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【ショートショート】1985年の贋作小話 その95 「手袋を買いに」

 ドラッグストアの駐輪場に自転車をとめると、たけしくんはひとつ大きく深呼吸をして自分に言い聞かせました。「売ってるものを買うだけなんだ。何をやましいことがあるものか」
 準備は万端でした。店内の偵察のために、必要もない歯ブラシをもう何本買ったかわかりません。目当てのものがあるのは入り口から右に三列目の棚の一番奥。その棚の下半分に色とりどりのパッケージがずらりと並んでいます。どれがいいのかはわかりませんし、どれだっていいのです。とりあえずいちばん安いやつ、下から二段目の緑色のパッケージがターゲットです。
 使う当てがあるわけではありません。それ以前に、それがどんな形をしていてどうやって使うのかさえ知らないのです。でも、いざというときのために、どうしてもそれを手に入れる必要があるのだとたけしくんは思いつめていました。たけしくんの妄想の中ではこの“いざ”が頻繁に登場します。そして幸せなことに、その可能性が限りなくゼロに近いのだということには思い及ばないのです。
 店に入るとたけしくんはまず、いつもの歯ブラシをカゴに入れました。もしも誰かにカゴの中を見られたとしても、歯ブラシが発する強烈な日常性が自らの妄想の非日常性を薄めてくれるのだと信じたからです。それからたけしくんは迷いなく三列目の棚の奥に向かいました。大丈夫だ、何でもないことなんだ。そう言い聞かせても、たけしくんの心臓は早鐘のように打ち、緊張に足がもつれそうになります。幸い三列目の棚には客の姿はありませんでした。たけしくんはろくに確かめることもなく、震える指先で緑色のパッケージを素早くカゴに放り込みました。
 次は最難関のレジです。三つあるレジの内で男性が担当しているのはひとつだけ。今は誰も並んでいません。チャンスです。大丈夫、何とも思われやしないさ、心を無にするんだ・・・。たけしくは歩みを速めました。
 ちょうど棚の切れ目を通り過ぎようとしていたときです。早くレジに行き着こうと気を急いていたたけしくんは、危く女の子とぶつかりそうになりました。「すみません」そう言いかけて相手を見やった瞬間、それまで早鐘を打っていたたけしんの心臓は止まりかけました。そこに立っていたのは同級生のみどりさんでした。たけしくんが恋焦がれ、長いこと妄想の主人公をはっている、あのみどりさんでした。
  たけしくんはあまりの突然の出来事に、何をどうしたらいいのかわからなくなりました。「み、み、みどりさん。こんにちは」たけしくんはしどろもどろです。後ろ手にカゴを隠すまでにずいぶんと時間がかかったような気がします。
  ところが、みどりさんもみどりさんで、それがたけしくんだとわかると、とっさにカゴをおしりの後ろに隠しました。「た、た、たけしくん。お買い物?」みどりさんはたけしくん以上にあわてているようでした。
  ふたりともそれ以上の言葉が出てきません。気まずい時間が流れます。ふたりはどちらともなく後ずさりしました。「そ、それじゃあ」ふたりの邂逅はぎこちなく終わり、それぞれ棚の向こう側とこちら側に姿を隠しました。
  結局その日もたけしくんは歯ブラシだけを買って帰りました。でも、これでよかったんだと、たけしくんは考えていました。「女の子って、大変だよな」みどりさんのカゴの中身のことを思いうと、あんなものを欲しがった自分がひどい悪党のように思えました。「いたわってやらなきゃな」自らの改心に酔いしれていたたけしくんでしたが、その頃、みどりさんがこんなことをつぶやいていたなんて知る由もありませんでした。「男の子って、ホントにどうしようもないんだから」
                           おしまい


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