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寝る前のメモ。


まだまだ読みはじめたばかりですが、ジョン・アーリ著『モビリティーズ 移動の社会学』のなかで、きちんとメモにしておきたい文章がありました。

「風景は、そのなかに住まい、住うなかで自分たち自身の痕跡を残してきた前代の人びとによる生活と仕事の不朽の記録 -- そして、証 -- として構成される」[Ingold 1993: 152]。したがって、風景は、自然でも文化でもなければ、精神でも物質でもない。風景とは、その場所に住んだ者たち、現在そこに住む者たち、将来そこに住む者たち、そして複数の経路沿いにある多くの場所に出かけたり、旅をするといった実際的な活動を行う者たちに認知された世界である。インゴールドが論じるには、いかなる環境であれ、ある風景の社会的性格を生み出しているのは、その「生業の風景(タスクスケープ)」なのである。

(中略)

人びとは、同じ道を踏みしめていいる自分自身を、その道が土地に刻まれた当時の世代の人びとであるかのように想像する。このようにして、小道の引き直しや新たな道路による小道の消失は、多くの場合、そのコミュニティとその集合的記憶、当の場所での居住/移動の形式に対する破壊とみなされることになる。 

便利になること・開発をすることに真っ向から反対をしているわけではないことを前提に、昨日のnoteにも書いたとおり、わたし自身は名字による土地との紐付きを感じていたり、歴史が好きだったりするほうなので、そういった要素から地域を深く理解し始めている今に楽しみを感じている。30年近くこの地に住んでいながら、今がいちばん楽しいと思えるくらい。

日々の仕事や過去に参加したワークショップを経て、ずっと疑問に思っているのかもしれないけれど、「ローカル」という言葉がわたしはどうも好きになれない。プロジェクト今日のお昼に配信されていた、東京ビエンナーレのトークセッション「ウチ/ソトから東京を見つめて − 五輪・万博・コロナ− 」を聴きながら、改めてそう思った。

都市部の人が「ローカル」を語るとき、感覚として、そこにフラットな関係性を感じられないということが原因だと思う。つまり、「中央」に対する「ローカル」という語られ方に、ずっと違和感を感じているということ。個人的には、自分が関わるプロジェクトに対してもあまり使いたくないというのが本音のところ。(目の前に座っているのに「彼女は〜〜」と呼ばれ続けている感じ?「わたしは並河です!」と言いたくなるような・・笑)

そう思うようになってから、わたしも「東京」を一括りで語らないように気をつけているし(時々そんな風に言ってたらすみません)、もっとその辺りの視点がフラットになればいいのになと思う。

もちろん、ありとあらゆるものの中心がそこにあることは間違いないし、そこに関して異論はないのだけれど、そこに住うことであたかも「わたしが世界の中心である」という感覚に陥ってしまうことがとても危険なことだと思う。危険というとちょっと大げさかな。でも、そういう人たちと過去に出会ったことは事実で、腹のなかはあんまり穏やかではなかったな(笑)。

だから、本当にローカルで手足を動かしている人の言葉には信頼があるし、地域へのまなざしそのものにリスペクトを感じる。こういうことを言いはじめたらどんどんとっつきにくくなる気がするけれど(笑)、つよい地域をつくるためには、自分たちでスタンダードをつくれないとね。

先日、何かの記事で「ローカルメディア」のフォーマット化について語られていたものがあった。メディア自体が飽和状態と言えるなかで同じような形式のものをつくることは気が引けるけれど、そのようなベースすらこの場所にはないので、メディアをつくるとすれば何をどう進めていくのがいいかもう少し考えないとね。いや、考えすぎて動けなくなる前に。

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