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最近読んで面白かった本を本気でまとめる:3/1~/15

こんにちは。あんどーなつです。
今月は変則的に本を紹介するnoteではなく、本を解説するnoteを書きます。

解説したいのはこの本、脇圭平著の「知識人と政治」です。

私はこの本を政治を研究しているおじに、「社会の仕組みが分かる本」として紹介してもらいました。有名な本だときいていたので、ネットにはさぞかしたくさんの書評や解説があるのだろうと思っていました。しかし、読み終えてから書評や解説を探してみても、ほとんどないので自分で解説を書こうと思います。

恥ずかしながら、私は政治のことをあまり知りません。そのため、誤りがあるかもしれません。誤りがあったらコメント等でご指摘いただけると幸いです。

【目次】

1. この本が書かれた目的

2. 時代の流れとそれに対するドイツの知識人の受け止め方

3. トーマス・マンの思想の変遷

4. マックス・ウェーバーの思想

5. この本から私たち読者が学ぶべきこと

1. この本が書かれた目的

この本は、【トーマス・マンとマックス・ウェーバーの思想を追い、台頭してくるファシズムをどのように考えていたのか】を明らかにするために書かれています。

問題提起の発端となっているのは加藤周一氏の「(ドイツの)亡命作家は今のドイツの大衆を議論しているとは言えない」という指摘です。著者はその指摘を土台にして問題を提起しているので、少々長くなりますが加藤氏の指摘をまとめたいと思います。

亡命者を含めての戦闘的なナチに対する反逆者は、ドイツでは「例外者」に過ぎず、彼らによって書かれた反ナチズムの戦闘的な評論だけから、ドイツの精神状況を解釈しようとするのは、「不正確であり、危険である」。
いうまでもなく、「ドイツ国民の大部分は、戦前、戦中を通して、国内にとどまった。しかし、彼らの大部分は、また決して狂信的にナチズムを信奉していたわけではないし、ゲッペルス以下の宣伝をすべて真にうけていたわけではない。そうではなくて、よく働き、よく職務を尽くし、ヒトラーとその政権をいわば、静かに支持したのである。その支持の内容はどういうものであったか。そこには一体、どういう論理が働いていたのか」。この「何百万人の経験を負った思想」と感情とは、「戦闘的な亡命者にも、また狂信的なナチの信奉者にも、反映はしていない。したがって、そのいずれかを中心にして問題を考察するときには、実状に則した答を得ることは困難である。」
答をえるためには、ナチ時代の国内で「大衆と共に生きてきた、しかし、大衆には欠けている洞察と表現力を備えた詩人、または思想家、または芸術家」について検討してみる必要がある。
そこには「相当の思想的根拠」があったはずであり、その根拠は「今でも生きている」のである。「思想的な闘いは、自由主義と社会主義との間にあるのではない。ファシズムが自由主義の後から来たという歴史的事実を、絶えず思い出す必要がある。ファシズムの論理が、自由主義の欠陥を衝くのにどうして鋭くないはずがあろうか。」
———われわれは「ファシズムが過去の問題ではないということを考えなければならない。現在は一応なくなったが、将来には再び起こりうる。過去におけるその成立の事情、その理論の内側、その提出した問題のなかで何が解決され、何が解決されていないかを検討することは、将来のために決定的に重要なことであろう。」

これをふまえて、著者はいかのように論じています。

とすれば今日、思想問題としてより重要な意味をもつのは、ファシズム体制ができ上がってしまった後でこれにどう対処したか(その中で生きたか、それとも外で闘ったか)ということよりも、それ以前の時期に彼らが何を考え、台頭するファシズムに対してどう振る舞ったかの方であろう。

著者は、ナチドイツが成立する以前のドイツ国内にあった様々な政治的思想に着目し、ドイツ人の知識人たちが台頭してくるファシズムをどのように考えていたのかを明らかにすることで、間接的にドイツ国民の思想を明らかにしようとしているのです。

著者は、数いる知識人の中でも、トーマス・マンマックス・ウェーバーを取り上げています。なぜこの2人なのか、というと、右翼にも左翼とも異なる独自の思想を掲げた「非典型的な知識人」だったからです。著者は、取り上げる思想家が偏っていることを認め、本書を20世紀のドイツ思想史に関する不十分極まりない「覚え書」として位置付けています。

2. 時代の流れとそれに対するドイツの知識人の受け止め方

トーマス・マンとマックス・ウェーバーの思想を追う前に、時代背景を確認しましょう。

本書は1914年~1933年までを扱っています。著者はこの19年間を1914年~1919年までと1919年~1933年までの2つに分け、多くのドイツ知識人がその時代をどのように受け止めていたかを説明しています。それを簡易的に示したものが以下です。

まず、1914年~1919年までの時代区分を説明します。この時代は出来事でいうと、第一次世界大戦が勃発してからドイツ革命が終わるまでの時代です。

ドイツの知識人は、第一次世界大戦の勃発を受け『なんらの精神的な準備なしに戦争に突入し、あるいはこれまでの思想武装を瞬時に放棄して、いわゆる「運命の陶酔」に陥った』と言われています。第一次世界大戦が予期せず、文字通り「勃発」したからです。

多くの知識人が、「つい先頃までの平和主義者、社会主義者をも含めて、一般国民と同様に、いやむしろそれ以上に、どんなにこの戦争に血筋をあげ、愛国と憎悪の歌を歌」いました。この時代、「一人の偉大な詩人の自発的な宣言は、政治家たちのあらゆる公式の演説よりも千倍もの大きな影響力をっもっていた」そうです。

著者はこの知識人の「運命の陶酔」に関して以下のように指摘しています。

そのことと関連してもう一つこの時代における知識人ののぼせ上りあるいは運命の陶酔が、単純に政治的なショーニズムの問題としてのみとらえてはならず、むしろ大部分の知識人の場合、これまでの悪の時代、退屈な市民時代からの脱却あるいは贖罪として、人類の精神的な生まれかわりと文化の再生のためにくぐらなければならぬ試練といった、文化批判ないしは道徳的・審美的な動機がその陶酔の背景にあったことを、ここで指摘しておく必要がある。
(中略)たしかに当時のドイツ知識人の多くは冷厳な現実としての戦争を忘れるほどに形而上学的であった。

つまり、この時代の知識人は、第一次世界大戦でどれくらいの人が亡くなり、国土があれるのかといった現実的なことを一切考えずに、ドイツの文化が発展するためにはこの戦争が必要だ!と熱狂的に唱えていたのです。


第一次世界大戦~ドイツ革命が起こるまでは、ドイツ知識人は皆、同じ方向を見ていました。しかし、ワイマール時代になるとその状況は変化します。

ワイマール時代は1919年~1933年までの14年間です。著者はワイマール時代を以下のように説明しています。

ワイマールの十四年間が苛烈な思想・イデオロギーの戦国時代であり、自由競争の時代であったことは前にも述べた。これほど思想と思想、イデオロギーとイデオロギーが真正面からぶつかり、お互いの神話とタブーを容赦なくつぶしあた時期は稀である。
右と左の激突と奇妙な共闘、左翼陣営の分裂と相互破壊、右翼同士の反目と相互軽視、それに右とも左とも簡単に割り切れない新型の運動やイデオロギーの登場——ワイマールの政治・イデオロギー地図は錯綜をきわめている。

ここで抑えておくべきことは、ワイマール時代には様々な政治思想があり、けっしてナチズムしか政治思想がなかったわけではないということです。

繰り返しますが、第一次世界大戦~ドイツ革命時代は、国のために戦争をすべきだという右翼的な政治思想に占められていたのに対し、ワイマール時代には右翼的思考も左翼的思想も、その中間の思想もあったのです。それにも関わらず、ドイツはファシズムに進んでしまいました。

この本が書かれた目的で「ファシズムが自由主義の後から来たという歴史的事実を、絶えず思い出す必要がある。」と述べられていたように、ここに私たち読者は注意を払わなければなりません。

このような時代背景を前提において、トーマス・マンの思想の変遷を見ていきましょう。

3. トーマス・マンの思想の変遷

トーマス・マンの思想の変遷を簡易的に示すと以下のようになります。

トーマス・マンは、ドイツ革命の前後で思想が大きく転換しています。まずは、第一次世界大戦~ドイツ革命までの思想をみていきましょう。

先ほど、第一次世界大戦が勃発し~ドイツ革命が終わるまで、多くの知識人は運命の陶酔に陥っていたと述べました。トーマス・マンも例外ではなく、運命の陶酔に陥りながら、ドイツの第一次世界大戦参戦を支持する内容の「戦時随想」と「フリードリヒと大同盟」というエッセイを書きます。

このエッセイは、トーマス・マンはドイツ国内外の思想家から痛烈に批判されます。まず、ロマン・ロラン(反ファシズムを掲げ戦争反対を主張していたフランスの作家)に、このエッセイは第一次世界大戦でドイツ軍の蹂躙を許すものだとして批判されます。次に、ハイリッヒ・マン(トーマス・マンの実の兄でドイツの作家)から「ドイツの権力に便乗して、ドイツ帝国主義の世界制覇の野望と国際法侵犯の弁護人になりさがった作家の一人がトーマス・マン」であると非難されます。

トーマス・マンはロマン・ロランの批判は冷静に受け取るものの、ハイリッヒ・マンの批判は「自分に対するはなはだしい意地の悪いあてこすり」であると受け取ります。この受け止め方の違いを著者は以下のように分析しています。

トーマス・マンにとってこのようば罵声と名誉棄損は、自分個人に対してむけられたものであるだけでなく、それ以上に、彼が芸術家としての存在と教養の大部分をそこに負っているドイツの「文化」とその伝統そのものに対する罵倒であった。いまは戦時である。したがって国外、敵国からの非難ならば仕方もないだろう。

これが、ドイツ国外からの批判であるロマン・ロランの批判を冷静に受け止められた理由です。

しかし、今回は国内からである。それも新しい「精神」、新しい「時代」、新しい「時代のパトス」としての「デモクラシイ」の名のもとに、「非政治的なドイツの文化」に対して罵倒が加えられたのである。まるでドイツ以外には「非難されるべきもの以外の、何物も残っていないかのように」。もしも、そうとすれば、自分個人のためというよりも、彼がその「最後の精神的嫡子」をもって任ずる、過去のドイツ文化の名誉のためにも、断じて頭を下げるわけにはいかない。

これが、ドイツ国内からの批判であるハイリッヒ・マンの批判に怒った理由です。トーマス・マンは自らは「第一次世界大戦前のドイツ文化」を体現していると考えており、自分を否定することは、古き良きドイツ文化を否定することだと捉えました。さらに、ドイツ文化は「非政治的」なものであるので、「デモクラシー」という政治用語で非難されることが我慢ならなかったのです。つまり、デモクラシーに反対する君主主義者だったのです。

この非難を受けて、どうしてドイツ文化は非難されなければならないのか?や私に非難を浴びせてきた知識人はどのようなタイプなのか?や彼らがつかう「デモクラシイ」「文化」「政治の精神」はどのようなものなのか?などについて考え、意見をまとめた著作を発表します。

それが1918年に発表された「非政治的人間の考察」です。この本は、4つのテーマに基づいています。テーマとそれに対するトーマス・マンの見解を簡潔まとめると以下のようになります。

1つめのテーマ「西欧的なものとドイツ的なもの」:なぜドイツとドイツ人はこうまで西欧と仲たがいしお互いに憎み傷つけ合わなければならないのか、どうしてすんなりと融和できないのかという問題がある。その理由は、ドイツは2重の意味でプロテスタントだから。1つ目は宗教的にプロテスタントだということ。2つ目は、「もっと深く精神文化にも西欧世界とその「文明」に執拗たてつき、それと完全に一つになれない、なろうとしない」という意味でのプロテスタントであること。そのため、ドイツは「デモクラシイ」と相容れない。
2つめのテーマ「ドイツ知識人の2つのタイプ」:2重の意味でプロテスタントであるというドイツの「特殊性」にたてつく急進的な知識人とそうでない知識人がいる。前者は「文明の文士」であり、「政治化」「デモクラシイ化」に応じようとしない後者の知識人を「精神への裏切り者」とか「時代の便乗者」と呼ぶ。
3つめのテーマ「19世紀と20世紀」:19世紀はまだ「精神(=文化)」と「政治」が分けられており、「文化」は「政治」よりも精神的優位にたっていた。しかし、20世紀は「政治」が圧倒的な力をもっており、「精神(=文化)」に侵入している。
4つめのテーマ「マンの中の19世紀と20世紀」:自分のなかには、「西欧的なものとドイツ的なもの」があり、「文明の文士的な的なものとドイツ詩人的ないし音楽家てきなもの」、「20世紀的なものと19世紀的なもの」、「政治と非政治的なもの」が内部にあり、「激烈な攻防戦を展開」している。

著者は「そこ(=非政治的人間の考察)でとりあげられた問題は大戦という大きな時代転換期においてのっぴきならなぬものとなった重要問題ばかりである」と述べ、トーマス・マンの思想も転換しつつあったことを指摘しています


ところで、「非政治的人間の考察」を書き終えたトーマス・マンは疲れ切り、政治的なことに言及するのをやめてしまいます。再び政治的な思想作業に戻るのは1922年、ワイマール時代にはいってからです。

ワイマール時代のトーマス・マンは反デモクラティックな君主主義から理性的共和主義者へと考え方を変えていました。一言でいえば、デモクラシーを受け入れたのです。その背景にはヴァルター・ラーテナウ(作家であり、ワイマール共和国の外相を務めた)が極右テロ組織に暗殺されたことがあります。トーマス・マンはベルトラム(ドイツの詩人)に宛てた手紙で以下のように述べています。

ラーテナウの暗殺は私にとってひどいショックでした。あの野蛮な連中、あるいはあの理想主義に狂った連中の頭の中は、なんと蒙昧なことでしょう。次第に私には、歴史の危険を見抜くことができはじめています。(中略) 新しいヒューマニズムは古いドイツの地盤よりも、デモクラシイの地盤の方が根をはやすことができます。

トーマス・マンは、さらに別の講演の場で学生に以下のように訴えています。

「共和国とかデモクラシイとかいう言葉を聞いただけで、あなた方はまるで何かにおじけづいた馬のように跳ねあがり、迷信めいた神経過敏症で理性まで奪われようとしている。」しかし、ほんとうに「共和国は外国支配であり、頭の切れるユダヤ人の仕事」にすぎないのだろうか、「言葉(デモクラシイ、共和国等々)への臆病な抵抗」はこの際やめて、よく考えてみようではないか。「デモクラシイ」はなにも絶対的、一義的な形式を意味するものではなく、「相対的なもの、時代に制約された形式、必要な道具」に過ぎない。

トーマス・マンはこの講演の最後で「まず死への共感から始まり、生への奉仕への決意に至るような精神の変容のほど、われわれにとって信頼のおけるものはない」と述べ、2年後にはこれをテーマにした小説「魔の山」を発表します。

「魔の山」で注目すべきは、主人公を惑わそうとする2人の論客の1人ナフタだと著者は指摘しています。ナフタはファシストで、『安全第一の市民社会を軽蔑し、「絶対命令!鉄の如き拘束!強制!服従!」を教育の原理とし、「時代が要求する独裁とテロル(=テロ)」を説き、市民的自由主義をその背後から突き崩そうとする革命的に反動的な保守主義』です。ナフタは主人公をファシズムに染めるために様々なことを吹き込みます。

しかし、主人公は雪山で遭難し凍死しかけたこときっかけに、「死は生命の中に含まれて」おり、「死よりも強いものは理性ではなく愛であるということ」に気が付きます。そしてトーマス・マンは主人公に以下のように言わせます。

人間は対立する思想の主人で、すべての思想は人間によって成立するのであるから、人間はどんな思想よりも高貴である。」(事毎に極端な議論をする二人の饒舌化にもうまどわされまい。ことにナフタの考えに染まらないように気をつけよう。)
人間は善意と愛とを失わないために、その思想を死に従属させないようにしなければならない。

トーマス・マンは「魔の山」でファシズムの台頭に警鐘をならしていたのです。

第一次世界大戦中ではドイツの精神(=思想)を守るために人の死を鑑みずに戦争に積極的に賛成していたのを思い出すと、この思想の転換は非常に大きいものだといえます。

著者はこのようにトーマス・マンの思想の変遷を追った後、トーマス・マンを「長期にわたる非常に壮大でドラマチックな思想実験をしつように繰り返し、本来の典型的な学者先生の思想様式のパターンの中から悪戦苦闘の末に抜け出した、例外的なドイツの知識人」であったと述べています。

4. マックス・ウェーバーの思想

次に、マックス・ウェーバーの思想を見ていきましょう。彼の思想の変遷は以下のようです。

思想の変遷というのは正しくありません。というのも、マックス・ウェーバーの思想は1914年~1920年まで終始一貫しているからです。1920年~1933年までの指摘がないのは、マックス・ウェーバーが1920年に死去してるためです。

第一次世界大戦から話を始めましょう。マックス・ウェーバーは「カイザー(当時の皇帝)の素人政治と官僚支配の前に叩頭するドイツ人の臣民根性を鋭く批判していた点」では、ハイリッヒ・マンに通じるところがありました。しかし、『根っからの西欧派でも「文明の文士」でもあり』ませんでした。『ドイツの世界政治への道と権力国家への道を、「ドイツ民族」の「歴史への責任」として積極的に肯定して』いた点で異なるからです。デモクラットではありましたが、共和主義者ではなかったのです。

マックス・ウェーバーの思想は、トーマス・マンとも異なります。トーマス・マンをはじめとした戦中における形而上学者が行っていた「観念の遊戯や理念作りに一切参加」しなかったからです。むしろ、形而上学的なことばかり述べる知識人の意見を「攻撃」していました。マックス・ウェーバーはドイツの知識人でありながら形而上学的な考えを持たず、これがマックス・ウェーバーを他の知識人と異にしています。

加えて、マックス・ウェーバーをユニークにしているのは、戦前・戦中・戦後を通じて一貫した考えを持っていた点です。マックス・ウェーバーは「ドイツ国民の政治的未成熟」を常に問題に考えており、『左右のイデオロギー的立場の違いを超えて同年代のドイツの知識人の中に認めた「政治思考の病」』と一貫して闘っていました。

マックス・ウェーバーがドイツ知識人の中にみた「政治思考の病」は、「誤解を恐れずにいえば」「政治的プラグマティズムの欠落だ」と著者は述べています。具体的には、以下のようなことだと説明されています。

・現実政治の実態や技術的側面を一切無視して、政治そのものを何かの一つの理念や図式に還元すること ex)「ドイツ的本質」「敵と味方」「体制」など
・理念や図式からスタートして一切の政治解釈したり、批判すること
・政治における権力要素や闘争的側面を軽視したり過小評価する心情主義

マックス・ウェーバーの政治的態度を語るうえで欠かすことができないのは、1919年に学生にむけて行われた「職業としての政治」という講演だと著者は指摘しています。

1919年はドイツ革命への興奮が知識人の間にも学生の間にも強く残っていた時代でした。そのようななか、マックス・ウェーバーは以下のように革命に酔っている知識人を痛烈に批判しています。

現在『革命』という誇らしげな名前で飾りたてられている乱痴気騒ぎの中で、ドイツの知識人の間でも幅をきかせているあの『不毛な興奮』は虚しく消えていくロマンティシズムであり、仕事に対する一切の責任感を欠いた態度である。(中略)
情熱はそれが『仕事』への奉仕として責任性を結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となったときにはじめて政治家をつくりだす。そのためには判断力が必要である。現実をあるがままに受け止める能力、つまり物事と人間に対して距離をおいて見ることが必要である。距離を失ってしまうことは政治家にとってそれだけで大罪の一つである。ドイツ知識人の卵たちの間でこうした傾向が育成されれば、彼らの生涯は政治的無能力を宣言されたのも同然である。
この興奮の時代——諸君はこの興奮を『不毛』ではないと感じておられるようだが、本当だろうか。私の印象によれば、相手は十中八、九までは自分の責任を本当に感ぜず、ロマンティックな感動に酔ったホラ吹きというところだ。人間的に見て、私はこんなものに興味もないし、また全く感動しない。

この批判の背景には、マックス・ウェーバーの「政治と倫理」の関係に対する考えがあると著者は述べています。マックス・ウェーバーの「政治と倫理」の考えをまとめると以下のようです。

政治を行う者は権力自体のためであれ、理想の実現のためであれ権力を求めます。政治は政治なので、倫理ではありません。しかし、政治には権力がつきもので、権力の背後には「暴力」が控えているので、政治の実践者には特殊な倫理が求められるはずです。この前提に立ち、マックス・ウェーバーは「責任倫理」と「心情倫理」という2つの概念を提唱します。

心情倫理を持つ人は「純粋な気持ちから発した結果が悪ければ、その責任は行為者ではなく世間の方に、他人の愚かさや、そのような人間をつくった神の意志」にあると考えます。自分で責任を取らずに第三者に責任を転嫁します

責任倫理を持つ人は「自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することはできない」と考え、「これこれの結果はたしかに自分の行為の責任だ」と言います。

マックス・ウェーバーは心情倫理家は『「この世の倫理的非合理性に耐えられ」ず暴力にはしる』としたうえで、講演の最後にこのように述べています。

さて、ここにおいでの諸君!十年後にもう一度この問題について話し合おうではないか。残念ながら私は、あれやこれやいろんな理由からどうにも悪い予感がしてならないのだが、十年後には反動の時代がとっくに始まっていて、諸君のうちの多くの人が期待していたことのまず殆どは、実現さていないであろう。その時私としては、諸君の中で今日自分を純粋な『心情倫理家』と感じ、今の革命という陶酔に加わっている人々が内的な意味でどう『なっているか』、それを知りたいと思うだろう。

この講演の2カ月後にミュンヘンの「知識人革命」が国防軍により弾圧されたことを考えると、マックス・ウェーバーの指摘はおおよそ正しかったのでしょう。

このような主張をするマックス・ウェーバーは当時は異端の極みであり、同じ時代を生きた学生の目には「別の惑星から来た」ように見えたほどだそうです。

そんなマックス・ウェーバーを著者は「ドイツの政治思想圏の中で、ほとんど類をみないラディカルな思想的改革者、例外的なプラグマティスト」と呼んでいます。

5. この本から私たち読者が学ぶべきこと

ここからは私の意見を書きます。

私は以下の文章に、私たち読者が学ぶべきことのヒントがあるのではないかと思います。

非政治的なドイツ市民精神の擁護者とろうとしたトーマス・マンと「政治の中に生まれ落ちた」いわれる最後の学者政治家ウェーバーが、異なった精神世界に生きていたことは否定できない。
(中略)
しかし、一見対立した政治と反政治の世界に生きているように見えながら、この二人はその精神的な基底において、意外と近いところに立っていたのではあるまいか。

二人の共通点は「非典型的な知識人」であることです。著者のいう精神的な基底が二人を「非典型的な知識人」たらしめているのではないかと考えます。

私はその精神的な基底は「自分の思想は他人を死に至らしめる可能性があり、思想を主張する際には他人の死に責任を持つこと」なのではないかと思います。

トーマス・マンは第一次世界大戦~ドイツ革命までは、ドイツ文化を守るためには戦争が必要だ!という主張をしていますが、その際には自分の考えが他人の「死」の上に成り立っていることにはまったく気が付いていませんでした。著者はそれを「形而上学的」と表現したのだと思います。

しかし、トーマス・マンはラーテナウの暗殺という目に見える「死」を通して、思想が誰かの「死」と結びつくことを実感し、自分の戦争賛成という考えが非常に浅はかだったことに気が付いたのではないでしょうか?

自分の思想をもつことを行為の一環だとするならば、これは自分の行動から生じる結果に責任をもつべきだというマックス・ウェーバーの倫理論に繋がります。

私はトーマス・マンとマックス・ウェーバー以外にドイツの知識人を知らないので、この主張が2人を他のドイツ知識人と異にしていた理由なのかは分かりません。

しかし、自分の思想が誰かの「死」に繋がることを強く意識した人が大勢いたならば、ドイツはファシズムに突き進まなかったと思うのです。ナチドイツを支持するという思想は、ホロコーストでのユダヤ人の「死」を意味することになるからです。

この考えは、この本はドイツ国民とともに生きた知識人の思想から、ドイツ国民がファシズムに傾倒していった理由を押し測るため書かれたという本書の目的にもあっているように思います。

「知識人と政治」から私たちが学ぶべきことを改めてまとめると、「自分の思想は時に誰かの生死を左右するのだから、自分の思想には責任を持ちなさい」ということなのだと思います。

難解な言い回しを読み解くのに苦労しながら、長々と書いてきました。私なりに「知識人と政治」をかみ砕いて解釈したつもりです。最初にも書きましたが、誤っている部分があれば、ご指摘頂けると嬉しいです。

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~Fin~

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