見出し画像

「怒り」とSNS発信。


SNSを開けばきょうも、だれかが何かについて意見を述べている。

静かな語り口から怒り口調までさまざまで、その人となりは文面に現れてくるものだなと思う。そんなことを書きはじめてしまうと、このあとの文章が書きづらい気はしているけれど、気にせず続けることにする。

----------

人付き合いについて、語れるほどのノウハウなんて持ちあわせていないのですが、気をつけていることがあるとしたら「怒っている人」とは距離を保っておくこと。そして、怒りに任せて話されたことを、鵜呑みにしないこと。

少し前に公開された映画『インサイド・ヘッド』で描かれているように、人間が生きる上で “怒り” というのも大切な感情の1つであることは間違いない。

(怒りの根源になるような出来事が起こり得ることを、私たちは否定できない。兄弟の喧嘩から、同じ人間として辛く悲しくなるようなニュースまで、 “怒り” のトリガーになるような出来事は、日々、世界のどこかで起こっている。)


ただ、大人になるに連れて、 “怒り” の感情と上手に付き合っていかないと、突発的に起こした行動が、取り返しのつかないことになるかもしれない。そのほかの感情とちがって、“怒り” のエネルギーは自分の外に向かいやすい。

だから、いい大人たちがSNSで怒りの投稿をしていると、なんとも言えない気持ちになる。言いたいことはわかる。わかるのだけど、それを怒りのままに発信してしまうと、たとえそれが正論だとしても、そこに歩み寄る余白を拒んでしまう可能性がある。

そもそも、歩み寄りを求めていないのであれば別にいいのだけれど、どれだけ世の中にとって良いことをしていたとしても、「正義」という刀を振りかざすだけでは、残念ながらその良さは伝わりきらない。それがすごくもったいなく見えてしまって。

----------

たとえ、“怒り” が根源にあったとしても、そこから少し距離を置いて、冷静に伝えてみてはどうだろうか。ただ主張するだけでなく、課題に感じていることや、お互いが歩み寄れる「代替案」を提示してみてはどうだろうか。

自分たちが守りたいものや信じるものを「そっちの方がいいよね」と選んでもらえるのなら、その “怒り” に費やしたエネルギーはやがて 報われていくような気がして。

SNSは、そういった「共感」や「共創」を生み出す作用があるはずなので、ただ怒りをぶつけ合うだけではなく、それらをエネルギー源に次の価値を生み出すことができるはず。


せっかく発信するのなら、クリエイティビティの引き金になるような、そんな投稿が見たいなぁと感じる地元花火大会の翌日でした。(わたしも当事者なのでは?というところですが、人混みと渋滞を懸念して花火大会へは行かず、自宅でゆっくり過ごしていました)

近畿地方周辺の花火大会がなくなるなか、人口以上の人が訪れるこの花火大会の運営が、来年以降より良い内容になっていくように、どんな方法が考えられるのだろう。

市としてプラスチックスマートをうたうのであれば、そういったことを若い世代と一緒に考え・反映していけるといいのだろうなと思います。

----------

本日のアイキャッチ画像は、独特のタッチにグッと引き込まれる、Tome館長さんのドローイングをお借りしました。ありがとうございます!


いただいたサポートは、より良い文章をかけるように有料noteや本の購入にあてさせていただきたいと思います◎