見出し画像

読書日記 ジャック・ロンドン

「生命の掟」

国書刊行会 井上謙治翻訳

貧しい生まれのジャックロンドンはまずジャーナリストとして世に出た小説家だ。活動的で多方面で仕事をしていた。今日本語で読めるのは「野生の叫び声」くらいだろうか。
「生命の掟」は、短編小説の典型を示している。時と場所と人物の三つは固定され、一幕の劇のような構成で書いている。
時は主人公が最期を迎える一点に集中している。過去の出来事は主人公の回想で記述される。
場所は、ユーコン川が出てくることから北米アラスカ方面になる。風景の描写はほとんど無い。ジャック・ロンドンはアラスカで金鉱探しをしたらしい。毛皮貿易、ゴールドラッシュ、石油採掘とアラスカは白人たちの歴史の舞台になっていたが、この短編小説はエスキモーともインディアンとも呼ばれていた人たちの先住民が主人公だ。

 飢饉は間違いないものになった。部族の者たちはみんな空腹だった。食糧を求めての移動を酋長は決断した。しかし、老いて中風を患ったコスクーシュは残る。耳だけは今も達者だった。目は足元くらいしか見えずまともに歩けない。置いていかれるのだ。
 一人残ったテントの中で手を震わせながら乾いた薪を触る。これでは少なすぎる。優しかった孫娘も嫁いだ後は夫第一で、薪の用意もおろそかだった。暖をとりながら耳を澄ますと、外から聞こえてくるのは部族の者たちがテントを片づける音だ。呪い師の怒鳴る声が聞こえる。犬橇に荷物を載せている。腹を空かした犬たちが吠えている。鞭を振るう音が次々と聞こえてくる。一台また一台と去っていく。モカシン靴の雪を踏む音が聞こえてきた。息子である酋長だった。「大丈夫か」と声をかける。老人は「大丈夫だ」と答える。「おれは疲れた。これでいいんだ」と別れの言葉を口にする。外では雪が舞いはじめた。
 飢饉と長い旅に出るときにいつも繰り返されてきた光景だった。自然は個というものの生命を顧みることはない。大切なのは種の存続だけだ。老人の記憶には老人が残り、その老人の記憶にもさらに昔の老人の思い出が残っていた。こうしてコスクーシュの一族は大昔から続いてきたのだ。自分の身に起きているこの事態を彼は静かに受け入れた。
 火にあたりながらコスクーシュは飢饉の時のことを思い出す。空腹を抱えた老人たちが伝説の大飢饉を話していた。ユーコン川が三年間冬になっても凍らず滔々と流れ、次の三年間は夏になってもとけず凍ったままだった。この老人たちが亡くなった飢饉でコスクーシュの母も亡くなった。この時夏になっても川に鮭が帰ってこなかった。カリブーを待ち望んだが冬になっても姿を見せなかった。数年間こうした事態が続いた。食糧としているウサギは元のように増えず、犬たちは痩せていった。虚弱な子供はまずもたなかった。老人も女も次々と死んでしまった。10人に1人しか生き残らなかった。逆に食糧がゆたかな時ももちろんあった。肉は腐らせてしまうほどで有り余った。女たちは沢山の赤ん坊を産み、ヨチヨチ歩きの幼子たちでにぎやかだった。男たちの腹は出っ張り、以前のように他部族と争いをおこすようになった。
 コスクーシュの記憶はさらに過去に向かう。一生の友人であったジング・ハと狩猟ごっこをした頃だ。川床で大きなヘラジカの足跡を見つけた。あたりにはオオカミの群れの足跡も見られた。後に腕の良い猟師になったジング・ハは群れについて行けない年老いたヘラジカの足跡だと言った。二人は注意深くしかし夢中になって足跡を追いかけた。次の場所では死んだ狼を見つけた。この一頭は、死に物狂いになったヘラジカに突き殺されていた。執拗に襲ってくる狼たちと闘いながら森へと逃げている。血に染まった足跡の歩幅は随分と狭くなっている。弱っている証拠だ。狼たちの唸り声が聞こえてきた。遠巻きに吠える声ではない。肉に牙をたてて食らいついて放すまいとしている。二人は雪の上を腹ばいになって風下からその場に近づいた。狼の牙はヘラジカの脇腹に首筋に深く突き立てられていた。もがくヘラジカの最期だった。力尽きて地面に倒れると群がり襲う狼たちに覆われてしまった。その光景は昨日のようにありありと目に浮かんでくる。若い頃の思い出が次々と浮かんできた。妻のこと、息子のこと、相談役の長となり他の部族から畏れられる酋長になったこと。
 思い出に耽っているうちに焚き火は消えてしまっていた。寒気が骨にまで差し込んでくる。薪を2本焚べて火をおこした。残った薪を見て自分の命の長さをおもう。淡い期待が脳裏をよぎる。孫娘が優しかった祖父を思い出して薪を持ってきてくれるかもしれない。息子の酋長もトナカイの群れを既に見つけてここに帰ってきて連れていってくれるかもしれない。一縷の望みでしかなかった。
 聞き覚えのある音が耳に入ってきた。ながく尾を引くような唸り声だ。悪寒が体中に走った。彼の霞んだ目にも見えるくらいまでそいつは近づいてきた。火の中から薪を取り出し振り回し追い払おうとする。火は怖がっても老人を怖がりはしなかった。遠吠えで仲間たちを呼ぶ。一頭また一頭と身を低くして集まってくる。涎を垂らし唸り声を上げながら老人を囲む輪が小さくなってくる。老人は薪を雪の中に落とした。コスクーシュは座り込んだ。ヘラジカの最期が目に浮かんだ彼は首を膝の上に落とし生命の掟に従った。

#読書の秋2022


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?