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【ショートショート】1985年の贋作小話 その94 「小さき者へ」

 小さき者よ。汝、嘆くことなかれ。汝の支配する肉体は矮小なれども、それが故に汝の外に広がる世界は洋々なり。
 - デイヴィット・J・オコナー『ある牧師への手紙』より -

 とある公営住宅に背の高い夫婦と背の低い夫婦が住んでしました。背の高い夫婦はスタイル抜群の八頭身で、腕を組んで颯爽とお出かけするその姿はご近所さんからは理想の夫婦と思われていました。一方の背の低い夫婦はまるで小学生の兄妹といったところで、商店街でご近所さんとすれ違っても気がついてもらえないこともしばしばでした。
 ある年のことです。世界的に流行した疫病のせいで、誰もが家に閉じこもっていなくてはならない事態になりました。食料品の買い物と通院以外で家の外に出るとおまわりさんに捕まってしまうのです。
 ですので、背の高い旦那さんも背の低い旦那さんも家に仕事を持ち帰り、朝から晩まで奥さんと顔を突き合わせざるをえなくなりました。背の高い奥さんも背の低い奥さんも、最初はどちらもこの不幸中の幸いを喜びましたが、時間を経るにつれてその運命は両極へと分かれていったのです。

 疫病がようやく終息したのはその一年の後。背の高い夫婦は離婚しました。一方で、背の低い夫婦は以前よりももっと仲良くなっていました。何があったのでしょうか。
 背の高い夫婦は狭苦しい団地の部屋で息を詰まらせていました。リビングでパソコンに向かっている夫の背中が、背の高い妻にはどこからでも目に入ってしまいます。廊下ですれ違うときには、必ず肩がぶつかってしまいます。洗濯ものは増え、LLサイズの下着や衣類があっという間に洗濯カゴをいっぱいにします。ふたりで何か運動でもと思ってみたりするのですが、どうやってもからだのどこかがぶつかってしまいます。ふたりで顔を突き合わせていると、まるで空気が薄くなっていくような気がします。背の高い夫婦は気づきました。我々の世界はなんと狭いのだろうと。我々が占有している肉体が、我々の世界を縮めているのだということを。
 背の低い夫婦はふたりだけでできる楽しい遊びを次々と考えだしました。彼らにとって広すぎる部屋では、何をするにも不自由はありませんでした。キャッチボールにフットサル、相撲にピンポン、かくれんぼ。手足をいっぱいに伸ばし、飛び跳ね転げまわっても、それでも彼らの世界の端っこはまだまだ手の届かない遠くにほうにあるのでした。背の低い旦那さんがリビングでパソコンに向かっていても、その背中はすっぽりと背もたれに隠れてしまって背の低い奥さんからは見えません。SSサイズの下着や衣類の洗濯物がどれだけ増えたところで、洗濯機を一回まわせばすむことです。背の低い夫婦は気づきました。我々の世界はなんと広いことか。我々が占有しているこの貧弱な肉体が、我々の世界を広げているのだということを。

                             おしまい


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