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『水辺のビッカと月の庭』  第4話


キルカの眠り

 ヒロムは急いでドームに駆けよりました。気になると後先を考えないですぐ行動にうつしてしまうことがあります。背伸びして円形の窓から中をそっと覗きこみました。土のベッドの上には黄緑色したパジャマがきれいにたたまれています。背もたれの大きな椅子は向こう側を向いていて見えません。にぶい金色の光はそこから発していました。椅子は小刻みに揺れています。座っているものがいることがわかります。そのうちに椅子がクルリと回転しました。現れたそれの顔にヒロムの視線が注がれます。ムンカの言ったとおりビッカの顔に似ています。目は大きくて赤い。でもビッカの充血したような赤とは違って見えます。太くて短い首には蝶ネクタイ。頭にはナイトキャップ。たった今起きたのかこれから眠るのか妙ちくりんな格好でした。
 それは椅子からおもむろに立ちあがります。のっそりと歩いて姿見の前にむかいます。ビッカよりずっと大きなからだです。姿見の前に立つと口を開け大きな伸びをしました。口もまた大きくてヒロムの頭くらいはひと飲みにできそうです。次に腹を膨らませたり前足をしげしげと見たりと忙しそうです。姿見に映した背中を見ようと短い首をなんとか回し悪戦苦闘しています。 ヒロムはそのしぐさがおかしくて思わず吹きだしそうになります。からだ全体はこんじきとこげ茶の水玉模様です。水玉といってもまん丸ではありません。形が崩れていて全身がマダラ模様です。こんじきとこげ茶の境が光りながら変化しています。それは深くため息をつきました。気落ちしているようです。確認が終わると今度は大股で部屋を行ったり来たりと苛立っている様子です。
 ヒロムは自分が姿見の端っこに映っているのに気がつきませんでした。
 窓の反対側からピョンと窓まで移動してヌーッとヒロムの顔を覗きこみます。大きく開いた口から長い舌が伸びて、ヒロムの頬をペロリと舐めました。そのまま部屋の中に引きずりこみました。あっという間のことでなんの術もとることができませんでした。大きな目が床に転がされたヒロムを覗きこみます。
「そらつかまえたぞ」
ぐっとヒロムに顔を近づけました。ヒロムは避けようとするが動けません。
「今度も少年か。窓から入ってくるとは珍しい」
野太い声で言いました。ヒロムは起きあがろうとしますが。からだが痺れて思うようになりません。急に怖くなりました。
「ごめんなさい」
おもわずヒロムは謝ってしまいました。
「いきなり謝罪か。闇雲に謝られてもなあ」
困った様子で目玉が動きます。右目が上に左目が下にとチグハグに上下します。口調も不機嫌そうです。
「何を謝ったかわかってるか」
ヒロムの視線は右斜め上にいったり左にいったりと定りません。首も小刻みに震えています。相手は深くため息をつきました。心なしか小屋が震えているようです。
ヒロムは相手の目をちらりと見ました。赤いのはビッカと同じです。でも赤い目玉がドクンドクンと鼓動を打つように大きくなったり小さくなったりしていて怖そうです。ヒロムはすぐに視線を外しました。良い予感がちっともしません。軽はずみな言葉は言わないようにと考える。
相手の腹の虫がグォーと盛大に鳴りました。
「キルカは結構腹が減るんだ」
 そう言うと椅子にぺたんと椅子に座り込んでしまいました。緊張が少しばかり緩みます。ヒロムの腹の虫もグルルーと鳴ります。
相手の左右の目玉が一緒に時計回りに動き出します。回り終わるとぴたりと視線がヒロムに止まりました。
「食っちまおうか」
 不意の言葉にヒロムは驚き青ざめます。裂けたような口から漏れる薄ら笑いがヒロムに向けられます。逃げようにもからだは痺れて動けません。
「ぼ、ぼくは美味しくないですよ」
縮こまったからだから言葉をしぼりだします。
「驚かせたかな。でも、まだ怖がることはない」
身を固くしたままヒロムは聞いています
「ときどき発作が起きるんだ。目覚めたすぐ後は具合も良くない」
無表情のままで言います。ヒロムの血の気がサーッと引いていきます。
「何か探してきましょうか」
無表情のままで視線はギロリとヒロムをさします。
「何もなさそうだから、食べる物」
ヒロムは焦って口から吐きだすように思いつきを述べます。
「ごめんなさい。黙ってのぞいてしまって」
「気に入らないことをしちゃってたらごめんなさい」
「邪魔したみたいだからすぐ帰りますね」
聞いている相手は左右の目玉がチグハグに上下します。困ったときのビッカの動きとよく似ています。
「もしかしてビッカのお兄さんですか? それとも従兄弟とか」
動いていた目玉が止まります。
「だれだ、そのビッカというのは」
ヒロムはビッカの説明をしました。左目は時計回りに、右目は反時計回りに回りだしました。目の周り方がビッカとは違います。
「またか! ワタシをカエルごときと同類にするとは!」
足で床を強く踏みます。部屋の壁に亀裂が走るのではないかと思えるくらい揺れました。ヒロムのからだには痺れが広がっていきます。
「ごめんなさい。目が赤くて体が光ってるから」
慌ててヒロムは言い訳をしました。赤い目玉が左右逆に回りだします。曲がり気味だった背筋がスッと伸びます。
「この姿は、世をしのぶ仮の姿だ。カエルなんかであるはずがない」
ヒロムは首をひねりながら尋ねます。
「姿をかりてるの? 何の姿?」
ヒロムの言葉を聞いて目玉が左右同時に上下し出します。次に顔を上に向けました。笑いを我慢するのが大変そうです。呼吸をととのえ、腹を膨らませて言いました。
「わたしはキルカだ」
すぐさまヒロムはこたえました。
「初めまして、キルカさん」
キルカはうなずき、さらに続けます。
「キルカのすることは全てキルカだ」
ヒロムの顔にとまどいが表れます。それでも何か答えなければと無理をして口を開きます。
「変わった名前」
「わたしの名前ではない。種の名だ」
ヒロムはひと言も言えません。キルカはいらいらします。
「そうか、わからないか」
キルカは左右の目玉を一緒に上下させます。ヒロムの顔はおびえた表情のままで固まっていきます。痺れがひどくなっています。
「説明はどうだ。要るか要らないか?」
ヒロムの表情はますます固まっていきます。ヒロムは説明をして欲しいような欲しくないような、中途半端で選べません。
「無愛想な男の子だ」
情けない表情を浮かべながらヒロムはか細い声で助けを求めます。
「し、痺れが顔にまできてるよ」
キルカは顔を近づけてヒロムを見ました。
「痺れが回るのが早いな。このままだとどうなると思う」
ヒロムの呼吸は荒くなっていきます。
キルカは立ち上がってヒロムを抱き起こしました。そして椅子に座らせます。ヒロムの頬をミトンのような両手でさすりだします。肩をさすり腕をさする。摩擦されたところはじわりと温まってきます。
すると逆にキルカの手のひらがひんやりと冷たいのが気になってきます。
「手が冷たい……ですね」
キルカはギロリと睨みます。
「また元に戻そうか」
ヒロムはブルっと震えます。
手とからだの痺れはやわらいできましたが、完全には治ってません。自分のからだではないみたいな感覚があります。
 「どうしてここへやって来たかわかってないだろ」とキルカが言いました。
「ビッカとムンカと一緒だよ」
とヒロムはこたえました。ビッカの左右の目玉がチグハグに上下します。
「誰と来たのかなんて尋ねてない。頭も痺れているのか?」
キルカはあきれ口調で言います。
「こんな子にキルカを邪魔されるとは」とため息をつきました。
ヒロムは、「こんな子」と言われてまた元気を失います。
キルカはしょんぼりしているヒロムに向かって言いました。
「喰らってしまってお終いにするか」
ヒロムは驚いて大きく目を見開きました。そして声を大にして言います。
「ぼくは起こしてないよ」
「しかし、ここを見つけただろ」
「ぼくは見つけてない」
「『ない』ばかり多いボウズだな」
キルカは呆れて目玉を回します。
「ボウズじゃない。ちゃんと名前がある。ヒロムだよ」
「では、ヒロム」
ぎろりとひと睨みして言います。
「何をしに来たのか教えてもらおうか」
ヒロムは首をただただ横に振ります。
「そんなこともわからないのか」
ヒロムは呆れられうつむいてしまいます。
「ならわたしがここで何をしているか、当ててごらん」
ヒロムは、ベッドに脱いだナイトキャップをさりげなく見ました。
「もしかしてお昼寝だとか」
「眠っていたからといって勝手に昼寝と決めつけるな」
キルカは不機嫌な口調で言い、
「キルカしてたんだ」と付け加えました。
「キルカするって?」
ヒロムは思わず大きな声で繰り返しました。
「でも眠ってたんでしょ」
「それもキルカするだ」
ヒロムは首をかしげます。
「昼寝なんかではない。長い眠りだ」
「それって冬眠でしょ」
キルカはしかめ面になります。眉間に眉毛が浮かび上がってきました。
「と、冬眠? カ、カエルではないと言ったはずだ」
眉間にグッと皺をよせて言いました。ヒロムでも不機嫌だということがわかります。
「わたしのキルカとは」ひと息ついて「長い眠りのことだ」と説明しました。
ヒロムは『冬眠』という言葉を禁句にしました。不愉快になったキルカに食うぞと言われれば肝が潰れます。それとカエル扱いも禁物です。
部屋の中をのっしのっしと歩きまわるキルカに話しかけます。
「でもやはり起きているほうがいいですよね。好きなことができるし」
キルカは黙って聞いています。険しい表情で部屋をひと回りふた回りしました。やりとりが全くうまくいきません。ヒロムは焦ります。
「でも眠るのもいいですよね。楽しい夢なんか見れて」
ヒロムは取り繕うように早口で言います。キルカは沈黙で応えます。
「長いと退屈するかもしれない、ですよね。この部屋何もないし」
左右の目玉が同時に激しく上下します。すっかり勘違いしているのにヒロムはまだ続けます。
「やっぱりそうなんだ。することが眠るだけ。硬いベッドだと身体にキツそう」
ヒロムの前に来ると目玉を止めてキルカはとじっと覗きこみました。
「代々のキルカが使ってきた年代物だぞ、このベッドは」
誇らしそうな口調で言います。ヒロムには土でできたみすぼらしく見えるベッドです。
「それにこの部屋は殺風景とは違う。閑寂というんだ。キルカの役目を担うのにはぴったりだ」
「じゃ仕事なの?」
キルカは頭を横に振りながら言います。
「仕事は利益を得るため、役目はそうじゃない。この土のベッドに腹ばいの姿勢をとって異変を察知するんだ」
ヒロムはキルカの年代物のベッドを見て腹ばいになっているキルカの姿を想像します。カエルの置き物のようだと思いました。
「キルカのお腹はセンサーなんだ。何に反応するの。匂い。あかり。音」
キルカは嬉しそうに頬をゆるめました。
「残念だな。ハズレだ。振動だよ」
「察知したらどうなるの」
「キルカから目を覚ます」
「キルカがキルカから覚めるんだ」
ヒロムは感心しました。
「ま、そんなところだな。途中で覚めるとこんな色で一旦中断だ」
キルカは自分のからだを見て言いました。
斑らの模様に光っていて美しいとは言えません。ヒロムはキルカの仕草を見て言いました。
「ビッカはね、綺麗な黄土色だよ。ちょっぴり薄いけれど」
キルカの左右の目玉がくるくる回ります。気に入らないようです。
「それはカエルの保護色だろう。キルカのとは根本的に違う」
ヒロムはビッカのために何か言おうとしました。しかしビッカからもムンカからも赤い目玉と黄土色の体については聞かされていません。
「早く色が変わればいいですね」
愛想笑いを浮かべて口にだしました。ふと思います。変わってしまったらどうなるのだろうか。孵化した蝶のように空でも飛べるのだろうか。
尋ねてみようかとキルカを見ました。
キルカの左右の赤い目玉が逆に回っています。ヒロムは開きかけた口を閉じました。気持ちを逆撫でしてしまったみたいです。ごめんなさいと言おうとしましたがこれも飲みこみました。
「一旦中断したのはだれのせいだと思う?」
ヒロムは目を見開き言葉を失ったままです。
「察しの悪い子だ」
ヒロムはゆっくり首を傾げます。
「キルカが目が覚める理由はただ一つ。異変が起きたんだ」
ヒロムは「へぇー」とうなずきました。
「まだわかってないな」
ヒロムはあたりを見回します。
「他にだれがいる」
キルカの強い口調でヒロムの顔から血の気が失われていきます。喉がからからに渇いてきます。
「ぼくが異変なの?」
ヒロムはボソリと言います。キルカはそっくりかえって腕を組みます。
「ブランコから落ちたからだ。心当たりがあるだろう」
ヒロムは青ざめ、ためらいがちに首を縦に振ります。
キルカは続けます。
「疑うのも無理はない。たかがブランコから落ちたぐらいだ。しかしその振動でキルカは目を覚ます」
ヒロムは窓から入ってきたからだと思っていた。
「落ちたブランコの場所もわかっている」
「まさか」
思わず声を上げてしまいます。
「公園のブランコはどれもキルカの管理下にある」
キルカは断言しました。ヒロムはすぐに公園の名前を挙げて確かめようとします。
「西町公園の火曜のブランコは? 楓山公園の水曜のブランコは?」
気に入っているブランコがあった公園だ。
「そこも管理下だ。そこでは落ちてない」
キルカは自信たっぷりに言います。じゃどこで落ちたとヒロムは怖くて聞けません。
 とっさに話題を変えました。
「じゃ、あの整備員は? 管理してるの?」
「整備員?」
「そう、公園の遊具を見て回っている者がいるよ」
キルカの左右の目玉が時計回りに回りだします。
「ヒロムは彼らを見たのか?」
ヒロムはハッキリとうなずきました。今度はキルカの左右の目玉がチグハグに上下します。なにやら混乱気味です。
「確かにそういうものたちがいる。整備も許可を得ている。ただ条件がある」
「やっぱり居るんだ。でも条件て、どんな?」
「先ず自分の姿を人に見せないことだ。整備してるのはこの私だって威張った奴がいて顰蹙を買ったことがあった」
「確かに顔かたちははっきりしなかった。だからぼくは影男って呼んでいたよ」
「でも見えたんだ。黒子に徹してればいいものを」
キルカは苦々しそうに言います
「ぼくがブランコを揺らしているといつも現れる」
「それは重大なルール破りだ」
キルカは怒っています。左右の目玉が逆方向に回りだしました。
「それだけじゃないよ」
目の色も濃い赤になっているキルカにヒロムは遠慮がちに言います。
「まだあるのか?」
「話しかけてくるんだ」
キルカの動いていた目玉がピタッと止まりました。
「どんなことを話した?」
「ほめられたよ」」
「何をほめた」
キルカは細かく尋ねてきます。
「軋ませないで揺らすなんてブランコ乗りのお手本だって」
「ブランコ乗りなんて言ったのか」
「ブランコの整備のしがいがあるって喜んでもいた」
「それで」
「いろいろ言われた。楽しそうに揺らす子は今どき珍しいとか」
「ずいぶん口の軽いやつのようだ」
「大胆な揺らせ方ができる勇気のある子だとも言われた」
「ひどい世辞だな。危険なだけだ、それは」
「でも気に入らないことも言われた」
「どんなことだ」
「きみでも揺らせないブランコがあるって」
止まっていたキルカの目玉が動き出しました。
「それはどこのブランコだ」
ヒロムはキルカの上下する目玉の視線を外して言いました。
「公園にあるブランコじゃなかったよ」
キルカの左右の目玉がチグハグに上下する。その場で小さな円を描くように回る。ピタッと止まると「なる程、それで?」とヒロムを促します。
「初めは、乗ったことのないようなブランコがある。永く揺らしてないブランコで、きみならうまく乗れるだろうって言われた」
「それから」
「もちろん断った。整備員なんだから自分で揺らしてみればって答えた。隣り町に有るっていうし。遠いよ」
キルカの左右の目玉が激しく回ります。
 時が遡るようにブランコから落ちた記憶がヒロムによみがえります。揺らそうとしてもピクリともしませんでした。そのブランコがいきなり動いたのです。怒って振り払ったように揺れだしました。キルカの目を見ていると今落とされたような錯覚が起きて、ヒロムは思わず「ごめんなさい」と声にだしてしまいました。
 キルカはじっとその様子のヒロムを見ています。
「どうして謝る? 悪いことをしたのか?」
ヒロムはかぶりを振ります。
「整備員の言葉が悔しかったわけだ」
「乗りこなす自信がないから逃げてるって言われた」
「それでつまらない意地をはったのか?」
ヒロムはこくりとうなずきます。
涙目になっているヒロムにキルカは言います。
「近づいてもいけないブランコもある」
ヒロムは黙って聞いています。
「それは月の庭にある。あそこに行ったのだな。しかし、よく辿り着けたものだ。そこはキルカの領外だ」
放心しているヒロムにキルカは言いました。
「諦めることだ」
「でも、なぜ落ちたのか分からない」
「あの屋敷のブランコは乗り手を選ぶ」
ヒロムは小声で言葉をもらします。
「ぼくじゃ無理だった。ちっとも揺れなかった」
キルカは声を上げて笑いました。
ヒロムはがっくり肩をおとします。
「だまって水の館の月の庭に入ったんだ。見つけただけならまだしも揺らそうとした」
落胆しているヒロムにキルカは言います。
「今さら考えても後の祭りだ」
「ブランコを揺らすのは悪いことなの」
「いいや」
「ブランコから落ちることは悪いことなの」
「いいや。傷くらいは残るだろう」
 キルカはまじまじとヒロムを見ます。赤い目が白に変わり次第に灰色に変わっていきます。月の庭でブランコに乗ろうとした少年がめの前にいます。そこはキルカの管轄外です。公園で起きた異変でないのに目が覚めました。来られるはずはないのにどういうわけかここまでやって来ています。キルカの目玉は左右逆に回ります。
 ヒロムはキルカの様子を見て不安になっていきます。
「なにか迷ってるの」
ヒロムは尋ねます。
「迷ってさまよっているのはきみだ」
 キルカは座り込んで再びヒロムの足をさすりだします。キルカの摩擦をうけると手足の痺れはうすらぎます。でもキルカの言ったとおりです。完全には消えていきません。
「痺れはこの小屋にいるかぎり続く。少しはましになっただろう」
ヒロムはうなずきながら言います。
「でもからだ全体がだるい」
「これから家に帰ってもらう」
ヒロムの表情は明るくなります。キルカは動かしていた目玉をピタリと止めます。
「それが当然だと思われると困る」
ヒロムに不安の表情が浮かびました。
「キルカは落ちた子に二つの権利を持っている。聞きたいか?」
否も応もありません。かぶりをふって嫌がるヒロムを無視してキルカは続けます。
「一つ目は、落ちた子を家に帰す権利だ。そうすればキルカを続けられる」
ヒロムの頬にちいさな笑みが浮かびます。
「二つ目は食われる権利だ」
ヒロムの表情は一挙にゆがみました。
「どういうことなの、それ! ぼく喰われてしまうの?」
思わず声を大きな声を上げました。
「落ちた子がキルカを喰うのだ」
「落ちた子って」
ヒロムは自分を指差します
キルカは大きくうなずきます。
ヒロムの顔から血の気が引きました。
「ぼくは、獣じゃないよ」
「痺れの毒が全身にまわってしまえばめでたくキルカに変わってしまう」
「全然めでたくない」
「良い知らせもあるぞ」
「この小屋に二人のキルカは存在できない」
「キ、キルカさん。喜んでぼく辞退します」
キルカは声を上げて笑いました。左右の目玉を同時に上下させ話を続けます。
「全身に毒がまわると姿はキルカに変わる。それだけでは完了しない。最後に古いキルカを喰らうんだ。歴代のキルカたちはみんな喰われて代替わりをしてきた」
「あの、落ちた子に権利はないの?」
キルカは首を横に振って答えます。
「無い。義務だけだ」
「どんな義務?」
「難しいことじゃない。ただこの小屋から出て行くだけだ。簡単だろ」
キルカはあっさりと言い切りました。
簡単すぎます。ヒロムは何かあるのではないかと、キルカの目の動きに注意しました。動きが止まったままなのはこれが初めてです。しつこく聞くのをやめにします。もしかしたら簡単ではないのかもしれません。
 ヒロムは話を変えることにしました。
「ぼくが帰れば、キルカを続けるんだね」
キルカは左右の目玉をそろえて上下させます。
「教えてもらえる? からだの色が完全に変わったら、何かいいことがあるの?」
キルカはすぐに答えません。目玉を同じ方向に回転させながら言います。
「特別な力を得ると言われている」
ヒロムの表情がふっと明るくなります。いつ中断されるかもしれないそんな役割がなんの見返りも無いものであっては辛すぎます。
キルカはヒロムの笑顔を見て答えました。
「ただしどんな力なのか分からない」
「分からないの?」
ヒロムは首をかしげてしまう。
「分からないことのためでもずっとキルカするんだ」
「おかしいか」
ヒロムは何も言えません。答える資格があるようには思えなかったのです。
キルカはヒロムにもう一つ答えをあたえました。
「ここを出るとキルカの園だ。歩いて出ることができる」
ヒロムはまた首を傾げます。とても当たり前すぎてよくわかりません。
 ふと思いついたことを口に出しました。
「キルカになる前は何だったの
「ヒロムと同じようだった」
「ブランコから落ちたの?」
「いや、淵の川面を見ていて落ちてしまった。はるか、本当にはるか昔のことだ」
ヒロムは怪訝な表情で聞いています。その様子を見てキルカは説明します。
「フチとは川の流れの深い深い所だ。濃い緑だったり青黒かったりと、天候によって色を変える」
ヒロムは黙って聞いています。
「鯉だ。ある日偶然大きな魚影を碧い淵で見てしまった。それ以来毎日その淵に
通ったよ」
「そこにカエルやイモリは居る?」
「餌になりたいやつはいないさ」
キルカは笑みらしき笑いを浮かべます。
「大きな鯉が川の奥底からゆったりと浮かび上がってくる姿は見飽きることなかった」
「なんだか怖い気がする」
キルカはゆっくりとうなずきます。
「鯉の背に乗ると水の世界で暮らせる」
「本当に乗ったの?」
キルカはにやっと笑って尋ねます。
「ヒロムはブランコを揺らしているとき何を見た?」
「あのブランコから落ちる前は楽しかった。夢中だった」
「わたしも同じようなものだった。熱狂、惑乱そして静謐」
ヒロムはきょとんとして聞いています。
「さて、この話はこれまでだ。もう足も動くだろう」
「じゃ帰してもらえるの」
キルカはうなずきます。
「外でムンカとビッカが待っているはずなんだ」
キルカは頭を横に振ります。
「待ってくれているはず。家まで送ってくれる」
「そうじゃない。窓が閉じたときからこの小屋は移動している」
キルカはそう言いながら小屋の扉を開けようとします。
「さあ家まで帰るんだ。もう歩けるだろう」
ヒロムは椅子から立ち上がりました。しかし、ドアにはむかわないでまた座りこみました。
「あんな家には帰れない」
ヒロムは首を横に振りながら言いました。
キルカはヒロムの顔を覗き込むように見ました。
「なに! あの家ってどういうことだ」
キルカは訳がわからず問いかえします。
「帰る家はなかったんだ」
「ということは、もしかして、もう帰ってみたのか」
ヒロムは小さくうなずきます。キルカは短い前足で頭を抱えてしまいます。
「ありえないことだ」
「でも、本当だよ。自分の家だと思って入ったら違ってた」
「月の庭のブランコから落ちた子は家には‥‥」
そこまで言ってキルカは言いよどみます。腕組みをしてヒロムを見ます。
 公園のブランコから落ちればキルカの庭にやって来るはずです。そして小屋の入り口を叩くことになります。長くキルカであるのに月の庭で落ちた子の振動でキルカが目覚めたことはありません。今回が初めてです。どう扱っていいのか、キルカは思案します。
 目玉をくるくる回しているキルカにヒロムはこれまでの経緯を説明しだします。
「ぼくは水の中に落ちてたみたい。ムンカが助けてくれた」
「ムンカとはなんだ」
「湧き水のイモリだよ」
「水のものか」
「ムンカが教えてくれた。ぼくは親水公園の沼に浮かんでたって」
「そんなところに落ちるとは、謎だな。何かが落としたのか。招き寄せられて落ちたのか」
「ビッカもやって来て、ドールハウスの屋上で寝そべってお月様を見ていた」
「そうか。ながらく本物の月を見てないな。どんな色だった。形は?」
キルカは懐かしそうに言います。
「青白くて澄み切った満月だった」
「その色は珍しい。ここの月は黒月か白月かのどちらかだ」
「見ていると眠くなって、そのうちに寝入ってしまった」
急にキルカの目がくるくる回りだします。
「寝入った! 月の光を浴びながら寝てしまったのか」
ヒロムはキルカの驚く様子に不安になります。
「それってなにかいけないの」
キルカの目玉が止まりません。
「目を覚ましてどうなった」
「ぼくが最初に目が覚めて、そこはドールハウスの屋上でなくて、いつもブランコに乗っていた公園の芝生の上だった」
キルカは黙って聞いています。
「おかしいよね。目が覚めたときに場所が変わっていた」
キルカは両方の目玉を同時に上下させながら言います
「月あかりに半分だけいのちを貰ったんだな」
「いのちを半分だけってそんなことがあるの?」
「それとも、かそけき世界に入りこんだかもしれない」
そう言うとまた黙ってのっしのっしと部屋を回りだしました。
「住んでた町はおかしな事になっていた」
 キルカは部屋の中を回りながら、ひたすら何かを考えています。
「あの家はぼくの家じゃないよね」
 ヒロムはなおも尋ねてみます。キルカの困惑ぶりから良い予感がしません。
 キルカは無言で部屋を行ったり来たりを繰り返すばかり。耳にする音はキルカの足音だけです。足を止めるとキルカは壁の前に立ちじっと壁を見ます。横に二、三歩動いて止まり、また壁をじっと見ます。繰り返しているうちに部屋を一周してしまいます。
 ヒロムは何かしゃべらないではいられません。町の家々がいびつに変化したことや、自分の家が段ボールのような紙に変わってしまったこと。得体のしれないカニにまで出てきて何やら切り刻んでいたこと。
 しかし、キルカは聞いているのかいないのか表情からは分かりません。三周目にはいろうかとするときです。少しずつ変化していた円い部屋が、壁が三つの三角形の部屋になりました。
ぴたりと止まるとヒロムの方に向きました。目玉の回転もゆっくりと止まります。
「ヒロム」
 おもむろにキルカは口を開きました。
「見事な迷子っぷりだ」
「え!」
思わず声がでました。長い間思案した後の言葉だとは思えません。
「やはり落ちた場所に行ってみることだ。始まりはそこだ」
期待していたのにキルカの答えにヒロムはガッカリしてしまいます。
「あの館の庭に行くの? 行ってなにをするの? まさかまたあのブランコに乗るの?」
矢継ぎばやの質問にキルカは諭すように答えます。
「行かなければまたここに帰ってくることになるはずだ」
戸惑うヒロムにもうひとことつけ加えます。
「ここにはずっといられない。毒がまたぶりかえしてくる」
ヒロムの表情はさらに暗くなります。
あの館の庭にあるのは手製のブランコだけでした。そこに行けとキルカは言います。からだの震えが大きくなっていきます。
「どうした。怖いのか」
ヒロムは正直にうなずきます。落ちた衝撃をからだが覚えているのです。時は止まりからだは引き裂かれるような気持ちになりました。
「わざわざ月の庭に入りこんでブランコに乗るなんて。よくも探し出したもんだ」
キルカは呆れた口調で言いました。
ヒロムは、ただうなだれます。


キルカの園

 キルカは再び小屋の壁の前に立ちました。部屋を回っている間に何度か立ち止まった場所です。なんの飾りもありません。ただの土壁です。短い両手を一箇所に差し伸べました。
「ここがヒロムの出口だ」
「隠し扉みたいだ」
「三つあるそのうちの一つだ」
キルカは扉を開けました。
 しかし、ヒロムは怯んで動こうとしません。頭を横にふりながらキルカに尋ねます。
「これ以外の二つはどんな出口なの? この扉でないといけないの?」
「気にするなと言ったら余計気になるものだ。教えておこう。一つは公園のブランコから落ちた子が小屋から出ていく出口だ。もう一つは全身がこんじきに変わったときにキルカが出ていく扉だ。納得か?」
ヒロムはこくりとうなずきました。
 左右に開いた間から小屋の光が前庭を真っ直ぐ一筋にさします。
「さあキルカの園だ」
ヒロムの肩に手をやりかるく押しだします。扉を離れて恐る恐る歩を進めて行きます。ヒロムは辺りを見回します。遠くに目をやると小屋からの光が吸い取られるように弱くなっています。
「でもここは何の園なの?」
キルカは答えず後ろ手に扉を閉めました。鼻をひくつかせ匂いを嗅ぎます。目玉も上下やら斜めやらに動かします。
「ヒロム、きみは長居をしたみたいだ」
キルカはささやくような小声で言いました。室内でいたときの声の大きさとは全く違います。ヒロムは緊張して表情はこわばります。
 ヒロムの先を歩くキルカの光は小屋の中でより明るく感じます。うす暗かった一帯がキルカの光で障子を透過したような明るさになっています。
 キルカは右側を指差します。ヒロムは目を凝らしてそちらを見ます。欅の木が枝を大きく広げています。
「立派な木だよね。気持ち良さそうに枝を広げている」
「ようく見てみるんだ」
キルカに言われてヒロムはその木を見ます。
「風は吹いてないよね」
「そよとも吹いていない」
しかし、葉はざわめいています。小さな枝もこきざみに震えています。
「生きてるみたいだ」
「当たり前だろ」
ヒロムはバカなことを口にしたと笑ってしまいます。
「ヒロムの言いたいことはわかる。葉っぱ一枚が、枝一本が独りで生きてるように感じる。そうだろ。生きている有様が少し違うだけなのだ」
「キルカ、面白いね」
木の葉がふわりふわりと落ちてました。キルカは手を伸ばしてそれを受け取ります。ヒロムも腕をのばして一枚を手のひらで受けとります。
「これ蝶の羽根みたいだよ」
ヒロムは木の葉をキルカの手のひらにわたしました。受け取ったキルカは包むように二枚を手で覆います。広げると二枚が一対になっています。顔の前に持ってきて息をフッと吹きかけました。羽のように羽ばたくとひらひらと上空に飛んでいきます。ヒロムはその飛行を目で追いかけます。
「こんなにざわめいているのは初めてだ。でもこれがキルカの園だよ」
風も吹いてないのに木の枝がザワザワと揺れています。
「キルカの園って?」
「公園のブランコから落ちた子は、直接ここに落ちることになっている。ヒロムは招かれてない客だな」
ヒロムはもう一度木の葉を手のひらに集めます。キルカは落ちてきたどんぐりをヒロムの手におきます。キルカが放り投げてみろと仕草で見せます。ヒロムは両手で思いっきり空に放ちます。木の葉はどんぐりを吊り下げて飛行船のように飛んでいきました。
「でも珍客で歓迎されている。楽しそうだ」
キルカは笑いながら言います。
「機嫌がいいわけ?」
「ヒロムの噂でもしているのかな」
「機嫌が悪いときはどうなの?」
キルカは頭を横に振りながら目玉を上下させます。
「一面の銀世界だ」
「雪が降るの?」
「季節に関係なくだよ。この木も左半分はみずみずしい若葉で、右半分は紅葉だ」
「キルカは園の主人なんだね」
「そうでもないさ。隅から隅まで知っていても、キルカの眠りの後では全く変わってしまうことがある」
キルカはそう言って鼻をひくつかせます。
「どこまで行くの? この園を抜けるとあの館があるの?」
「今日の園は予想外に広くなりそうだ」
キルカは独り言のように言いました。
「ここに来た子はたいていほんのちょっとしたまちがいで落ちた子たちだ」
ヒロムは聞きながらトボトボついて歩きます。ただキルカの言葉の中に気にかかるものがあります。広がっているというこの園をどこまでいくのだろうか。
「だからたいてい送り返す」
「キルカが家まで送るの?」
「まさかそこまではしない。この園は落ちたブランコの公園と繋がっている。だから玄関で出口を指さすだけだ。キルカは外に出ないし出られない」
「それならこの園は、月の庭につながっているの?」
期待を込めて尋ねました。
「ヒロムを喜ばすような答えを、残念ながらキルカは持ってない」
キルカは少し歩く速さをあげます。付いていきながらヒロムは園の様子を見てふと思います。
「こんなに暗くて広いとなかなか出口に行きつかない子も多分いるよね」
「そうだな。一人では無事に出口に辿り着けるとは限らない」
「帰れなかった子もいるの?」
「多分ね」
「どこへ行ったの?」
「まだこの園にいるよ」
キルカはそう言って先を急ぎます。あのあたりが出口だと指さされて放り出されたらと思うとゾッとします。
「だがね、月の庭のブランコから落ちた子はわたしの管轄外だよ」
「あの庭のブランコから落ちた子はどこに行くの?」
ヒロムは思い切って聞いてみました。
「はっきりとは知らない。だが、ヒロムのように親水公園で助けられたのは幸運だろうね」
自分が幸運だと言われたのは初めてです。
「直接キルカに変わってしまうという話もある。実際はよくわからないのだ。月の庭で落ちたのなら月の庭で目が覚めるはずだ。なのに親水公園で目を覚ました。誰かがヒロムをそこに連れて行ったのだ。そう考えるのが自然だろう」
 ヒロムは急に足を止めて声を上げました。
「ねえ、キルカ、元の場所に戻りたいよ。ビッカとムンカが待ってくれてるよ」
「キルカの小屋に入れば出口は別だ。入った所からは出られない。ヒロムは天窓から入ってきたが、そこから出て行っても元の場所には出られないんだ」
答えるとキルカはひたすら進んでいきます。
 池のほとりまでくるとキルカは池に設けられた水車をゆびさしました。ヒロムはたちどまって眺めます。水車にくみあげられた池の水は、上がるたびに虹色に変わりそのまま空に吸い込まれています。空には星ひとつ見えません。でも水面に視線を落とすと星が輝いています。池が次第に広がっているのがわかります。キルカのいう通りです。公園は広がっています。
空に月はないのに水面には黒い月がある。
「キルカ、キルカ、あれは月なの」
「違う。月擬きだ」
キルカは笑います。立ち止まっていてはだめだとヒロムはキルカに追いつこうと足早になります。
「まだなの。出口は?」
ヒロムの問いにキルカは答えません。
「尋ねる前に足を動かすことだ。キルカに言えることは少ない。館と言われる所に戻ることだ。二度目は最初と違うことがある。怖がることはない」
キルカは付け加えます。
「ただし」
その言葉を聞いてヒロムは身をかたくする。
「ただし、何?」
「屋敷まで無事たどり着けるかどうかわからない」
やはりとヒロムは肩を落とします。
「前例がないんだ。キルカも知らない。ヒロムが最初だ」
「じゃ、ぼく行かない」
「行かないってどうするんだ」
キルカの足が止まってしまう。
「この園でずっといる」
呆れてキルカの左右の目玉が同じ方向にグルグル回ります。
「ここに居たいなんて言ったのはヒロムが初めてだ」
今度は反対方向にグルグル回ります。ヒロムは右足をさすりながら伝えます。
「キルカ、さっきから足がおかしいよ、動きが鈍くなってしまってる」
キルカはかがみ込んでヒロムの右足をさすりだします。
「どうだい痺れは?」
次に左足です。
「少しマシになったよ。ありがとう」
「グズグズしてたら全身に広がるぞ。急ぐんだ」
 先にゆくキルカの足が砂場に入りこ見ました。ヒロムも後に続きます。
砂場が盛りあがると金色の大きな鯉が夜空にはねました。一匹また一匹と、鮮やかな色の鯉たちが、はねては砂場に潜ります。園にあるものは震え、ざわめき、止むことがありません。
ヒロムはその場に立ち尽くしそうになります。
「キルカ、まだ着かないの」
「そらさっさと歩くんだ。止まってのんびり眺めているときじゃないぞ。自分の足だろ。負けるな。しっかりと動かすんだ」
キルカはおびえて動けなくなりそうなヒロムを叱咤します。そう言うキルカの足取りもそんなに速くはありません。リズムが崩れて足を引きずりがちになっています。
「大丈夫、キルカ?」
大丈夫だとはキルカは言いません。
「わたしもこの園の一部だよ」
ヒロムは前をいくキルカの背中を見ます。こんじきに輝いている部分はすっかり減ってしまっています。こげ茶色の部分が背中にどんどん広がっています。
 キルカは立ち止まりました。
「私が案内できるのはここまでだ」
「ここで?」
 キルカが足を止めた所から前方は何も見えません。暗闇の壁です。明るい場所から暗闇の場所を見て、そこに出口があると言われてもヒロムはうなずけません。立ち止まったキルカのそばにヒロムは寄り添うように立ちました。心なしかキルカの背丈が縮んでいました。
「キルカ、これでは前に進めないよ。引き返そうよ」
横に立ったヒロムにキルカは言います。
「ここで間違いない。光の果て暗闇の始まりの場だ」
白い光がそれ以上向こうに進まないのです。ヒロムはかぶりを振り後ずさろうとします。それを許さないキルカは、ヒロムを暗闇の中に押しやりました。ヒロムは戻ろうとします。
「動くな。そこでじっとしてるんだ」
キルカの声が重い響きでこだまします。
「ここが出口だ。私はここまでだ。キルカは園からは出られない」
キルカは動きを止めた目玉でヒロムを見すえます。
「こんなところが出口なんて」
ヒロムは頭を横に振りながら言います。ヒロムはそのとき沸き起こってきた疑念を口にしそうでした。
「出口でなければ、待ちあう場所だ。そう言えばどうだ?」
首を傾げるヒロムにキルカは伝えます。ぼくを捨てにきたんじゃないよね。
「向こうも月の庭で落ちた子を探しているはずだ」
「ぼくを? 向こうって何?」
ヒロムはキルカの顔から視線を外さないで見ています。両の目玉が苦しそうに左右に動いています。回転でもない上下の動きでもありません。初めての動きでした。
「何か隠しているでしょ」
「言えないことなの」
立て続けにヒロムは尋ねます。
キルカはただ目玉を左右に小刻みに振るわせています。様子がただ事ではありません。背丈が縮み輝きを失いつつある。ヒロムは咄嗟に言いました。
「キルカ、早く小屋に帰って。早く!」
キルカのからだの異変が決定的です。ヒロムを送るために無理をしたのです。その声を受けて小屋を目指して歩きだします。
 遠ざかるキルカが変わっていきます。体はこんじきの輝きを失いすっかり焦げ茶色にもどってしまいます。かろうじて光っているのは頭のてっぺんだけです。右へ左へとふらふらして二本足で立って歩くのも苦しそうです。次第に前かがみになっていきます。その様子がヒロムの目に焼き付いていきます。とうとうキルカは四つんばいになってしまいました。間も無くです。小屋に着いたのでしょう。黒いクレヨンで塗りつぶされたように、ビッキの園は跡形もなく暗闇に消えてしまいました。

続く




第六話


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