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あれは純愛だったと思う

夜中3時。久々にこんな時間に仕事をしている。こんな時間「まで」と書かないのは朝9時から働いてたわけではないからだ。
今週はずっとほんのり具合が悪かった。生理前だからだと思う。30代ももう後半に差し掛かっているのに、いつまでも生理前は体調のコントロールができなくてもどかしい。

夜中に仕事をしていると文章が書きたくなる。掃除をしながら昔の写真を見返し始めてしまう感情におそらく近い。

タイトルにした「あれは純愛だったと思う」という言葉は15年程前に私が人さまに言えないような恋愛とも呼べないような関係を終わらせたときに親友が言った台詞だ。(親友=いつも出てくる彼女
一貫してずっと、散々その関係を否定していた彼女が最後に私にかけてくれた言葉だった。

どんな関係であっても純愛だったらいいとか悪いとかここでは議論するつもりはないが私は純愛が好きだ。私が誰かを好きになるときそれはなるべく純愛であるといいなと思う。

前置きがとてつもなく長くなったが、つい先日「それは純愛だな」と思うことがあったのでこの文章を書いている。最近付き合った彼氏のおかげで私の人間関係は新しい広がりを見せ、中には苦手な人もいるが概ね彼の周りは皆優しくていい人だ。その中の一人の男性(Tとしよう)と彼氏と酒を飲んでいるときになぜかTのお気に入りの風俗嬢の話になった。

このnoteを18禁にされても困るのでその中の詳しい内容は端折るが、とにかくTはその彼女のことが好きで、熱心に指名しているようだった。
私にとって純愛はプラトニックということではない。純度が高い、という意味だ。打算が一つもない純度の高い気持ち。ただ、それは恋愛感情ではなく性欲ではないのかと問われると明確な回答を持ち合わせていないし、もしかして同じことなのでは、と思ったりもする。

性欲であれ、恋愛感情であれ、純度高い感情が潔くて好きなのだ。
小説も純度100%の感情を描いたものが好きで、岩井志麻子は一体何冊ベトナムの男で書くんだと思いながらも大体全部読んでいてその中でもこの「私小説」が特に好きだ。
(※ベトナムのホーチミンでレストランのボーイをしている若い男に岩井志麻子が一目惚れをしてただ何回も抱かれることを描いた生々しいまさに「私小説」。)

Tのお気に入りの風俗嬢が普段何をしているのかわからないし、彼氏がいるかもしれないし、そもそも店でしか会えない。もちろん彼女が打ち明けるプロフィールはあれど、それが真実かどうかなど誰も知らない。Tだってそれはわかっているが彼女の言うことを信じる。信じているフリをする。そんなことどうでもよくてただ彼女に会いたいというのは、「純愛だね。」と立ち飲み屋で言ったような気もするし言ってないような気もする。

もう一人「店でしか会えない」とか言っていた男がいた気がするが忘れよう。気がするというか私の彼氏の過去の話である。そして同じく「純愛だね。」と思っていた。これは誰にも言っていない。

この文章をどうやって締めようかと考えている時点でもうとっ散らかっているのだけど、こんな歳にもなってなるべく純愛でありたいだなどという私にとってやっぱり婚活は向いていなかった。婚活していたことも結婚したことも後悔は一つもないが好きな人ではなく結婚にふさわしい人を探すという行為はもう二度としたくない。婚活をしている人を否定することではもちろんない。とにかく私には向いていなかった。

もう文章を考える力も打ち込む力もなくなってきたから無理やり締めよう。さっさと寝ればいいのに金曜日だからとペディキュアを塗り直している私のこの気持ちもきっとそうだ。いくつになっても打算がない、掛け値なしの純愛として人を好きになれることは素敵だと思う。思いっきり本のタイトルをパクって締めよう。

人の純愛を笑うな


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