自分とは何者なのか
エルサレムの“神殿の山”から北北西へ約およそ9.5キロの所にあるエル・ジーブ(Al Jib)。
古代都市ギベオンの遺跡が眠っている。
ギベオンの民に王はいなかったが王を戴く近隣諸国に引けを取らない大きな町で、男は皆戦士であった。
彼らは今、ひとつの大きな決断を迫られていた。ヨルダン川を渡ってきたイスラエル人たちが次々と国々を滅ぼしギベオンに近づいていた。近隣諸国は互いに同盟を結びこの脅威に対処しようとしている。自分たちも同盟に加わるべきだろうか。それで勝算を得ることができるだろうか。それとも降伏し投降するべきだろうか。降伏したならどんな仕打ちを受けることになるのだろう。時は刻一刻と迫っていた。彼らは情報をかき集め議論を積み重ねた。
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ノアの子ハムはシナルの地、すなわちチグリス・ユーフラテス川の流れる肥沃な地で家族を増やしていった。バベルの塔で言語が混乱させられた後、ハムの子孫たちは地中海東岸の地域やアフリカへと移り住んだ。ハムの子カナンの子孫の一部はこの地中海東岸の一帯に住むようになりカナンの子孫からでたヒビ人がギベオンに住んだ。やがてシナル地方にいたセムの家系のアブラハムがやってきてギベオンの北にあるエバル山とゲリジム山に挟まれた町シェケムにおいてこの地帯をあなたの子孫のものとする、と神から約束される。
“あなたの子孫は,よその国で外国人として暮らすことになる。そこの人々の奴隷になり,400年間苦しむ。しかし,私はあなたの子孫を奴隷にした国民を処罰する。そして,あなたの子孫は多くの財産を持ってそこを出る。 あなた自身は,長生きした後,死の眠りに就き,父祖たちのように葬られる。 あなたの子孫がここに戻ってくるのは,4代目になってからのことだ。アモリ人が処罰される時はまだ来ていないからだ”
400年の時を経てイスラエル人たちは今確かにこの地に戻ってきた。イスラエルの神はエジプトに壊滅的な災厄をもたらし、エジプトの軍隊を紅海に沈めた。エジプトのどの神もイスラエルの神に打ち勝つものはいなかった。ヨルダン川の東で栄えていた国バシャンは巨漢の民族が住む王国であった。彼らも攻め破られたが、そのオグ王の棺は4メートルのものだった。
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春に水かさの増したヨルダン川をイスラエルの神は奇跡的に堰き止めてイスラエル人は乾いた川床を渡ってきた。
ヨルダンの西側でイスラエルの最初のターゲットになったのは城壁に囲まれた町エリコ。神の祭司たちを先頭に、6日の間城壁の周囲を1周し、7日目には7周して行軍を終えてイスラエルが鬨の声をあげると城壁は突如崩壊したという。イスラエルの密偵たちを保護したラハブという遊女とその家族は救い出された。彼女が密偵たちを匿った際に約束を取り付けたからだった。
次いでターゲットとなったのは街道をさらに西に進んだアイの町だった。イスラエルはこの小さな町に敗北した。エリコ攻略の際に全てのものは神に捧げられることになっていたが、その中から盗みを働いた不届き者がいたために神の祝福が得られなかったからだった。
事が正された後、アイは攻略された。アイの王は殺された後にその死体は杭にかけられた。
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近隣諸国の王たちは慌てて同盟を結びあった。ギベオンとその周囲の住人たちはそれら同盟国とイスラエルの間に挟まれた。イスラエルの側についたら、同盟軍からの侵略を受けることだろう。イスラエル人たちはこの地の住民たちの悪が極みに達しているので神の裁きをもたらしているというスタンスだ。和平を結ぶことはできそうもない。イスラエルを内部から腐敗させて神の祝福を失わせるのはどうだろうか?ヨルダンの東側のモアブ人たちがしたように。確かにその時色欲をそそのかされたイスラエル人たちは神罰を受けて滅びかけた。しかし、その後モアブはイスラエルに追い散らされた。これはうまい手ではない。同盟軍につくしかないのだろうか。問題なのは神がいつでも背後にいることだ。
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“あなたの神エホバが彼らをあなたの前から追い払う時,心の中で,『私が正しい者なので,エホバは私を連れて入ってこの土地を取得させてくださったのだ』などと言ってはなりません。エホバは,それらの国民が邪悪なので,あなたの前から追い払うのです。”
イスラエル人たちは自分たちの神に繰り返し逆らって何度も滅ぼされかけている。このイスラエルの神はえこひいきをしたりはしないらしい。自分たちが今滅ぼされようとしているのは悪がはびこり、どうしようもないまでに悪くなってしまったからだ。ノアの日と同じように。ギベオンの民が生き残る方法はただ1つしかない。神の前にへりくだり今までの生き方を改めることだ。神の怒りをなだめる以外に生き延びる道はない。戦士として民族としてのプライドを一切捨てて。多くの血が流されてきた。もう終わりにするのだ。本当に誇れるものは何か。それは過去の武勇でも蛮行でもない。今この時の勇気ある正しい決断こそギベオンの民の誇りとなるのだ。
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イスラエルの指導者ヨシュアは宿営に近づいてくるみすぼらしい1団を目にした。擦り切れた袋に食料を入れ、張り裂けて繕ってある擦り切れたぶどう酒用の革袋と一緒にロバに載せられている。 擦り切れて継ぎを当てたサンダルを履き、擦り切れた服を着ていた。食料のパンはどれも乾いてぼろぼろ砕けるものだった。かなり遠くから旅をしてきたようだ。
彼らは言った。「私どもは、あなたの神エホバのお名前を伺って非常に遠い土地からやって参りました。その方の名声、エジプトでなさった全てのことについて聞いたからです。どうか私どもと契約を結んでください。私どもはあなたに仕えます」
ヨシュアは平和を約束し、彼らを生かしておくという契約を結んだ。イスラエルの12部族の長たちもそのことを彼らに誓った。
契約を結んで3日がたち、人々は、彼らが近くに、近辺に住んでいることを聞いた。そこでイスラエル人は出掛け、3日目に彼らの町に来た。ギベオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリムである。しかし、イスラエル人は彼らを攻撃しなかった。民の長たちがイスラエルの神エホバに懸けて誓っていたからである。ヨシュアは彼らに騙したことについて問い詰めた。彼らは答えた。
「私どもはどんな扱いも受け入れます。正しくて良いと思われることを何でも行ってください」
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ギベオンの民はこうしてイスラエルと平和の契約を取り付けた。しかし、安堵できるのは束の間だった。恐れていたことが現実となる。アモリ人の5人の王、すなわちエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムトの王、ラキシュの王、エグロンの王が、軍隊を率いて集合し、進軍して、ギベオンと戦うために陣営を敷いた。やはり彼らは黙ってはいなかった。当然の反応だろう。イスラエルが助けに来る前に彼らは迅速に行動し速やかにギベオンを滅ぼすつもりだ。予期はしていたが、彼らがここまで迅速であるとは。イスラエルの神は奴隷にすぎない私たちを助けてくれるのだろうか。この規模の軍隊に勝ち目はない。イスラエルといえども勝ち目はない。そう神の後ろ盾無くしては勝ち目はない。しかし、神の後ろ盾に信頼を置いたからこそイスラエルの側についたのだ。あのエジプトの軍隊を紅海に沈めた神に。アイの王の死体は見せしめとして杭につけられた。見せしめということは頑なに神に逆らう者たちの末路は皆あのようになるということだ。そうなるはずだ。ギベオンの民は手筈通りヨルダンの畔ギルガルに宿営しているイスラエルのもとに救援要請の急使を遣わした。
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ギベオンの住民は眠れぬ夜を過ごしていた。援軍はいつ到着するのだろうか。果たして来てくれるだろうか。自分たちが重ねてきた罪の重さが今重くのしかかる。昨日今日悔い改めたところで神の許しは得られるのだろうか。やはり私たちも見せしめとして滅びゆく定めなのだろうか。
朝日が昇る頃、敵陣から突如戦いの音が聞こえ始めた。早すぎる。急ごしらえの同盟軍がこんな朝早くから動けるのか。こんなに早くては援軍が来るまで持ちこたえられそうもない。しかし、戦の音はおかしなところから聞こえてきていた。そして見張りが様子を伝えて叫んだ。その目は輝いていた。その声は歓喜に溢れていた。イスラエルが到着した、敵陣になだれ込んでいると。敵は混乱し悲鳴をあげて逃げ回っていると。
目を疑うような光景が目の前にあった。急使を送ったのは昨日のことだ。到着はせめて明日だろうと見込んでいた。ギベオンの住民たちは驚きと喜びで歓声をあげたり肩を叩きあったりしている。長い長い1日が始まるのだった。
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ヨシュアはギベオンの住民が窮地に陥っている急報を聞いた。神はヨシュアにこうお告げになった。
“彼らを恐れてはいけない。私は彼らをあなたの手に渡したからである。誰一人、あなたに立ち向かえない”
ヨシュアは直ちに全軍を整えた。以前に3日かけた道のりを夜通し進軍し12時間程で敵陣に辿りついた。ヨシュアの迅速な進軍は敵軍にとって不意打ちとなり敵軍は大混乱に見舞われた。圧倒的に兵力の不利な戦いにもかかわらずイスラエルは混乱している敵を打ち破っていった。それでも敵は湧いてくる。
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ギベオンの住民は戦いをただ眺めていた。小さなイスラエルの軍が大きな敵陣に飲み込まれている。しかし、小さい軍は数を減らすことなく着実に大きな軍を小さくしている。しかし、数が違いすぎる。これは長期戦になるだろう。今は敵の混乱に乗じているが、明日になれば敵も体制を立て直すだろう。イスラエルの神はどう戦うのだろう。
その時イスラエルの指導者ヨシュアが太陽に向かって剣を掲げて大声でこう言うのが聞こえてきた。
“太陽よ,止まれ! ギベオンの上で。
月よ,アヤロンの谷の上で”
この勢いで一気に片を付けたい気持ちは分かるが、さすがに太陽は待ってくれないだろう。高揚する気持ちから出てきた士気を強める言葉だと思っていた。一睡もせずに行軍してきた彼らにはそろそろ休息が必要なはずだ。しかし、太陽は止まっていた。神はヨシュアの要請に答えられたのだ。
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ヨシュアは追撃していった。イスラエルはギベオンで彼らを大勢殺し、ベト・ホロンの上り坂を通って彼らを追い掛けて討ち、アゼカとマケダまで進んだ。それでも敵は湧いてくる。彼らがイスラエルから逃げてベト・ホロンの下り坂にいた時だった。空から巨大な氷の塊が降ってくる。その雹はイスラエルの戦士たちにはあたらず、敵を正確に撃ち砕いていた。それは連合軍がアゼカに敗走するまで続いた。イスラエル人の剣で死んだ人より、雹で死んだ人の方が多かった。
太陽は空の中ほどで静止し、ほぼ丸1日、急いで沈むことはなかった。 エホバ神が人間の声を聞き入れて太陽を止めた日は、後にも先にも一度もない。エホバがイスラエルのために戦っていたのである。
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連合軍の5人の王たちはアイの王と同じように杭にかけられてから葬られた。ギベオンの民は自分たちの選択に間違いがなかったことを喜んだ。彼らには神殿で使用される薪を集めたり水を汲む仕事が割り当てられた。重労働で地味な仕事だ。しかし神のための神聖な奉仕の割り当てを喜んで果たした。ギベオンの民は自分たちの上で太陽が止まり神による救いを経験したことを語り継いだ。ギベオンの民は自らアイデンティティを掴み取った。
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自分らしさというものの源はどこにあるのか。自分のルーツ、受け継いできたものは何か。
画家が生み出す作品はある時は喜びを、ある時は悲しみを、またある時は怒りや希望を表現するかもしれない。同じ人が描いたとは思えないほど作風が変わることがあってもそれはその画家の内面から出てきている。自分のうちにないものを表現することはできない。
自然界には多種多様で個性的な生き物が溢れている。これらは誰の作品か。生命は自らの作りをすら理解していないが高度に精錬された科学技術や造形美がそこには秘められている。
“私たちの神エホバ,あなたは栄光と栄誉と力を受けるのにふさわしい方です。あなたが全てのものを創造されたからです。全てのものは,あなたのご意志によって存在するようになり,創造されました”
アイデンティティーの根幹、自分らしさの核となっているものがどれだけ安定しているかによって流されず、縛られず、迷わず、より自由に確信を持って生きてゆける。
“あなたは助言して導いてくださり, そうして私が栄光を受けるようにしてくださる。
あなたがいてくださるので,地上に望むものは何もない。
私の体と心が衰えようとも, 神は私の心の岩,永遠に私の全て。”詩編73
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