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今日ときめいた言葉40ー「理解するために大切なのは、答えにたどり着かず、常に問い続けることだ」

そして、以下のように続くー

言い換えれば、自分の思考や眼差しの方向性を完全に信頼しないことなのだ。自分に寄り添いすぎず、少し距離を置いて見つめること。この過程で浮かんでくる像こそが理解の形であり、やがては記憶として自らに刻み込まれることになる」

(2023年4月21日付 朝日新聞 寄稿「記憶を刻んでゆくこと」作家 石沢麻依氏の言葉から)

石沢氏は、戦争や災害など遠ざかる出来事に対する私たちの理解と記憶について語っている。戦争や自然災害といった過去の出来事は、時間の経過とともに平面的に受け止められるようになり、いつしか記憶からすり抜けてしまう、と。

だが歴史的な碑や遺構、出来事を語る生身の声といったものにより、私たちはその事をより立体的に受け止め、記憶に留まらせることができる。だから出来事をより身近なものとして共感し記憶するために、それらのものは必要である。

だが共感というものは、一過性のもので時間がたつと平面的なものになる。共感は消費されやすいものだからだ。いくら「忘れない」と思っても、日常でより強い感情をもたらすものに出会うたびに、更新され背後に追いやられ忘れてしまう。

そうやって、自分の身近なものにだけ目を向け、耳を傾けているうちに、分かりやすい物語や言説に取り込まれて、戦争のプロパガンダや差別を正当化する言い回しに惑わされてしまったりする。だが、そんな自分と物事の距離は自分で調整することができるという。その際大切なのは、「理解する姿勢だ」と。

ここからは、ちょっと長いが石沢氏の言葉を引用したい。

「全体像の把握のために情報を集め、事実と信頼できるものを選び出し、それを思考の起点として生まれるのが、理解というものではないだろうか。当然ながら、それには時間がかかる。すぐに結論にたどり着き、「分かった」と満足感を得ることが目的ではないからだ。つまり、理解するために大切なのは、答えにたどり着かず、常に問い続けることなのだろう。

言い換えれば、自分の思考や眼差しの方向性を完全に信頼しないことなのだ。自分に寄り添いすぎず、少し距離を置いてみつめること。この過程で浮かんでくる像こそが理解の形であり、やがては記憶として自らに刻み込まれることになる。

既製品のような言説で満足せず、自分の足で土地を歩いて見回し、誰かの声に耳を傾け、読書や調査など独自の方法で、物事に対する視点を築き上げること、それこそが「記憶すること」なのである

そのように時間をかけて出来上がったものは、簡単に壊れはしない。そして、新たに何かを得る度に形を変えつつも、深く根付き育まれることになる。

別な言い方をすれば、記憶するという行為は、簡単に消化しかねないものを引き留めることなのかもしれない。共感には物事を噛み砕き、消化を促す作用がある。意図的に消化不良を起こせば、内に留まるものに目を向けるきっかけとなるだろう。その時、一過性のものではない、理解に依る感情も生まれてくるに違いない」

急がば回れ、急いては事を仕損じる、ローマは一日にして成らずetc.

「歴史的な出来事」は、一言では言い尽くせない多様な要素を内包しているのだということを心に留めたい。見る角度や立場によって見え方が大いに異なるからだ。だからいまだに、歴史が塗り替えられ続けているのだろう。「分かった」とそこで思考を停止してしまうことは危険である。それは言い古された言説を安易に信じてしまうことにもつながる。居心地が悪くても、「いまだ理解していない」との思いを持ち続けることが大切なのだろう。

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