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自分のために書けと友は言う

先日、最近仲良くなった女友達の家に遊びにいった。泊りだったので、夜から銭湯に連れだって行くことに。行きはわずかな小雨だったが、帰りは見事などしゃぶりだった。ビーサンの隙間に雨の水が入り込む。Tシャツが湿り気を帯びる。それは銭湯にいってきたという事実を無に帰すようなことだったが、なぜだか生きているという感覚がしたので、それだけで充分だった。

女友達との会合は気楽でよい。ままならない仕事のこと恋愛のこと、内心を思う存分ぶちまけて明るく笑い飛ばす。帰り道を二人で歩きながらこの後のセックスの有無を考えなくてもよいだけで自由を感じた。次もまた会えるという感覚が共有されていることも。男の子とのデートの時には失敗したら次はないと無意識に気を遣っていた自分がいたことに気が付く。

彼女は写真家で仕事の隙間を縫って精力的に作品制作を行っている。彼女の前で「写真で食えるのか」と尋ねるのは愚問だ。彼女にとって生きることと写真を撮ることは等しい。それは宿命めいたもので、そこに幼い理由を受け付ける余地は一切ない。皆がみんな食えるようになりたいから有名になりたいから表現活動を続けてるわけではない。表現することと呼吸することは一体で、むしろ表現活動を続けるために食い扶持を探す人種がいることを知った。

かくいう私も同じ人種なのかもしれない。ホームレス支援・シェアハウス運営という銭にはならない仕事に執着しているのも、それらの現場が感情を揺り動かす機会が多いからであって、結局のところ私は仕事での経験を通じて揺さぶられた想いを書きたいのだ。内面をできるだけ純度の高いかたちで吐露したい。書くことと生きることは私にとってもずっと同列だった。

彼女の創作意欲に刺激されるようにして、私もZINEをつくることになった。これまで書いた数々の文章を選んで編集する作業は楽しい。どこに発表するわけでもなく、ただただ書き溜めていた文章たちがはじめて報われるような気がした。写真家が写真集を出すように、音楽家がアルバムを出すように、文筆家はどうやらZINEを出すのが良いらしい。

誰のために書くのか。何のために書くのか。油断していると身も蓋もない問いの前に筆が止まってしまうこともある。しかし、そんな時は「自分のために書けばいい」と写真家の友人が背中で示してくれる。

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