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【短編小説】忘れごとの神様【ホラー/サスペンス】

 あたしの住む町には、忘れごとの神さまがいる。

 願いが叶ったような気がした。あたしは顔を上げた。あたしたちは境内へと続く長い石段の中腹に立ち止まっている。三段上ったところに慶くん。五段上がったところに小夜子ちゃん。ふたりがあたしを振り返っていた。慶くんがいつもの笑顔で、小さく首を傾げた。
「どうしたの、マミ」
 どうしたんだろう。あたしも変に思う。なんだか、ずっと上り続けているみたいな感覚。ううん、ちょっと違う。もう上ったはずなのに、また上ってる、みたいな、まるで一度攻略したゲームの二週目のような。クマゼミの大合唱が、石段の左右に広がる林から、夏のまだらの木漏れ日と共に降ってくる。すごく暑い。くらくらしてる。汗が頬を伝った。気持ち悪い。
「何か、忘れたような」
 あたしがぽつり言うと、慶くんは噴出した。
「まだお参りもしてないのに。あ、忘れ物でもした? パンツ履くの忘れたとか。むかしあったよな。ほら幼稚園のとき」
 軽口でからかう慶くんを、一段下がってきた小夜子ちゃんが叱る。
「こら慶! 女の子に何てこと言うの! マミちゃん、大丈夫? 具合悪い?」
 小夜子ちゃんが心配そうに覗き込んでくれることに、あたしは安心して、すっと涼しくなって、気分も落ち着いた。ふたりは姉弟で、雰囲気は似ているのに、性格はかなり違う。あたしは、三つ年上で来年大学生になる幼馴染の小夜子ちゃんが大好きだった。慶くんのことも、別の意味で好きだったんだけれど。
 小夜子ちゃんに向かって、あたしは頷いた。
「うん、大丈夫。だから、もう帰ろう」
「え?」
 重なった二人の声に微笑みながら、あたしはもう一度頷いてみせた。
「願い、叶ったみたい。忘れごとの神さま」

 住宅地の分岐路で慶くんと小夜子ちゃんと分かれ、あたしは自宅の方へ歩いた。西に真っ直ぐの道は、夕陽になりかけの灼熱の光が眩しい。途中のコンビニでアイスを購入し、食べながら歩くことにした。それにしても、
「あたし、何を忘れたんだろ」
 あたしの心には、願いが叶ったんだって気持ちだけが焼き付いていた。何を忘れたのかはもう分からない。
 あたしの住む町の神社にいる忘れごとの神さまっていうのは、忘れたいことを忘れさせてくれる神さまだ。場所は、あたしと慶くんの通う公立中学の裏山。住宅街と幅の狭い道路を挟み、山裾の雑木林に古ぼけた鳥居。そこをくぐると石畳が真っ直ぐ、少し進み、山を上る形で石段が造られていた。高い木々に囲まれて薄暗い、何の変哲もない神社。そこにいるであろう神さまに、忘れごとの神さまと名付けたのは、あたしより何個か上級生だったと思う。それは、あたしが小学生のとき、校庭で事故が起きたことに端を発している。ぶらんこか登り棒かで遊んでいた生徒のひとりが大怪我をして、校庭の遊具全てが撤去されることになった年だ。工事は夏休みを使って行われ、その夏のあいだ、校庭は立入禁止になった。だから、校庭で遊んでいた生徒は、みんな他の場所へ移動するほかなかった。その場所のひとつが、小学校からも近い、忘れごとの神さまのいる神社だったってわけだ。
 夏休みに入ってすぐ、神社で遊んでいた上級生たちの大勢が、何か重要な出来事を忘れてしまったらしいっていうのが、あたしが最初に耳にした噂。その噂は、そこで遊んでいた小学生に行き渡って、そのうち他の人も色んなことを忘れたと言い出した。怖くなって、あたしは遊びに行くのをやめた。それから何年かの月日が流れるうち、どういう経緯でか「忘れたいことを忘れさせてくれる神さま」というふうに噂は変容していった。
 当時小学校低学年だったあたしは、今も昔も変わらず忘れっぽくて、別に、今更何かひとつ忘れたって構わないような日常を送っているんだけれど、怖かったあの神社にわざわざ参拝して祈願するような「忘れたい」記憶の正体とは、いったい何だったんだろう……。

 翌日は終業式だった。式が終わり、夏休みの宿題が配られると、残すところは担任からの訓戒のみ。教室はいやがうえにも期待で高まる。勿論、中学三年生のあたしたちにとって何よりも重要なのは受験勉強だけど。前の席の慶くんが振り返って、注意事項の書かれたプリントを寄越してきたので、あたしはそれを受け取った。最後列なので受け取るだけ。
「なあ、マミ。昨日さあ」
「うん?」
「ほんとに忘れたの?」
「パンツは履いてたけど」
「じゃなくて」
 慶くんがもどかしげに言葉を選ぶ。あたしは気づいた。慶くんは、あたしが忘れたかった「何か」に、心当たりがあるようだ。そしてそれを、あたしが忘れたかったと知っているからこそ、言葉を選んでいるのだ。絞り出されようとする言葉を、あたしはじっと待ってみた。だけど慶くんは、結局何も言わなかった。前を向いた慶くんの背中を見ながら、じっと推理してみる。あたしが忘れたかったこと。神さまに願った忘れごと。あたしは、あの神社が「忘れさせる」神社だって、むかしから知っていた。そしてあたしはこうと決めたら即座に実行する性分だ。つまり、どうしても忘れたいと思ったら、すぐに神社へ向かうだろう。行くと決めたのは、いつ?
 そうだ、一昨日。忘れてない。一昨日は、少し離れた別の神社で夏祭りがあった。暑さの残る夜、神社には出店が並んで、たくさんの人で賑わうなか、あたしはクラスメートの女子グループで遊んでいた。そのお祭りのあいだに、忘れたいことを忘れようと思って、自発的に、参拝することを決めたんだ。そして次の日、学校が終わって、慶くんと小夜子ちゃんと神社へ行った。夏祭りのとき、何かが起きたってことだ。
「お祭りのとき……」
 あたしの呟きに、慶くんがちょっとだけ振り返って、観察するような目をした。彼はきっとこの秘密に加担している。

 夜。夏休みの宿題全てを期間で割って、本日のノルマを達成したあたしは、自分にご褒美を与えるべくコンビニへ向かった。漫画雑誌を立ち読みしたのち、奥の冷凍ケースで迷いに迷って、好きな氷菓子を選ぶ。レジを通して外に出ると、むっと蒸し暑い外気にさらされる。とたん、帰宅まで我慢しようという決意はあっさりどこかへ掻き消えて、あたしはさっさと袋を開けた。背後から声を掛けられたのは、ソーダ味の氷を一口齧ったときだった。
「マミちゃん」
 振り返ると、白いワンピース姿の小夜子ちゃんが片手を振っていた。もう片方の手にはお財布。買い物に来たのだろう。
「小夜子ちゃん!」
 小夜子ちゃんは、ちょっと待っててと言って、コンビニで何かを買ってレジ袋を提げ、すぐに表に飛び出してきた。街灯の明かりだけのコンビニの駐車場には車は一台も停まっておらず、あたしたちは駐車場の端に移動して、並んでアイスを食べることにした。以前はこうしてよく、小夜子ちゃんと慶くんとあたしとで、いつまでも遊んでいた気がする。懐かしくて、なんだか嬉しかった。嬉しいのが伝わったのか、小夜子ちゃんがやさしく微笑んでいた。
「なんか、こうしてるの、懐かしいよね」
「小夜子ちゃんも思った? あたしも、いま、すっごくそう思ったところだったの」
 そっかぁと、小夜子ちゃんは朗らかに笑った。小夜子ちゃんの笑顔、ほんとうに優しくて大好きだ。懐かしさに浸れば浸るほど、小夜子ちゃんが来年にはいなくなってしまうのが辛かった。進学する大学は遠方で、小夜子ちゃんは一人暮らしをする予定なのだ。
「寂しがらなくて大丈夫。慶もいるじゃない」
「でも」
 あたしは唇を尖らせた。もちろん慶くんはあたしの前の席にいるし、これから半年以上クラスメートをするし、偏差値も同程度で、同じ高校に進学する。再び同じクラスになる可能性もあり、すれ違うことも多々あるだろう。現在過去未来揃って大して変化ないから、慶くんと離れるのはぜんぜん想像つかない。けれど小夜子ちゃんとの別れは差し迫り、どんどん疎遠になる未来が確定している。あたしはしんみりした。
「小夜子ちゃん、大学に行っても、ちゃんと帰ってきてね。あたしのこと、忘れないでね」
「やだなあ。マミちゃんったら、大袈裟だよ」
 小夜子ちゃんはけらけらと明るく笑ったけれど、あたしの胸には苦しい思いが残った。一人っ子のあたしにとって、小夜子ちゃんはほんとうのお姉さんみたいな存在だ。だけど人間なんて、神さまの領域にちょっと踏み込んでしまったら、あっという間に記憶を失くしてしまえる程度の生き物だ。小夜子ちゃんとあたしの脳みその造りは違うだろうけれど、ついつい忘れっぽい自分基準で考えてしまう。
 小夜子ちゃんは、ふと真面目な顔を上げた。視線が合って、あたしは訊ねた。
「どうしたの?」
 小夜子ちゃんは、提げている不透明のレジ袋を覗き込みながら、不思議そうに首を捻らせた。
「パンを二つでしょ。アイスでしょ。慶用のプリンでしょ。……あと、何だったっけ」
 あたしはぷっと噴出した。
「やだなあ」

 翌朝、あたしは神社に来た。忘れごとの神さまがいるほうじゃなくて、夏祭りのあったほう。神社としては同規模だけれど、こちらは主要道路や駅も近く、周辺が賑わっていて、夏祭りの夜は大変な混雑だった。とはいえ、行事のない日は閑散としていて、いまの神社にはあたしひとりしかいない。日差しを遮るものはなく、境内は朝九時の太陽にすっかり焦がされようとしていた。手水舎の屋根が作り出す濃い影にぽつんと立って、あたしは神社を一望した。ここを訪れたのは他でもない、自分が何を忘れたのかを思い出すためだ。望んで忘れたはずのことを知ろうとするなんて矛盾してるとは重々承知しているんだけど、やっぱり忘れたいなって思ったら、今度はあっちの神社に行けばいいからいいや。
 あたしは、記憶を取り戻したい。願いは確かに叶い、昇華した。という気持ちが、完成したパズルのようにかちっと嵌っている。あたしはたぶん、何かを痛切に願ったんだと思う。それが叶えられたから、こんなにも、叶えられたって納得しているんだ。だったら、過去の「忘れたかったあたし」をもっと信用して、「忘れたあたし」に甘んじていればいいはずなんだけれど、自分の身にそんな重要な事件が起こるとは到底考えにくいから、境目を越える前の自らがどんな事件に遭遇したのか知りたかった。それはとっても重大だったはずだ。そのとき、石段を上ってくる人の足音に気づいて、あたしは柄杓をとって、それっぽく手を洗うことにした。近づいてきた人影に、そっと顔を上げると、慶くんだった。
「なんだ、慶くん」
 あたしより少し背の高い慶くんは、シャツとハーフパンツ姿。端整な眉をちょっと顰め、唇を尖らせて憮然とする。
「なんだってなに。つか、朝っぱらから何やってんの」
「慶くんこそ。……ランニング?」
 今夏に引退するまで、慶くんはテニス部だった。小夜子ちゃんもテニス部で、その影響で入部したんだけど、走るのも好きだから陸上部への入部も検討していたことをあたしは思い出していた。慶くんは額から流れた汗を、首にさげたタオルで拭いながら頷いた。
「高校も部活やりたいし。体力落としたくないから」
「がんばるねえ」
 ふたりでお参りして、石段を下りた。こちらの神社はちょっと高い位置にあるだけで木も少ない。石段をおりて、通りに面している鳥居をくぐったら、真っ白な太陽が情け容赦なくふたりを焦がした。息苦しいほど暑い。あたしが家のほうへ歩き始めると、慶くんもついてきた。走らないのかな。あたしたちは肩を並べて歩き出す。
「で、マミはなんでここまで来たわけ?」
「こないだの忘れたことが気になって」
 慶くんを窺いながら返答すると、慶くんはあからさまに動揺してあたしを見、ばちんとぶつかった視線を、慌ててそらしたのだった。慶くんがこの忘れごとに関わっていることくらい、既に察しがついている。あたしはちょっと笑った。
「けど、やっぱり思い出せないみたい」
「ふうん」
 何でもなさげな相槌を打ちながら、慶くんが胸を撫で下ろしたのが見て取れた。相変わらず隠し事のできないタイプの人だ。昔から、例えばあたしと慶くんでツルんで悪戯をしても、見つかる前にバレる。慶くんがあまりにも分かり易いからだった。小夜子ちゃんによく笑われたっけ。そのとき、慶くんが唐突に呟いた。
「ほんとに、忘れたんだよな」
「なにを?」
 慶くんがそれを知っている、と、あたしが承知している上での意地悪な質問に、素直な慶くんはすっかり慌てふためいた。
「いや。別に、なんでもないし」
「隠そうとしても無駄だよ。慶くん、あたしが忘れたかったこと知ってるでしょ?」
「知らんし。おれ、もう行く」
 あっと声をあげたときには、慶くんは数メートル先にいた。彼は風のように足が速い。
「待ってよ!」
 あたしが声をあげると、慶くんはもうちょっと走って、片側一車線の道の、交差点の手前で、くるりと綺麗に振り返った。太陽の下、汗がきらきらと輝いた。彼は朗らかに笑い、あたしにウィンクをした。
「思い出す方法があったら教えろよ」
「そんなのはいま、あたしがいちばん知りたいんだけれど」
「いや、おれの方が知りたい。頑張るけどさ」
「え?」
 問い掛けようとしたあたしの前で、慶くんは身を翻した。交差点。横断歩道の信号が、青に切り替わったところだった。あたしの頭に、この夏のこの瞬間と、リフレインする誰かの悲鳴が、焼きついて離れない記憶となった。慶くんは居眠り運転のトラックに突っ込まれて、集中治療室に入って数日後、帰らぬ人となった。

 葬儀は近所のお寺で行なわれた。虫の鳴く夏の夜。お葬式が終わったお寺の門から、制服姿の同級生たちが親に迎えられて帰っていく。あたしはその光景を鐘楼のところから眺めていた。周辺はすっかり暗がりに沈んでいた。いま、何時だろう。あたしは家も近いし、歩いて帰るつもりだったけれど、なんとなく動き出せなくて、鐘楼の柱にもたれ、隣接したお墓と、ずらりと並ぶ墓石をぼんやり照らす灯りに見入る。通常時だったら、人っ子ひとりいないお墓なんて怖くてたまらないだろうに、いまはそれほど怖くなかった。人は死んでも、焼かれて骨になって、供養されて、それで終わりだ。幽霊になんかなってくれない。慶くんは軽口を叩いて現れちゃくれないし、高校に入学することも、走ることももうできない。じわっと滲んできた涙を、手の甲で拭っていたら、砂利の上を誰かがゆっくり歩いてきた。顔をあげると、小夜子ちゃんだった。ちょっとどきっとして、あたしは慌てて、手の平で顔全体を拭う。視線があったものの、どちらも声がでなかった。小夜子ちゃんはいつにもまして痩せ細り、喪服を着ている所為か、蒼白な顔面と白い手だけが宙に浮くようだ。対角に位置する柱のところまでやってきた小夜子ちゃんは消え入るほど小さな声で、ぽつりと、意外なことを言った。
「わたし、何を忘れたんだろう」
 泣きすぎて窪んだ眼窩から、小夜子ちゃんはまた、ひっきりなしに涙をこぼした。
「マミちゃん、わたしね、何かを忘れたみたいなの」
「小夜子ちゃん?」
「でも、思い出せないの……」
 その感覚にすごく共感できるのは、あたしもまた、何かを忘れているから。
「神社に行って以来?」
 小夜子ちゃんはこくりと頷いた。涙が、きらきらとこぼれた。あたしは頷いた。
「一緒に思い出そう、小夜子ちゃん」

 だからといって、じゃあどうやって思い出せばいいのか、その方法をあたしは知らない。けれど、確かなことはある。小夜子ちゃんはあのお葬式のときまで、忘れたこと自体も忘れていたのだそうだ。あたしは、自分が何かを忘れたと自覚があった。その差異はけっこう重要だと思う。ふたりがかりならば、きっと思い出せる。
 八月に入ってすぐ、小学校からの同級生何人かに連絡をとったあたしは、忘れごとの神さまに願った忘れごとを思い出す方法が存在すると聞きつけた。あたしは小夜子ちゃんをコンビニへ呼び出した。晴れた夜のもと、駐車場の端っこで、あたしは自分が得た情報を、小夜子ちゃんへ伝えた。小夜子ちゃんは訝しげに首を傾げた。
「繰り返す?」
 うん、とあたしは大きく頷いた。記憶を取り戻せる。期待で胸がいっぱいになっていた。
「そう。覚えているところから、神社に行くまでの行動を繰り返すんだって。できるだけ長く、忠実に」
 何かふと忘れたときに、行動をなぞったら思い出すことは多いから、理に適っている気がする。小夜子ちゃんも同じように思ったみたいで、けれど不安そうだった。
「覚えているところから……?」
「あたし、前の晩、夏祭りに行ったの。そこからだったら繰り返せると思う」
「あ、そっか。お祭りの夜……。なら、分かるかも」
「小夜子ちゃんも行ったの?」
「うん。慶が……」
 慶くんの名前を聞くと、あたしの胸は締め付けられて軋んだ。小夜子ちゃんも泣き出しそうな顔をしてる。
「慶が、りんご飴食べたいとか、焼きそば食べたいとか、そんなことばっかり言って」
「うん、うん」
「花火はどこでやるんだろうって慶と一緒に、石段を上がって……」
 小夜子ちゃんが震えながらも耐えるから、あたしも、こみ上げてきたものをぐっと飲み込んだ。
「あたしも。友達と行って、花火見たよ」
 小夜子ちゃんはふと表情を曇らせた。
「なら……それを繰り返さないとってことは、来年のお祭りまで待たなくちゃいけないんじゃないのかな」
 そう言われると、あたしも不安になった。例えば夏祭りを忠実に繰り返さず忘れごとの神さまへお参りをしたら、思い出すどころか、また記憶を喪失してしまう可能性がある。あたしはその思考を必死に振り払う。
「怖くったって、試してみなきゃ、来年まで何も思い出せないままだよ!」
「でも、マミちゃん、わたし、もっと忘れるのは怖いよ。どうして忘れたんだろう。すごくすごく大切なことだった気がするの。もしふたりして、忘れたことさえ忘れてしまったら、もうどうしようもできない。他に方法を探そう。わたし、頑張って思い出せるようにするから」
「あっ」
 引きとめようと手をあげるまでの僅かの間に、小夜子ちゃんは駆け出して、数メートル先にいた。姉弟揃って、風のように速い。慶くんが眼前でトラックに轢かれた瞬間と重なって、あたしは一歩も動けなかった。慶くんが亡くなったのはあたしの所為だ。あのとき引き止めなければ、慶くんはあの場所に立ち止まらなかった。あたしは、自分が声をかけた所為で慶くんが轢かれたことを、誰にも明かしていなかった。誰にもいえない。いえるはずがない。
 走っていく小夜子ちゃんの背中を見つめながら、あたしは合点がいった。忘れたことを思い出す方法があったら教えて欲しいといっていた慶くんは、小夜子ちゃんの忘れた何かを思い出させたかったんだ。

 二十時前。あたしは神社に居た。夏祭りがあったほう。勿論、今夜はお祭りはやっておらず、暗くなった境内には、浴衣姿のあたし以外誰もいない。誰もいなくてほんとうに良かった。どうしてあたし、お祭りのときに浴衣なんて着ちゃったんだろ。ここまでしなくてもいいのかもしれないとも過ぎったけれど、できるだけ忠実に再現しようと思ったら着るしかない。連日熱帯夜なのに、神社は妙に涼しかった。まだ日が沈んだばかりで残照だけでも動き回ることができる明るさ。通りのほうの出店で止まった位置を思い出しながら、立ち止まって一息つき、それから石段をあがって境内まで来た。この辺りは店は少なくて、裏手からあがる花火を見るために場所を確保しようとうろうろしたはず。
「そういえば。トイレ行ったんだっけ」
 あたしは友達に声をかけ、ひとり、人ごみを掻き分けて、石段を下り、通りの外れの簡易トイレの列の最後尾に並んだんだった。あたしはトイレが設置されていた所に行く。その場はいまは駐輪場だから用を足すことはできないけれど、用は足したものとして、また神社へ。石段を上って、誰もいない境内で、あのときの友達を見つけ出そうとした。
「あ……」
 あたしは口元に手を当て、じっと考え込んだ。あたし、小夜子ちゃんと慶くんがお祭りにいたの、見た。
「なんで、忘れてたんだろ」
 そんなの、忘れごとの神さまの仕業に決まっている。そうか。あたしが忘れたかった記憶は、この地点から始まっているのだ。と同時に、嫌なことに気づいてしまった。慶くんは小夜子ちゃんの記憶は思い出させたくて、亡くなる直前、頑張るって宣言したけれど、あたしに対しては何も頑張らなかった。ほんとうに忘れたのかと何度か確かめただけだった。それは、あたしには思い出して欲しくなかったってことだ。だから、あたしが忘れたのは、ふたりに関して、この夏祭りの夜に見た「何か」……。薄暗い境内、あたしはただ立ち尽くしていた。

 翌日の午後はあの日と同じ快晴で、石段には、夏色のまだら模様が描かれていた。鳥居をくぐって、真っ直ぐ。クマゼミの大合唱を全身に浴びながら、石段の中腹で立ち止まる。あたしは思い出しながら顔を上げた。三段上に慶くん、五段上に小夜子ちゃん。願いは叶った。けれど、叶わなかった。忘れごとの神さまは、どういう采配なのか、対象を選んでいるらしい。誰かが上ってくる静かな気配を背中で感じ、あたしは振り返った。
「あたし、小夜子ちゃんのことが大好きだったの」
 石段の下のほう、無表情の小夜子ちゃんが立ち止まり、あたしを見上げた。大好きなお姉さん。自分のお姉さんだったらって、どんなに思ったことだろう。慶くんが心底羨ましかった。慶くんと引っ付いてれば小夜子ちゃんとも遊べるから、いつもそうしてた。
「あたし、自分が忘れたかったんじゃなかったんだ。小夜子ちゃんと慶くんに、忘れさせたかった」
「何を?」
「ふたりがキスしてたこと」
 花火のとき、あたしの視線はふたりを追っていた。ちょっと離れたところ、木の陰で、慶くんが小夜子ちゃんの頬に手を添えて屈んだところまで、いまとなってはどうして忘れてたのか不思議なくらい、鮮明に思い出された。慶くんはそのあと告白してた。駄目だよ、そんなのいけない、とあたしはふたりに割って入りたかったけれど、動けなかった。
 翌日、あたしは忘れごとの神さまに祈願するべく、ふたりを誘った。無邪気を装い、てきとうな言い訳を見繕って。そんな浅ましいあたしはまんまと、ふたりの恋の前に敗れたってわけだ。自分が見た姉弟の恋愛という大事件を、忘れてしまった。だけど、小夜子ちゃんもまた忘れたのだ。石段を上がりながら、小夜子ちゃんは微笑んだ。
「思い出す方法って、大雑把でいいんだね。マミちゃんったら浴衣姿にまでなっちゃって」
「……見てたの?」
「ちらっと。わたしも、昨日の晩から辿ってみたから。上手く思い出せなかったし、忠実になんてできなかったけれど。慶もいなくて」
 忠実になんてできっこない。夏祭りもやっていないし、トイレで用を足してもない。友達もいなかったし、花火もあがってない。それでも自分自身だけで済ませられることはやっておいたあたしと違い、小夜子ちゃんは当事者として、忘れている記憶に沿わなければならないのだからとても大変だろう。キスをしてくる相手はいなくなってしまい、その記憶自体も葬り去られた。
 小夜子ちゃんはいつの間にかあたしの隣に立っていた。見上げる形になる小夜子ちゃんの口元に浮かべられた微笑みが、底知れないものを感じさせて鳥肌が立つ。身を引いたあたしに、小夜子ちゃんは一歩踏み込んだ。
「慶が好きだったの」
「姉弟なのに?」
「言い訳かもしれないけれど……わたしはお父さんの連れ子で、慶はお母さんの連れ子だったから、血は繋がってないの。ほんの小さな頃だったから、マミちゃんは知らなかっただろうね」
「ぜんぜん知らなかった……」
 小夜子ちゃんはほのかに微笑み、虚ろな視線を泳がせ、俯いた。
「慶、死んじゃった。こんな、これからってときに、先に死ぬなんてひどい」
 あたしは後悔に打ちひしがれ、贖罪を口にする。
「あたしが悪いの……。慶くん、事故に遭う直前まで、小夜子ちゃんの記憶、取り戻したがってた……」
 小夜子ちゃんが、顔を上げた。ギッと睨み据えられたあたしは、竦みあがった。見たこともないような恐ろしい鬼の形相。限界まで見開かれた瞳が異様なほど血走っている。戦慄して縫いつけられたように動けないあたしに、小夜子ちゃんは低い声で宣告した。
「慶が言ってた。ほんの少しだけ意識が戻った時。……マミの前で、立ち止まらなかったら、って」
 あたしは凍り付いて動けない。小夜子ちゃんの真っ白い腕があたしの首へ伸びた。冷たい指が鎖骨に触れて、息を呑む。ぞっとするほど冷たかった。まるで氷のようだ。
「やめて!」
 無我夢中で振り払った。あっと気づいたときには、小夜子ちゃんは重力に任せて、石段を転げ落ちていた。手を伸ばしたけれどかなわず、物みたいにどんどん転がっていって、鈍い音はやがて、ぴたりとやんだ。小夜子ちゃんは石段のいちばん下のところで仰向けに横たわり、虚空を眺めていた。あたしは石段を駆け下る。
「さ、小夜子ちゃん! 小夜子ちゃん!」
 石畳には、どこかから溢れた血が広がりつつあった。怖くて怖くて、触れもできず、あたしは動かない小夜子ちゃんの傍らに座り込んで歯の根をがたがた震わせながら、名前を呼び続けた。小夜子ちゃんは半開きの瞼のなかの濁った瞳で、宙に何かを探していた。焦点が合わないようだった。薄く開いた唇の端から泡を含んだ血が噴き出して、垂れていく。
「マミ、ちゃん。わたしと慶のこと、忘れて。お願い。わたしも、忘れて、あげ、る、から」
 あたしは必死になってこくこく頷いた。血が止まらない。
「分かった。分かったよ。忘れる。ぜったい忘れるから。待ってて、誰か呼んでくる!」
 あたしは立ち上がって、小夜子ちゃんの名をうわ言のように口の中で繰り返しながら、神社の鳥居をくぐり、通りへ飛び出した。そこに、巡回中のパトカーが通り掛かった。髪を振り乱して鬼気迫る様子のあたしに、助手席から降りた婦人警官が近づいてきた。
「どうしました」
 あたしは顔を上げた。なんだろう、願いが叶ったような、そんな気がしていた。凄く慌てていたみたいで、急に恥ずかしくなる。どこで擦ったのか膝に血がついていた。あたしは取り繕うように笑った。
「どうしたんでしょう……」
 何か、忘れたような……。<了>

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