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【ショートショート】1985年の贋作小話 その98 「犬を連れた奥さん」

 警察は犬を連れた奥さんを探していました。あるひき逃げ事件の目撃者として、警察は犬を連れた奥さんの証言を得ようと躍起になっていたのです。ある夜のこと、急ブレーキの音に驚いて近所の人が表に出てみると、そこにはもうこと切れた被害者が転がっているばかりでした。車の姿は見当たりません。ただ、向こうの方の街灯の下に、交差点を曲がる犬を連れた奥さんの後ろ姿を複数の人が見ていたのです。彼女なら車を目撃しているかもしれません。
 よそ者があまり入り込まない郊外の住宅地のことでしたから、すぐに見つかるものと警察はたかをくくっていました。しかし、事はそううまくは運びませんでした。
「犬を連れた奥さんを知っていますか」警察は家々の一軒一軒を回って尋ねました。犬を連れた奥さんのことを町の多くの住人が知っていました。けれども、皆が一様にこう答えるのです。
「ええ、犬を連れた奥さんなら知っていますよ。夜も遅くなったころに何度か見かけたことがあるのですが・・・。さあ、何丁目にお住いの人なのか、それは知りません」
 こんなにも彼女を知っている人がいるのに、それがどこに住んでいる誰なのかは誰も知らないのです。「こんばんは」とあいさつをすれば、愛想よく「こんばんは」と返してくれます。でもいつも夜のことですので顔はよくわかりません。背中まで伸びた長い髪の毛にプリント柄のワンピース、いつも細い紐の先に毛の短い室内犬をくくりつけていることだけは誰もが覚えています。町内の誰にとっても“犬を連れた奥さん”が彼女の固有名詞であったのです。

 捜査も行き詰まりを見せていたある日、ひとりの中年男性が奥さんに付き添われて警察を訪ねました。
「犬を連れた奥さんは私のことなのです」そう告白したのは奥さんの方ではなく、中年男性の方でした。「どうしても女装をせずにはおれないのです」彼は続けました。「私は男性であるという束縛から解き放たれたかったのです。そして、女装をすることによって解放された錯覚を味わうことができました。でも私には家族もあれば仕事もあります。ですから、夜の闇に紛れ、犬の散歩を装って密やかな愉しみを得ていたのです」
 ほんとうの奥さんはそのことを知らなかったようでした。でも、彼女は夫を見捨てることはありませんでした。そればかりか、彼女は夫に対して男性の義務を強要していたことを反省しているようでした。
“犬を連れた奥さん”の証言によりひき逃げした車が特定され、犯人は逮捕されました。その夜から、犬の紐を引く“犬を連れた奥さん”の傍らには、“犬を連れた奥さん”の奥さんが寄り添うようになりました。

                          おしまい


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