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【ショートショート】1985年の贋作小話 その92 「潮騒」

 客が帰った朝方、夏江は行李の底から例の貝殻を取り出して耳に当てました。潮騒が聞こえます。懐かしい島の潮騒とともに、あの晩のことが蘇ります。

  皆が寝静まった月夜の晩に、島の砂浜で夏江は慎吉とふたりして海を眺めていました。夏江の出発が明日に迫っていました。慎吉は懐から大きな巻貝の貝殻を取り出し、夏江に与えました。「海の音が聞こえるべ」慎吉は貝殻を夏江の耳にあてがってそう言いました。「島が恋しくなったら、これを耳さ当てればいいさ」夏江はうなづき、ほろほろと涙をこぼします。そして、慎吉に最初の男になってくれろと頼みます。「いかん、いかん。そんたらことしたら、いかん」慎吉も涙を我慢することができませんでした。次の日の朝早く、夏江は舟に乗って遠い町に売られて行きました。貧しい漁師の倅には、それを止めることは出来ませんでした。

  高くなっていく日の下で、夏江はいつの間にか眠っていました。夢を見ることはありませんでした。それだけ、夏江は疲れていたのです。ただ、真っ暗な眠りのなかで、ずっと潮騒は聞こえているような気がしました。それはいつものことで、目覚めたとき、にぎりしめた貝殻はもう耳を離れてしまってるのですが、砂浜に寄せる波、返す波の音が夏江の枕元に残響のように留まっているのでした。夏江はしばしば、島のあの貧しいあばら家で目が覚めたものと勘違いしました。そうではないと気づいたとき、夏江はもう死んでしまいたいほど落胆するのでした。
  ただ、その日はいつもとは様子が違いました。眠りの暗闇の中で、穏やかだった波の音がだんだんと激しくなってきます。切り裂くような風の音も聞こえます。海は荒れ狂っているようでした。山のような波が何かを押しつぶすような音がしたかと思ったとき、目が覚めました。枕元は静かでした。潮騒の残響はそこにはありませんでした。

  それ以来、貝殻を耳に当ててもあの潮騒は聞こえなくなりました。慎吉の舟が嵐で沈んだことを知ったのは、ずっとあとのことでした。夏江は潮騒を唄わなくなった貝殻を、粉々に叩き割りました。そして夏江はもう、自分がどこで生まれたのかも思い出せなくなりました。

                            おしまい


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