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適当をやめて「無駄」を全力で楽しもう〜anagonの日記 6/11〜
①今日の出来事
今日はがんばった!!
・朝八時に起きる
・レポートを書きまくる
・動画作った
・散歩した
・授業受けた
・ゼミ参加した
勉強以外をする日と勉強をする日を朝の気分で決めるのがいい気がします。大概朝早く起きた日は勉強する日になりますが。
②今日の話
1.無駄はあってもいいがいい加減はあってはだめだって話
以前書いた、多分誰でもできるanagon流作詞作曲法みたいなnoteでも書いたんですが、
「遊び心」はクリエイティビティにおいて非常に重要なものだと思っています。
「遊び心」というのは、すなわち「無駄」であり「無駄を楽しむこと」であり「くずし」であり、そして「オリジナリティの創造」です。
作品作りにおいて、誰かが体系化した技法やセオリーのみで固められた作品しか作れないのなら、そこに独創性はなく、質の良い模造品でしかありません。
これら技法やセオリーを基にして
「こうしてみたら、おもろいんちゃう?」
「こんなの入れたらもっといい感じになるんちゃう?」
「あの人はこうしてるけど、俺はこっちの方が好きだからこうしよ」
と既存にあるものを基盤に置きつつ、所々をくずしたり、自分の好きなように変える中で、オリジナリティというものは形成されると思います。
こう言った作業は、ぶっちゃけ非常に非効率的です。
だって、もともとあるセオリー通りにやったほうが、頭は疲れないし、間違いないし、やりやすい。
故に体系化されたものから見れば、新しく加えるものは「無駄」であることが多いです。
でもその「無駄」なものこそが、作品に奥行きを与え、人の思考や解釈の幅を与え、オリジナリティを付与する。
だから何か作品を作るとき、どう「無駄を入れてやろうか」と考え、それを楽しむことができる作品家は面白い作品を作るなと思います。
ここで履き違えちゃいけないのが、「無駄」と「適当」。
「無駄」をすることと「適当」をすることの違いをコーヒーで例えてみましょう。
「しっかり美味しい淹れ方でコーヒーを入れたんだけど、ちょっとここに麦茶とか入れてみたら、いい感じになるんじゃないか?」という試みが「無駄」だと思います。
入れなくたっていいし、むしろ入れたらどうかと思うけど、味の深みがますかもしれないし、複雑な味わいをうむかもしれない。
「そんなことしなくたって、別にいいのに、わざわざすることでさらにそれをよくしようとする」のが「無駄」の真骨頂だと思っています。
一方で「適当」は
「めんどいけどコーヒー頼まれたから、100度のお湯をドバドバかけて、薄めたりすればいいや」という行為だと思います。
端的に言えば、それをよくしようとも思っていないし、クリエティビティのかけらもないし、何より「愛」がない。
何かの効率性を求めようとして、時々自分もそうですが、
「無駄」を省いて、オリジナリティをなくし、さらに「適当」にやって、浮いた時間を増やそうとします。
でも、本来無くさないべきものは「無駄」であり、「適当」こそやってはいけないことなのだと思います。
③今日の歌詞「死へ向かう」
これはなんか昔死にたくなった時に書いた曲です。
愛されてるとは思ってるけど、それでも死にたくなるから、
死というのは本当にふと顔を見せてくるんだなと思います。
「死へ向かう」
生ぬるい痛みにはもう何も意味がないんだよ
モナリザのような微笑みで待っているあなたのもとへ
白い姿でも黒い姿でも暖かく僕を迎えてよ
安っぽい言葉はもういらない 五月蝿いな 僕は死へ向かう
愛されているか愛されていないか
そんなことは知った上で
この選択をしたことを考えて欲しい
愛してるならわかるでしょ?
「僕が死んだら僕をほめ 僕が生きてれば僕を貶す
いなくなって気づくもんさ 人は今日も学ばないのさ」
そんな悲しい言葉をいう気はないよ安心して
そんな存在ではなかったことを願って今日は僕は死へ向かう
愛されているか愛されていないか
そんなことは知った上で
この世界を終えることを考えて欲しい
愛してるならわかるでしょ?
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