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『水辺のビッカと月の庭』  第6話(終)


背中合わせのトッシュ


 キルカはここが出口だと言いいました。キルカの園からは出られましたが、どこへいく出口とは分かりません。一人残されたヒロムはただ待っていることだけができることです。待つこと、それも多田ひたすら待つことには慣れていません。耐えられない思いに押しつぶされそうです。
 そこはキルカの園の光が途絶えた所でした。ヒロムは押しやられて、からだは暗闇の壁の中に塗り込められたようです。暗くてからだの水平が保てそうにありません。ヒロムは腰を下ろしました。次々と脳裏に浮かんでくるのはキルカの園での言葉と場面でした。キルカは「ここで待ってろ」と言い、「迎えが来る」とも言いました。いつまで待てばよいのか。迎えは本当に来るのか。不安を覚えますが、キルカが嘘を言う理由はないと思います。キルカの毒に侵される前に出口まで案内してくれました。こんじきのからだは元の土気色に戻ってしまいました。キルカはどんな覚悟があってキルカを続けていられるのだろう。ヒロムは目を閉じてひざを抱えじっと考えます。聞こえるのは心臓の鼓動ばかりです。時を刻む鼓動を初めて聞いたような気がします。耳を傾けていると感じるのは微かなもの音だけではありません。
 微かな空気の流れが頬をなでます。風に運ばれてくるのは苔のような香りです。湿った地面と岩を覆うように生える苔の匂いです。次は枯れ葉の匂いが運ばれてきます。地面に幾重にも積み重なった枯葉の匂いです。水辺で嗅いだ匂いに変わります。親水公園では辺り一面その匂いでした。どこかに運ばれているかもしれません。体は動いてないのに何度も変わった風の匂いがそう思わせます。ヒロムかおりや音を感じながら寝入ってしまいました。

「お、いるいる」
「まさかここにくるとはね」
「どうやってたどり着いたのか」
「思いの外頑張ったと言えなくもないさ」

「キルカなの?」
思わずヒロムは叫びました。答えはありません。じっくり聞くと二人の声でした。
「ヒロムとビッカなの?」
やはり返答はありません。ためらいを打ち破ってヒロムは目を開けます。目の前にあったのはサウンドバーのような棒でした。それが一本宙に浮いて上下左右に揺れているばかりです。
 「お、気がついたね」
その声と一緒に上部がきらりと光ります。ヒロムの視線はその部分に引き寄せられます。左右にふくらんで頭の部分らしいものが現れました。少しずつ大きくなっています。サイズの小さなテニスラケットの形に変わります。次に表面がふっくらとパンのように膨らみました。顔の色はすっかり緑色です。顔には二筋の目と一筋の口が現れました。開いた目はギョロリとヒロムを睨みます。「ホー」開いた口からはため息とも驚きとも区別をつけようのない声がもれました。もう一つの声の主はどこかと探します。それらしきものは見当たりません。聞こえてきたのは二人分の声でした。もう一人いるはずです。ヒロムは目を凝らします。
「私にも見せておくれよ。久しぶりだよ」
目の前の顔の口が開いたわけではありません。閉じたままでした。しかし聞こえてくる場所は同じ所からです。
「青のトッシュ、代わっておくれ。」
するとくるりと回転しました。現れたのは薄桃色の顔でした。色が違うだけ絵す。ヒロムは戸惑いました。細い目を開けてじっと見ています。値踏みされているようで落ち着きません。どう話を切りだそうか。何から話そうか迷っているうちに相手は焦れてしまいます。
「帰ろうか青のトッシュ。まともに話せないみたいだよ」
ヒロムは慌てます。やっと姿を現してくれたのです。帰られたのでは全てが無に帰してしまいます。しかし焦ってしまい話の前後もまとまりもない話をまくしたてました。
「ぼくはキルカの小屋から出てきました。いつ出たのかもうわからなくて、元は月の庭に行ったのが始まりなんです。そのせいでビッカとムンカに助けられて、だから彼らに合わなくちゃいけないんです」
本人も話の脈絡に自信はありません。何かを話さなければとの思いでいっぱいでした。
薄桃色の顔はカラカラカラカッカッカと笑い声を上げます。その後ろからはケタケタケッケッケと聞こえてきます。どちらも世界を二つに分けそのまま引き裂くような耳障りな音です。
「赤のトッシュ、代わってくれ」
クルリと回転して緑の顔に交代しました。今度は何を言われるのかとヒロムは身構えます。
「今キルカと口に出した。会ったんだな。キルカはどうしてた?」
ヒロムはこれなら答えられそうだと気が緩みます。
「キルカはキルカしていました」
言葉にしてみましたがこれで答えたことになるのかと不安になります
「聞いたかい赤のトッシュ。久しぶりのキルカだよ」
「キルカはどうだった?」
赤のトッシュが青の顔の向こうから聞いてきます。「こうでした」とキルカについてすぐには答えられません。あまりに有りすぎて選ぶのが大変です。でも何か言わなければまた帰ろうかと言いかねません。苦し紛れでしたがひとつだけヒロムは答えます。
「全身がこんじきになっていました」
すると思いがけない反応が返っていきました。
「そうか。やっとか」
「嬉しいじゃないか、青のトッシュ」
喜ぶさまが我がことのようです。サンドバーのような体を上下左右、斜めにも揺らして喜んでいます。
ヒロムはすぐにまずいと思いました。喜びの後に大きな失望が来れば自分だって嫌です。恨み言を言いたくなるかもしれません。喜びに冷や水を浴びせるようですが、それでおしまいではないと伝えます。
「初めは体のほとんどがこんじきでした。体も大きくて立派でした」
「ほとんどとはどういうことだ」
目の前の青のトッシュが目を細くして尋ねます。
「焦茶色の網の目のような線が体の模様になっていました」
「もうあと一歩だったみたいだね」
赤のトッシュの声が聞こえてきます。
「それにしたって一時のことだ。またキルカに戻って続ければあとひと息でかなうはずだ」
青のトッシュが確信めいて話します。
ヒロムは一つで二人、二つで一人の話を聞いていて息苦しくなっていました。不十分な説明で思い違いが大きくなっています。取り返しがつかなくなるまで黙ってはいられません。「実は」とヒロムは正確な話を切り出しました。
「元に戻ったとはどういうことだ?」
青のトッシュが言います。
「こんじきが消えてしまった」
ヒロムはポツリと言います。
「全身が焦茶色になったって? どうしてさ」
赤のトッシュは一層大きな声で言いました。キルカの体が元の焦茶色に返ってしまったことは、彼らには予想外のことのようです。
「青のトッシュ、代わっておくれ。聞きたいことがある」
赤のトッシュが言いました。
「正直に言うんだよ。嘘を言ったらまた飛ばしてしまうからね」
ヒロムはこくりとうなずきます。しかし、どこかしっくりきません。〈また飛ばしてしまう〉の〈また〉とは二度めということではないでしょうか。何を聞かれるのかやはり緊張します。
「親水公園からどうやってキルカに会った。話せるはずだよね」
ヒロムは驚きます。話してもいないのに親水公園を知っていたのです。ヒロムは息を整え話し始めます。
「ぼくは親水公園に浮かんでいたって教えられて、助けてくれたのは湧き水のムンカとビッカで、それ以前にブランコをゆすろうとして落ちたことは話せなかった」
「それはそうだろうよ」
「親水公園はとても閑散で殺風景で、」
そこまで言うと青のトッシュが声をかけてきました。
「親水公園が閑散で殺風景だって。誰が選んだと思っている」
顔は見えませんが口調からすると怒っているようです。赤のトッシュはというと顔の赤みが濃くなっています。やはり不愉快そうでした。すぐさまヒロムは丁寧な言葉遣いに変えました。赤のトッシュは目を半開きにして聞いています。
「でも、夜の月は綺麗でした。あんな月あかりは初めてで、青くて白い明かりなのに浴びているとからだが暖まって、おかしいですよね。ぐっすり寝てしまいました。目が覚めると気分も良くて見知っている風景があったので自分の町だと思いました。真っ先に考えたのは落ちたブランコのことでした。そのときに会ったのが公園の遊具の整備員でした。彼と話すのはとても辛くて、ムンカとビッカの忠告もあって家に戻ることにしました。でも父にも母にも会えませんでした。町の様子がどこかおかしい。自分の町だと思っていた町が違っていたんです」
そこまでヒロムが話すと、赤のトッシュはひと言だけ言いました。
「まあそうだろうね。次は」
続きを催促されてヒロムは続けます。
「怖くなって家から飛び出たときには歩く力がなくてビッカに背負われて町を離れていきました。町外れでその光を見つけたのはムンカでした。確かめに出たムンカによると小屋の中でいたのがキルカでした。ずっと付き添ってくれてたムンカとビッカにぼくは嘘をついていて、やましくてキルカの小屋の中に逃げたんです」
ヒロムはじっと赤のトッシュを見て説明していました。秘めていた気持ちも話しました。
ヒロムの話が終わると、赤のトッシュは目を開き言いました。
「キルカに出会った経緯はわかった。でもジロジロ見るのは失礼だよね」
ヒロムは下を向いてしまいます。
「私たちを見ても驚かないね」
ヒロムは首を横に振ってそうではないことを伝えます。
「でも不思議なことはいくらでもあるから」
すると赤のトッシュは、「カラカラカラカッカッカ」と笑い声を上げます。
それが合図なのか、くるっと回転して青のトッシュと代わりました。
青のトッシュはヒロムを見ます。その目は左右が下がり気味で困惑している様子がわかります。
「キルカの所に行くとは思わなくてね。手間取ったよ、探すのに」
面白くなさそうに言います。何が落胆させているのかちっともわかりません。
青のトッシュはヒロムに問います。
「キルカの園をよく抜けたな。一人ではなかなか難しいと言われている。体の痺れはどうだった?」
「キルカがさすって抜いてくれました」
「そうだろうね。痺れが抜けないままキルカの園に入ったら大変なことになってしまう」
ヒロムはキョトンとした表情で聞いています。青のトッシュは繰り返します。
「大変なことだ。どうなると思う?」
言われるまで思ってもみませんでした。ヒロムはかぶりを振って青のトッシュを見ます。
「そうだろうね。たった今考えてごらん」
「たぶん」
少し間が空いてしまいます。
「たぶん、毒の痺れで体が動けなくなって」
そこまで言ってヒロムの目は大きく見開きます。
「どうやら察しがついたようだね。力尽きるんだ。そして木の葉がくっついて虫にされたり砂場の鯉の餌になってしまうんだ」
体に震えが走ります。帰れなかった子はまだ園にいるとキルカが言った意味がはっきりわかりました。
「幸運だったのか、キルカがどうかしてたのか」
青のトッシュはため息まじりに言います。
「キルカが出口まで送ってくれたんです。ぼくは当たり前のように思っていました。でもそこに着く頃にキルカの体は縮んですっかり焦茶色に変わって」
そこまで言うとヒロムは言葉が出ませんでした。
「そうだろうね。小屋から出ないキルカが出てしまった。まだ早いのに。出なければ続けられたのに」
青のトッシュの表情が歪んでいます。自分のように喜んでいた様子が印象的でしたので余計に言葉が胸に突き刺さります。
青のトッシュはヒロムを見ながら続けます。
「なぜキルカが出口までわざわざ自ら送り届けたのか。おかしなことだ。自分の管轄のブランコでもないのに」
それまで黙ってい聞いていた赤のトッシュが考えを話します。
「逆じゃないかい。月の庭のブランコから落ちたから出口まで送り届けたんだよ」
「それにしたって自分のキルカと天秤にかけるほどのもとは思えない」
「そうかもしれないが、キルカの判断だ。こればかりは彼自身に聞いてみないとわからない」
青のトッシュは目をパチクリしながらうなづきました。
「裏目に出てしまったね、青のトッシュ」
赤のトッシュが裏側から話しかけています。
「そうだ。キルカには本当に悪いことをしてしまった」
「余計なことをしてしまったんだよ。我々は」
「キルカに良かれと思ってしたことが、結果はキルカの邪魔をしてしまった」
青のトッシュの声は後悔が滲み出ています。
「親水公園に落ちた子よ。何かしたいことはあるかい?」
ヒロムはすぐに答えられません。
青のトッシュが言い終えると赤のトッシュの顔が現れます。
「キルカに付き添われて出口まで来た子よ。キルカに言いたいことはあるかい」
ヒロムははっきりと頷いて言いました。
「今度は公園のブランコから落ちて会いに行くと伝えてください」
赤のトッシュが呆れ声で言いました。
「青のトッシュ、ちっとも懲りてないよこの子は」
そう言ってそっぽを向くようにくるっと回転しました。
交代した青のトッシュはヒロムをまじまじとみて言います。
「月の庭のブランコから落ちた子が、間違ってキルカの所に行かないようにしたんだ。まさか親水公園から行けるとは思ってもみなかった」
その一言でヒロムにも事情がわかりました。青のトッシュがヒロムの表情を見て言います。
「わかったようだね。もう一度キルカに会おうなんて思わないでくれ。たとえ感謝の言葉を伝えられなかったとしてもだ」
ヒロムは神妙な表情になって一言も発さずうなずきます。
「赤のトッシュ、これで話は終わりだ。何か付け足すことはあるかい」
しばらく間をおいて赤のトッシュが答えます。
「特にはないよ。キルカが自分のキルカと引き換えに出口まで送ったんだ。どこへ行きたいのか聞いておやりよ」
ヒロムは喜んで話します。
「キルカに言われたんです。落ちた場所に行ってみろ。始まりはそこだって」
「それは簡単なことさ」
青のトッシュはあっさり答えます。嬉しくてヒロムはさらに尋ねます。
「あのブランコの言い伝えを信じてもいいですか。乗せてあげたい友達がいるんです。揺らせられれば好きな所へ行けますか?」
青のトッシュは目をパチクリパリクリと幾度も瞬かせます。
反対側から赤のトッシュが「カラカラカラカッカッカ」と笑い声を上げます。
「答えられないことも、答えていけないこともある」
そっけない言い方です。しかし、ヒロムはがっかりした表情にはなりませんでした。自分は落ちてしまったけれどムンカには揺らせられるかもしれません。ヒロムは喜ばしいことだと思いました。
「変な子だな。何を笑っている」
「どうやったら月の庭のブランコを揺らせられるかなって」
青のトッシュは呆れ顔になってヒロムを見ます。
「ケタタケタタケッケッケ」と青のトッシュの高笑いがこだまします。終わると赤のトッシュです。
「今度は自分でなくて誰かのためかい」
「カラカラカラカッカッカ」と笑い声を上げます。
「赤のトッシュ、そろそろ引き上げようか」
「そうだね、青のトッシュ」
ヒロムは慌ててしまいます。そのまま置いていかれては大変です。ヒロムの様子を見て青のトッシュはいいます。
「すでにここは水の館の中だよ」
トッシュのサウンドバーのような細い体が次第に横に広がります。窓のようになると外側の明かりが透き通って入ってきます。
目を凝らすと月あかりに照らされた月の庭が浮かび上がってきました。
 青のトッシュの言う通り巨樹の内側から、月明かりに照らされたブランコも見えています。そしてブランコに触っているビッカとムンカの姿も目にすることができました。


バスは夜の橋を渡る

 「後から来るって言ったけど、ビッカは信じてる?」
ムンカとビッカは停留所で、並んでバスを待っています。
 話題は公園の整備員こと影男のことでした。一緒に行くと言ったのに一向に姿を現しません。
「気が変わったんだ。きっと」
期待薄だと思っていたビッカはあっさりと言います。
「準備が必要なのかもしれないよ」
ムンカはそうではないようです
「今バスが来たらどうしよう」
「乗るしかないさ」
「どこで降りるの」
「影男が教えてくれた目印がある」
「大きな木だって言ってたよね。どの程度なのかな。夜なのにわかるかな。バスから遠いと見えないこともありそうだよ」
「なんとかなるさ」
次々と心配の種を持ちだすムンカに、ビッカは目玉をクルクル回してこたえます。
「ほら、あれバスじゃない?」
両目を光らせたようにヘッドライトをつけてバスは近づいて来ます。暗い街まで明々と照らしすほどの明るさです。
ビッカとムンカはバス停の前に止まった車に乗ります。
「止まったからこの車だよね」
弾んだ声でムンカが言いました。ビッカはふと不安を覚えました。もし通りの向かい側にもバス停があるかもしれないと思うと迷いが生まれます。思えばムンカのペースがずっと続いています。
「早く座ろうよ」
そう言うと通路の左側に空いている座席を見つけました。
「ビッカもバスは初めてだよね」
ビッカは曖昧にうなずいて乗り込みます。車内に乗客は見当たりません。ムンカとビッカだけです。
「広々としていいね。借り切ってるみたい」
ムンカははしゃいでいます。
「ビッカ、運転する人だっていないよ。大丈夫?」
「おそらく全部自動運転だ。運行コースが決まってるから」
市街地を出ると街灯は姿を消します。ただヘッドライトと車内の明かりが路肩を照らします。やがて路面から伝わってくる音が変化しました。タイヤの音が周囲に大きくこだますような響き方になりました。そのときです。抑えたか細い声が後ろから聞こえてきました。ビッカとムンカの後ろからです。
「あの、お二人」
呼びかけています。ビッカとムンカはそろって後ろを見ました。座席には誰の姿もありません。ビッカとムンカは顔を見合わせます。
「何か言った」
「ムンカこそなにか言った?」
「でも聞こえたよね」
「ぼくですよ」
声だけがします。
「聞き覚えのある声だよ」
ムンカは後ろを振り返りながらビッカに言いました。
「そうかな」
「もしかして公園の整備員でしょ」
気がついたムンカが言いました。
「嬉しいなぁ」
感激の口調で答えます。
「顔ぐらい見せろよ」
「待ってたんだけどバス停に来なかったよね」
ビッカとムンカは口々に言いました。
「事情があるんですよ」
「姿を見られてまずいことでもあるの?」
ムンカは小声でつぶやきます。
「バスに乗って出るところを見られたくなかったんですよ」
「誰が見るんだよ」
ぶっきらぼうな口調でビッカが言いました。
「それって困ることなの?」
とムンカも尋ねます。
「ぼくも色々とあってね」
影男はため息をつくような口調で言いました。
「公園の整備員って不自由なんだね」
ムンカが同情的な口調で言います。
作業着のフードがブルルッと震えました。
「もったいぶらないで話そうよ。どうして姿が見えないんだ」
ビッカはじっと声の方を見ます。
「作業着を風景に合わせただけですよ」
「まるで保護色だね」
「表情が見えないとビッカに言いたい放題言われるよ」
「影男の輪郭らしいもが浮かび上がってきます。
「今見えるように努力してますから」
「努力ご苦労様」
ムンカがからかい気味に言います。
「公園から遠ざかると影が薄くなるんです」
ビッカは左右の目玉を上下させながら言います。
「聞けば聞くほど不自由だね。整備したブランコも乗って確かめられないし」
「ビッカさん、ありがとう。そうなんですよ」
影男の輪郭が青白く光リました。
「姿が見えないから騙されたのかと思ったよ」
ビッカは素っ気なく言う。
「来ないのかと思ったよ」
ムンカも心配そうに言う。
「まさかそんなこと、せっかくの機会を逃すなんて」
「そうかな。嫌がってるように見えてたけど」
頭のフードの青っぽい輪郭が揺れています。
「正直言うと迷いましたよ。でもバスに乗ることも水の館にも行くことも、今を逃せば二度目はないでしょうね」
「たいそうな決断をしたんだね」
ムンカは感心します。影男は嬉しいのかフードの輪郭が一層光を増しました。
「もしかしたらバスに乗るのは初めてなの?」
ムンカはなにげなく尋ねます。返事がありません。フードの輪郭が消えかかります。それを見てビッカは叫びました。
「乗ったことがないな! それって水の館にも行ったことがないのと同じだぞ」
ビッカは決めつけて素早く手を伸ばしフードをつかみました。影男は驚いてギャっと声を上げます。
「痛かった? 乱暴は良くないよビッカ」
ムンカに言われてビッカは手を離しました。
「それで、乗ったことがないのと行ったことがないのは、本当?」
ムンカはのんびりと尋ねました。
「実を言うとビッカさんの言うとおりです」
「降りよう。どこへ行くかわからないよ。ビッカ」
今度はムンカがあわてます。ビッカは左右の目玉を回して呆れます。
「手遅れですよ」
影男はしれっと言いました。
「手遅れって?」
「どういうことだ」
「外からの音が変わったでしょ」
ビッカもムンカも耳を澄まします。いつの間にかロードノイズが大きくなっていなました。タイヤと路面の摩擦する音が夜の闇にこだましています。
ビッカとムンカは窓ガラスにはりついて外を見ます。
「暗いね。うっすらとしか見えないね」
「もう、橋を渡っている最中ですよ」
影男が穏やかに言います。
「バス停もないですよ。橋の上ですから」
「橋に一本の街灯もないなんて」ムンカは窓に顔をはりつけたまま言います。
「お月様はどこに行ったかな」ビッカも夜空を見上げて言います。
濃淡のある闇がカーテンのように揺れています。
「大きな川を渡ってるんだね。水の匂いがしてるよ」
「隣町って言ったくせに随分遠そうじゃない」
ビッカは不安そうです。
「降りるところはわかっているよね」
ムンカが尋ねます。
「ええ、大体」
「頼りになる返事だ」
ビッカは呆れ声で言います。
「橋を渡り切れば右前方に丘が見えるはずです」
影男は自信たっぷりに言いました。
「行ったことのないくせに自信があるね」
「整備員の仲間内ではそう言われてるんです」
「じゃその仲間は行ったことがあるんだね」
ムンカの問いかけに影男は口籠ります。
「確かな話じゃないんだ」
落胆した声でムンカが言いました。
「でも言い伝えなんですよ。昔からの」
影男は白状しますが確信しているようです。
「うわさ話とかわんない」
ビッカはため息をつきます。
「行ったことがあるのはヒロムだけだね」
ムンカもため息まじりに言います。
「しかし、一体どうやって行ったんだろう」
ビッカが疑問を口にしました。
「やはりバスでしょう」
影男が答えます。
「自転車だって持ってるよ。ヒロムの家にあった」
ムンカは右側の座席に移動しながら言いました。
窓ガラスに顔をくっつけて外を見ます。
「よく観察していますね」
影男は感心します。
「公園なら地図に載っている。ブランコ探しに使える。でも水の館なんて載ってるか? どうやって調べる」
ビッカが言いました。
「大丈夫ですよ、目印は大きな木で、見逃すはずがない」
「どの程度の大きさなの」
ムンカは窓ガラスに張り付いたように外を見ています。ビッカもつられて外を見ます。
「それは、かなり大きな木らしいですよ」
「まさかそのあたりの公園の木より大きい程度というのはないよね」
ビッカの問いかけにフードの縁が点滅しています。
「聞くだけ無駄か」
ビッカはため息をついてしまいます。
 バスの外では雨が降り始めました。窓ガラスに雨粒があたっています。
 「どの水の館だろう」
座席に座り直したムンカがポツリと言いました。
「え、なにか言った?」
ビッカはムンカの一言を気にとめました。
「どの屋敷って、いくつもあるうちの一つって意味になるぞ」
「そうなの?」
ムンカはのんびりと言います。
「ムンカさん、水の館を知ってたんですか」
「知らないよ」
ムンカは尾っぽを横にふりながら答えます。
「でも生まれて育った湧き水のある家も水の館だって言われてたよ」
ムンカは当たり前のこととして話ています。
「どういうこと?」
ムンカは説明します。
「裏庭に清水の湧きでる池があるんだ」
「湧き水だね。水が美味しそう」
「昔は飲み水だったらしい。結構深くて鮒も泳いでいたよ」
「魚の楽園みたいだね」
影男がうらやましそうにつぶやきます。
「湧きでた水は近くの沼に流れこむんだ」
「ムンカさんはそこで生まれたんですか」
ビッカはムンカと影男のやりとりをぼんやりと聞いています。育った所の話は初めて耳にします。故郷の詳しいことは思い出させたくなくて尋ねていません。
「夏になると蓮の葉が沼をおおうんだ。水の中はすっかり日陰になる。花も咲くしね」
「蓮の咲く沼か。日陰もいいけど葉の上で眠るのもいいな」
「水は屋敷の堀の水路を通って外に流れ出るんだ」
「それだけで水の館と言われてももの足りないな」
「ビッカ、それだけじゃないよ。堀の幅は広いよ。飛び越えられないくらい。それが広い屋敷をめぐっているんだ」
「ムンカさん、良い所で生まれ育ちましたね」
影男はうらやましそうな口調で言います。
「春には庭にある枝垂れ桜を見上げたよ」
ムンカは笑みを浮かべるが下を向いてしまいます。ビッカは眉を顰めて影男を見ました。あまり触れたくない話でした。
顔をあげたムンカが言いました。
「そう、今はないけれどね」
どぎまぎしたのか影男のフードが薄い青から赤色に変わります。
「聞いちゃってごめんなさい」
「気にしなくていいよ。今だってどこかで水の災害が起きてるよ」
「そんな作りの家はけっこうありそうだぞ」
「ビッカさんは、心あたりが?」
「あるよ」
「どこにあるの」
胸を張って当然のように言いました。
「どこって、お城がそうだよ」
ムンカはびっくりし、次に腹を抱えて笑います。
「確かにそうだよ。ビッカ。でも」
「なるほど。言われてみればそうかも」
影男も笑いながら言います。
「笑ってもらえるほど面白いことを言ったつもりはないけど」
ビッカは面白くありません。右目は右に寄り左目は左に寄ってしまします。
「城だったら洪水にも耐えられたかもしれないね」
ムンカはビッカを見て言います。ビッカは深くうなずきました。
 「ビッカさんムンカさん、尋ねていいですか」
影男はそれまで聞きかねていたことを口にしました。あらたまった言い方にビッカもムンカも影男を見ます。フードの中でうっすらと表情らしきものだ見えます。
「お二人はどうしてそこまでしてヒロムのために力を尽くしているのですか」
「沼の水草に上にしがみつくように浮かんでいたよ。どのくらいそうしていたのかわからないけれど、からだは冷え切っていた。放っておけなくて暖かいドールハウスに運び込んだんだ。どんな事情であんな場所にいたのかわからなかった。それで想像したんだ。ヒロムは何かに追いかけられて、見上げても親水公園からは見られない高い高い橋の上から飛び降りたんだろう。助かる場所は橋の下の親水公園だけだと飛び降りた。だから助けなくちゃいけないんだって」
ムンカは自分で作ったお話を話しました。
「どんな子か知らなかった。けれどムンカが助けると決めたんだ。信頼しているのはムンカだよ。だからさ」
ビッカは短く言い説明は加えません。
 「ほら見てくださいよ」
コツコツと窓ガラスを叩いて知らせる。やりとりを聞きながら外を見ていた影男が声を上げました。
バスは橋を渡りきりました。
「いつまで渡っているのかと思ったよ」
「まだ乗ってないといけないのかな」
バスの室内灯がバスの周囲にあふれでています。外では雨粒がキラキラときらめいています。外を見ていたムンカが言いました。
「光が雨粒のなかに閉じこめられてるみたいだね」
「やはりそう見えますよね」
影男は確かめるように言います。
「なんだかウキウキしてるじゃないか」
ビッカが影男に言います。
「わかります?」
「だってフードがきれいにはっきりと光ってるよ」
「なごやかになる色だね。親水公園に咲いている藤の花に似ているよ」
「仲間の言っていたとおりなんですよ。橋を渡り終えると雨が光だしたのは」
喜ぶ影男にビッカは言います。
「喜ぶ理由がわからないよ」
「ですよね。でももうすぐですよ」
「大きな木が見えだすの? 水の館の目印の」
「え?」
影男はその一言だけもらしました。聞き留めたビッカは目玉をぐるりと回します。
「『え』って、どういうこと。驚くことじゃないよね」
影男のフードの色が急に変わり赤になったり青になったりとあわただしく光ます。
「ビッカ、ビッカ。きっとまだ何か隠してるんだよ」
ムンカが興奮して叫びます。
影男のフードが黒っぽく光ります。
「お二人には謝罪します。ごめんなさい」
影男はあらたまった態度になりました。
「実は最後まで、ご一緒できないんです」
「それって水の館までは行かないってことなの」
影男は申し訳なさそうに言います。
「次の停留所で降りなくちゃいけないんです」
影男のフードが弱々しく光ります。そのうす青い光を見てビッカは言います。
「そうか。事情がありそうだ」
ムンカは声の調子に切実さを感じました。
「どうして?」
「約束があって」
ビッカとムンカは影男を見つめます。影男はきっぱりと言いました。
「以前からの約束なんですよ。やっと果たせるかも知れない」
興奮しているのかフードが薄赤く光ります。
「前も言いましたよね。整備員はブランコに乗ってはいけないって」
ビッカもムンカもうなずきます。
「お互いの約束なんです」
「こんな夜に行っても大丈夫なの」
ムンカが尋ねます。
「だれとの約束だ?」
ビッカも尋ねます。すぐには答えず影男はバスの窓ガラスにへばりつくようにフードをつけます。
「見てくださいよ」
影男は外を指さしました。
「蜜柑畑しか見えない見えないぞ」
「その段々畑の下です」
「なんなのあれ」
高いフェンスで囲まれていて中が見えません。
「遊具の置き場です」
「遊具の置き場?」
ムンカが繰り返します。
「捨て場じゃないの、遊具の」
ビッカがそっけなく言います。
「いえ、置き場です」
影男はキッパリと言いました。
「あそこに約束の相手がいるの?」
影男のフードが勢いよく光ります。
「遊具は備品なんですよ。鉄なら錆びるし、木製なら雨風で腐ります。そのまま
にして、もし子供たちに怪我でもさせると」
「それで、何が言いたいの」
ムンカが尋ねます。
「まだ動ける。少し修理すればいいものまで期限が来たらお払い箱です」
「それがあそこに有るわけだ。まるで廃棄処分前の放置自転車だな」
冷たい言い方ですがビッカは納得しました。
影男はフードを揺らして答えます。
「処分される前に修理すると約束したんです」
「それでもう一度出番が回ってくるの? 修理されたら」
ムンカが尋ねます。
「ええ、元の公園には戻れなくても復帰できます」
「間に合うといいね」
「どこか必要とされているところへ連れていくわけだ」
ビッカが言います。
「あては有るの?」
フードの縁が青白く点滅します。影男は降車のボタンを押しながら言いました。
「お二人に感謝です。決断がついたのはお二人のおかげです」
「ふるい約束を果たしにいくのなら最後まで付き合えとはいえないよ」
「それで元の整備員に戻れるの」
ムンカの問いかけに影男のフードが揺れます。その様子を見てビッカが言います。
「戻れないからずっと延び延びなんだよ」
影男のフードが挨拶でもするように青く白く交互に輝きました。
影男はバス停に降りたちました。光る雨がからだをぬらし始めます。作業着が、フードが光りだします。
「行っちゃったね」
ムンカがポツリと言い、ビッカも光る影男の背中を見送りました。

 バスは小高い丘の斜面を登って行きます。
「これって蜜柑畑だよね」
段々畑を見てムンカが尋ねます。
「さっき言ったよ」
気のない声でビッカは答えます。
バスはつづれおりの坂道を登って行きます。フェンスで囲ってある場所が下に見えてきました。
「ほら見えるよ。フードが光っている。あれそうだよね」
窓に顔絵をはりつけるように見ていたムンカが言いました。影男は小さく光っています。思いのほかその場所は広く見えていました。ビッカはボソリと言います。
「あんなに広くて探し当てられるのか」
ビッカの心配をムンカも感じとりました。
「約束してるのだから、あんなに広くても会えるよ。きっと」
ビッカもうなづきました。
「あれだけ精一杯光っていたらブランコも声をかけてくれるかもな」
「ヒロムとは約束してないね」
ポツリとムンカは言いました。ビッカは、何も答えません。口数は消えていきます。ムンカはただ窓の外を見つめ、ビッカは目を瞑ってバスの風切る音に耳を澄まします。

水の館と月の庭

 「ビッカ見て、あそこだよ」
バス窓に張り付くようにして外を見ていたムンカが声を上げました。ビッカも車窓から外を見ます。月明かりに照らされてドームのように樹影が盛り上がっていました。
「影男の言ったとおりだ。公園の樹木とは大違いだ」
「うん。嘘は言ってなかったね。ビッカは怪しいと思ってた?」
「いや。でもあれほど大きいとは予想を外れてた。それにずいぶん高いよ」
ビッカは窓越しに大きな目を見開いて見ています。
「四方にも広そうだ。あれ本当に木なのか」
「ちょっとしたお城くらいの大きさだね」
ビッカとムンカが口々に話しているうちにバスは遠ざかりだしました。
「降りなきゃ。早く」
目を奪われていたムンカもビッカも慌てて降りました。
停留所からは徒歩です。まだ少し斜面があって小道を登ります。
 バスの外に出るとビッカもムンカも鼻を引き攣らせました。風に運ばれて香りが漂ってきます。
「なんの匂いだろ」
「そうだね?」
「雨の匂いかな」
「雨は止んだけど、少しは残っているよ」
「ちょっと違うかな」
「うん違うね」
「わかった。これ木の香だよ」
「葉っぱが出してる香だ。風に漂ってくるね」
香りに誘われるようにしてビッカとムンカは巨樹に向かいます。
「ビッカ、なんだかドキドキするよ」
ムンカの声がいっそう甲高くなります。
「何に近づいているんだろう」
ところが、ビッカの方は不安そうに言います。
「もちろん目印の木だよ。どうして?」
「そうだよ。木だよ。近づいているからもっとはっきり見えてもいいはずだ。ムンカ、ぼくにはまだ黒い塊に見えるているんだ」
「夜だからじゃない」
「同じものを見てるんだよ」
ビッカは頭を横に振りながら言います。ムンカはビッカの目を覗き込むように見ました。
「何か変わったところが目玉に現れている?」
ビッカはムンカに尋ねます。
「赤い部分に黒い筋が出てるね。理由はそれかな」
「老けたせいなのか」
そう言いながら巨樹を見ます。首を傾げて納得していない様子です。
 「近づくと香りが強くなってくるね。この香り嗅いだことがあるよ」
ムンカは鼻を利かします。
「この木の匂いは、懐かしいよビッカ。楠木だよ。すみかだった屋敷の庭にあったよ」
大木になる木で知られている木でした。巨樹の正体をムンカが明らかにしましたが、ビッカの目玉は上下に揺れて動きます。遠くから見たときは青黒いシルエットでした。間近に来ても同じで木には見えません。
 東西南北に広く伸びた枝の端にやってきて、ビッカとムンカは足を止めました。
「とうとう着いたね」
見上げながらムンカが言いました。
「そう、やっとね。でも」
ビッカはそれ以上は言い淀みます。
「ね、ビッカ。水の館はどこにある? もしかしてヒロムは来てるかな」
ムンカはあたりを見回してみます。周囲には小さな小屋一軒ありません。ビッカは目をしばたたかせています。
「じつはムンカ、楠木だと言っているけれどぼくには木に見えたりやか……」
 ビッカが言い終わらないうちにムンカは歩を進めて枝の下に入っていきます。見上げても夜空の星は茂った葉に遮られていました。新月の夜のように暗いのです。一方ムンカはそこここと動き回っています。初めて訪れた広い境内をキョロキョロと視線を動かして探っています。何かを見つけたのかムンカがビッカを呼びました。
「見てよ、あそこ」
ムンカの指差した所は光が差していました。ぽっかり空いた枝々のすき間から月の光がさしこんでいます。そして横に張りでた太い枝にそれはあったのです。一対のロープがぶら下がって木の座板のブランコがひっそりと佇んでいます。
「これもブランコかな。公園にあったのとはずいぶん違うよ」
公園のは鉄の鎖でしたが、こちらは糸を撚り合わせたロープです。それも揺らしたら切れてしまいそうな細さです。
「これがヒロムが揺らそうとしたブランコなのかな」
「さあ、どうだろう。乗ってみたくなるようなものじゃないよな。ロープが細いよ」
「ぼくなら乗れるよね。軽いから」
ビッカはムンカに確認します。
「ここにきたのはヒロムが揺らすのを止めるためだよね」
そう言ってビッカはブランコのロープに手を伸ばします。強く引っ張ってみます。荒っぽく見えたのでしょうムンカは慌ててビッカの手を握って止めました。
「乱暴しないで」
懇願するような口調でムンカは言いました。ロープを手にしたままビッカは見上げます。明かりが差し込んでいるあたりに目を凝らしています。
「ビッカ、何をみているの?」
「ムンカ、ここが月の庭だよ」
「でも水の館は? 影男が言っていたような館は見当たらないよ」
「彼だって見たことはなくて、伝え聞きばかりだった」
ムンカもビッカと同様にブランコの上を見上げています。
「こうやって見上げるまでは伸びた枝々や茂った木の葉は黒いシルエットにしか見えなかった。建物の塊くらいにしか見えなかったんだ。今ロープを握ってみてみると確かに大きな木だよ。そして館って言える立派さだ」
「ここで良いんだね。ヒロムはこれを揺らそうとして落ちたんだ」

 見上げると枝や木の葉の隙間に月が現れる。色は青く白い月だった。
「ビッカ、今ぼくの名前を呼んだ?」
「いや、ぼくが呼ばれたのかと思った」
二人揃って顔を見合わせます。そして周囲を見回します。
「あそこなに?」
素早くみつけたムンカが指さします。巨樹の根元の部分が四角い鏡のように光っています。見ていると次第に広がっています。そこから音が聞こえてきています。
「まるで樹が話しかけているみたいだよ」
「まるでスピーカーみたいだ」
ムンカが言うと、ビッカも答えます。
ムンカが笑顔をうかべます。
「ね、ビッカ。聞き覚えがあるよね、この音だけど」
「音じゃないね。声だね」
ビッカも喜びます。巨樹の幹にそろって近づきます。窓ガラスくらいの大きさだったのが扉のように大きくなりました。
「ヒロム、そこにいるの? いたら返事をして」
ムンカが叫びました。ビッカも同じでヒロムの声だと思いました。
「どうだ、でられるのか?」
ビッカも心配します。
キルカの出口で闇に塗り込められたときとは逆でした。
ヒロムの体は押し出されるように外に出されました。
少しよたつき膝を地面につきました。
「ヒロム大丈夫、怪我はない」
心配するムンカが近くによります。ヒロムは立ち上がりながら答えます。
「少し痛いよ。でも、もう痛くはないよ」
ビッカはその様子を見て感心します。
ムンカはせっかちにまた尋ねます。
「ヒロム、どうだった?」
何がどうだったのかちっともわからない尋ね方です。ビッカは笑いながら見ています。
「大丈夫だった!」
ヒロムは満面の笑顔で答えました。腹の底からの笑顔です。ビッカはそんなはずはないだろうと思います。ムンカもわかっていないはずはありません。それでもヒロムにあわせます。
「それよりムンカ、あのブランコに乗ろう」
ビッカはヒロムの興奮状態に戸惑い気味ですが、ムンカは即答しました。
「いいよ。乗ろう」
ビッカもヒロムとムンカについて月明かりのさす場所に戻ります。
「このブランコは揺れないって言ってたよね」
ムンカはヒロムに確認します。
「でもね、ムンカ、行きたい場所があるでしょ? ムンカならいけるよ」
ヒロムは先にむんかを座らせます。ムンカはうれしそうに座ります。そしてその横にヒロムは座りました。ムンカを抱きかかえるようなかたちです。
「ほんとに揺れるかな。どきどきするよ」
ビッカはその様子をじっと見ています。ヒロムは自分のために月の庭に帰ってきたのではなさそうです。
「揺らすよ、ムンカ」
ヒロムはムンカに注意するように言います。ヒロムは思い切って地面を蹴飛ばします。

しかし、ブランコはちっとも揺れません。二度三度と地面を蹴飛ばします。それでも揺れません。横で見ているビッカにヒロムとムンカは助けを求めます。
「ビッカ、背中を押して」
「頼むよ、押してみて」
ビッカは二人の後ろに回ります。ゆっくりと二人の背中に手を起きます。暖かい体温が伝わってきます。さあ揺れてくれビッカはそう思いながら二人を押しました。
「揺れてるよ」
「ぎこちないけど揺れてるよ」
ムンカとヒロムが喜んでいます。ビッカは揺れてくれと繰り返します。
次第に揺れが大きくなるとますますムンカとヒロムの喜ぶ声が月の庭いっぱいにこだまします。
揺れが安定しました。ムンカとヒロムがしっかりと揺らしています。変化はしだいに見えるものになってきました。
「ビッカ、ムンカの姿が薄くなっていくよ」
ヒロムの言う通りムンカの姿は薄くなっています。しまいには月明かりに消えていきました。ヒロムはいいます。
「きっとムンカの願いが叶ったんだ」
ビッカもこたえます。
「そうだよ。あのこは湧水のムンカだ」
今度はヒロムの体も薄くなっていきます。ビッカは尋ねます。
「ヒロムはどうなんだ」
多くを言わなくても理解したようです。
「ぼくは大丈夫、ビッカ」
どこがどう大丈夫なのかちっともわかりません。それでもヒロムの気持ちは伝わります。ビッカは頷いて言葉の代わりにしました。やがてヒロムの姿も消えていきました。
 残ったのはビッカだけです。ビッカもブランコに乗りました。ヒロムの真似をして地面を蹴飛ばし揺らそうとします。でもびくともしません。ビッカには乗る前からわかっていました。もしゆれてヒロムのように落ちたらその方が大変なことです。ビッカはブランコを離れて木の根っこに座りました。地表に張り出た大きな根っこです。ビッカにはちょうど良い大きさです。そこからは月明かりに照らされて静かに佇んでいるブランコが見えます。影男が言っていた様子も的外れではありませんでした。
 ムンカとヒロムを送り出すことができました。これはこれで良い仕事だとビッカは思いました。親水公園ではできなかったことです。もしかしたら月の庭のブランコに惹かれてやって来るものがいるかもしれません。そのときには少しは役に立つだろう。ビッカはここでひと休みだと目を瞑ります。

お終い



 お終い


第一話

https://note.com/anabuki411/n/nf7f3d98c604e

第二話

https://note.com/anabuki411/n/n25f27afba0c5

第三話

https://note.com/anabuki411/n/nc540ee72ae4d

第四話


第五話

#創作大賞2024
#ファンタジー小説

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