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あれから20年(下) 運動神経が悪いということ Vol.36

生涯最初のスーツは、父と並んであつらえてもらった。定年退職を翌年に控え、私の1年遅れの大学進学に安心してくれたのか、自分のスーツも新調したくなったらしい。詰め襟の制服しか着たことがなかった私はネクタイも初めてで、父に結び方を教えてもらった。反対側からだと説明が難しい、そう言ってときに自らの胸元へネクタイを近づけながら微笑む表情は、いつになく柔和だった。

生真面目な教員だった父は、わが子より勤め先の学校を優先してばかりで、私の学校行事にはほとんど参加できなかった。大学の入学式も同様だったが、当日、阪神電車で通勤していた父は阪急電車の改札まで私と母を見送ってくれた。何度か振り返ると、父はいつまでも、照れ臭くなるほど朗らかな笑顔をこちらに向けていた。永遠の別れが同じ年の暮れに迫っているなど、思いもよらなかった。

父が入院中の病室から抜け出した12月24日の夜、私たちは警察へ出向いて捜索願を出した。高速道路で車を乗り捨てた人間がどこかを彷徨っているはずもなく、学校からの一報で全身の力が抜けた私たちは一度は要請を拒んだが、やむなく手続きすることになった。父の失踪を受けて自宅にかけたという病院からの電話は着信履歴に残っておらず、非情にも支払いを急かされたことしか憶えていない。震えるような足取りで帰宅すると、ケーキを模したブーケの蝋燭に火を灯した。手術を終えた父へ手渡し、見てもらうはずのものだった。その晩は、隣り合って横になった母と眠れぬまま呻くようにして朝を迎えた。

愛知の岡崎や三河安城から駆けつけた親族と一緒に現場へ足を向けたのは、翌々日の26日。父が身を投げた橋は高層ビルのような高さで、眼前の湖は途方もなく広かった。ボートや潜水服に身を包んだダイバーを動員して捜索する様子は、悪い夢にでもうなされているようだった。帰り際、私と母は足元の石ころを拾って帰った。亡き骸とさえ、対面できないかもしれない。そんな絶望感に苛まれ、遺骨の代わりになればという想いからだった。

一行とともにしたその日の夕食の席で、母は涙を堪えられなかった。これからが不安で心配で、叔父が奢ってくれた蕎麦をすする息子の姿が不憫になったらしく、私も箸を止めた。「泣きながらご飯を食べたことのある人は、生きていけます」ー坂元裕二の「カルテット」の台詞が本当なら、私たちは生きていけるはずだ。

釣り人に発見されて警察署で無言の対面を果たしたのは、さらに2日後のこと。4日以上も水没していた人間の姿がどうなっているのか、怖かった。けれど、冷たくなった身体でも、衝撃で腕や肋骨が腫れあがっても、父の死に顔は穏やかだった。息の絶えた身体であっても、温め、清めてあげたいと、母は水筒を持参した。お湯に浸したタオルで母に顔を拭ってもらったとき、父の口許が動いたように見えた。

父の死は、新聞記事にもなった。応接した警察署の人たちには報道されないよう懇願したが、翌朝の地元紙には住所まで明記されていた。病気を苦に自殺かーそんな観測に基づく文面は、全くもって当たらない。逝く間際の父は、眠れず、のたうち回るような状態で「病気は怖くないんや」と溜め息混じりに話していたし、苦しんだ原因と思しき出来事や人の名前も溢していた。ただ、どれも断片的で、追及にも解明にも至らなかったのが口惜しい。以後、私たちは当時の住み家での暮らしを断念することになった。

「お父さん、頑張るからな」入院当日の昼間、父からメールが届いていた。「夜、行きます」私からの返信は、あまりにも素っ気なかった。こんなやり取りが、大学入学を機にようやく使い始めた携帯電話での最後の交信になった。入院2日目の23日、ときおりベッドからこちらを見ていた父は、目が合うたび俯いた。何を語りかけたかったのか、確かめることもなく終わってしまった。親子だというのに、性格も違えば出来にも差があり、ぎこちなくて噛み合わない関係だった。優しい父親に対し、いつも冷たい息子だった。死にたいほどの心境のなか、息子へ「頑張る」と絞り出した想いは、いかばかりだったろうか。いまなら、もう少しは理解できたろうに。

今日で、あれから20年が経った。私と母の感慨は、悲しみや寂しさだけでは語り尽くせない。どれほど追い込まれても、父はきっと私たちのそばにいてくれる。そう信じて疑わなかったことが災いしたようで、どこか裏切られたような想いも消し去れない。仕事の過酷さを恨んだり、人の怖さを疑ったり、世間の冷たさを憂いたり。はたまた、苦しみに寄り添えず救えなかった自らを悔やんだり。かけがえのない命を奪われた喪失感が、日々さまざまにかたちを変えながら影を落とし、いまも過去のこととして消化できずにいる。

「寝たな、わしも寝るわ」父の入院2日目は大学の冬休み初日、病室でまどろみ始めた私を見て、父はそう言ったあとしばし寝息を立てていたと母から聞いた。生涯最期の父子の時間を呑気に寝て過ごしたことを嘆くと、「あれだけ寝られなかったお父さんを、最後にゆっくり寝かせてあげたのはあんたやで」と励ましてくれた。私にはまだその母がいて、二人で暮らしていける。父には、ごめんもありがとうも何も言えないが、ただ一心に願っている。どうか、これからも私たちを見ていてほしい。






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