。
既に学校でも叱られているだろうに、家に帰ってまた親に叱られ、そういうことが積み重なったら居場所をなくしてしまう。

⑦身だしなみ、姿勢、宿題、などなど

させたい(大きな声を出させたい、静かにさせたい、手をあげさせたいとか)
させたくない(靴のかかとで踏ませたくない、足ぶらぶらさせたくない、授業中あるかないとか)
と思うこと全般はさせようとしなくていいと思う。
自分で気づくこと。
「気づかないから言うんだ」
って思われるかもしれないけど、もう言わなくていいんだよ。

⑧教えない、指導しない

「えー!?」
って思う人は伸び代があります。
これについては私も教えません。

コントロールを否応なしに手放した私たち

子どもが学校に行かなくなって、親は最初こそあれこれコントロールしてみるけれど、コントロールしていては良くないなというところにたどり着きます。

不登校親の会「明るい不登校」では

・お口チャック修行
・させたいちゃん撲滅キャンペーン

という言葉がよく出てきます。

これは、子どもの質の高い自己決定を引き出すためのもので、対話の中からみんなが辿り着く場所です。

教育・子育てにはいろんな情報があるので、これでいいのか迷うことは多いですが、

今この子は質の高い自己決定ができているのか、
そこを見ていれば迷うことは減るのかもしれません。


よって、子育てが楽になる。
子どもものびのびできる。

子どもに求めるものが多すぎる昨今

・運動が出来たほうがいい
・勉強が出来たほうがいい
・良い生活習慣が身についていた方がいい
・人にやさしく出来たほうがいい
・時間を守れる方がいい

などなどあげたらきりがないです。
できることはいいことなんだけど・・・
質の高い自己決定でそれができるようになるまで待っていたら置いていかれる怖さ。

「させたい」「出来た方がいい」
は、一見ポジティブに見えて、恐れを含んでいます。

子どもに求めるものはただひとつ

質の高い自己決定

・コントロールを手放す
・子どもの自己決定に任せる
・信頼する
・何が起きても大丈夫と思えるようになる。

言葉としてはこれも大切なことと思われるでしょうが、これもまたなかなか難しい悟りのの境地・・・
だったらコントロールしてた方がいいんじゃないかとさえ思うくらい、子どもとの日常って色んなことが起こります。

それでも、自己決定になっているかどうかを基準に、お口チャック、させたいちゃんを発動させない、としていた方が近道なんだと思います。
(近道って表現はあまり好きではないですが、他に思いつかなかった)

あとね、
この章は最初
「子どもに求めるものはただ2つ」
としようかと思いました。

「生きること」

を入れようと思いました。
でもそれは外しました。

自殺するかどうかさえも自己決定。

大人が口出しするのはそれくらいの覚悟があるんだな、という意味を込めて。

でもまぁ、
「生きてるだけでオールOK」
という言葉には救われますけど。

自己決定に任せて伴走する

クリスマスイブ、息子はネットで知り合った彼女のところへ旅に出ました。(片道約500キロ)

その計画を立てるにあたり、
「行ってもいい?」
と、一言も聞かれなかったです。
「〇〇へ行くから」
と言われ、私はそれがうれしかった。

だって、自己決定できてるから。

で、
「どうやって行くか一緒に考えて欲しい」
と。

もしも私が
「そんな知らない人のところに行くなんて」
と言いそうな親なら何にも言わなかったろうな。
(私もネッ友にバンバン会いに行くしね…)

一緒に考えるというか、既に夜行バス・新幹線・高速バスで行くことは決めていました。
私はチケットを取るのを手伝いました。
乗り換えが多いので心配になりそうなところで・・・
乗り換えのタイミングでLINEしようかな?とか一瞬思いましたけど
でも、
「名古屋で乗り換えなんですけど、新幹線で寝過ごして東京に着いたら面白いな・・・」
とか思ってる自分がいました。

私は子どもを信頼できてるなー
何があっても大丈夫だと思える。

そして
子どもも私を信頼してくれてるなー
と思える。

今なら分かる。
自己決定だけを見ていれば、何にも難しくなかった。
あれこれさせよう、こうした方がいいよってやるから難しく、忙しくなる。
出来ないときにコントロールするから苦しくなる、忙しくなる。

これは家庭だけじゃない、学校もそう。

旅立った息子から昨夜、私、父親、妹にクリスマスプレゼントが届きました。
大きなサプライズでした。
自己決定を奪うことをやめた結果のような思えました。
息子の気持ち、私たちへの信頼が最大のギフトでした。

学校でも家庭でも、
「子どもの自己決定を奪わない」
ことを基準にするだけで、負のサイクルが変わりだします。

それを実践する先生があちこちで出てきています。

迷ったら「自己決定」かどうか問えばいい。

という訳で
先生が忙しくなる理由のひとつは

子どもの自己決定を奪うから

というお話でした。

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