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存在がプロレス―追悼アントニオ猪木 第3のリベロ Vol.22

国民的な存在とは、思わずひと目見たい衝動にかられるものなのだろう。富士山などは、空が澄んだ日に新幹線で通過するとき、ついカメラを向けたくなる。思い描いたとおりの姿を拝めると、それだけで気分が少しばかり高揚する。わが国のリングにそびえ立つ富士山といえば、アントニオ猪木だった。

病に蝕まれた近影を見るたび胸を痛め、遠からずその時が訪れることは悟っていたはずなのに、訃報に接した瞬間は嘆息が漏れた。石原慎太郎にエリザベス女王、若々しく華やかな印象が色褪せなかった人々を相次いで亡くした今年、強さの象徴までもが天に召され、誰しも不死身ではいられない当たり前を痛感する。世代的にレスラーとしての全盛は知らないものの、すでに50代も半ばに差し掛かった晩年にあっても、リング上で放つ唯一無二の存在感は健在だった。より鮮烈だったのはプロモーターとしての印象で、小川直也が橋本真也に"公開処刑"を仕掛けた1.4事変やK-1と手を組んだ大晦日興行など、ファンのみならず広く一般社会にも訴えかける話題の発信こそ、猪木の真骨頂だった。

数多くの伝説のなかでも、最たるハイライトはモハメド・アリとの異種格闘技戦に違いない。「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」ボクシングを超え「歴史上の人物」と称しても良いスーパースターのリップサービスを真に受けたことをきっかけに、がんじがらめのルールを呑んでまで対戦を実現させた。内向きにならず外の世界を意識することは、あらゆるスポーツやカルチャーを通じて重要だろうが、「プロレスを認めさせたい」との一念を原動力とした猪木は、それを実践できる稀有な存在だった。ときは1976年、目の肥えていなかった世間は「世紀の凡戦」と酷評し、多額の負債も残したなか、猪木が救われたのはタクシードライバーからの労いの言葉だったという。決着のつかなかった一戦だが、ずっと語り継がれてきたのだから、後世が猪木を勝者にしたと言えるだろう。

次はどんな夢を実現してくれるのか、常にファンを愉しませるサービス精神と、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン戦など、いざとなれば相手に怪我を負わせてでも勝つ執念。愉しさも恐ろしさも、ときに素っ頓狂な言動で和ませるおかしみまで兼ね備えていた。「プロレスのため」生きた人は、存在そのものがプロレスだった。病と戦った最期は、天から赤いタオルマフラーが投げ込まれたのだろう。断じて、ギブアップもスリーカウントも奪われていない。

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