開放のあとで 九通目 α

2020年8月17日

水底 燕さんへ

 まずは皆さんに謝罪しなければなりません。僕は本来この書簡を8月8日を目処に掲載していなければいけませんでした。それにも関わらず、書簡掲載が9日後の今になってしまったことを深くお詫びさせていただきたいと思います。ここ数日、心身の体調があまり良くなく、さらにサークル活動が漸次的に開放される中でサークルでの仕事も若干増え、あまり他に気配りができない状態になっていました。心身の不良についてはかなりマシになってきたので、このように執筆をしている次第であります。とにかくご迷惑おかけしてしまい、大変申し訳ないです。

 と、長々と謝罪をしたところで退屈するだけでしょうから本題に入りたいと思います。歌猫さんの書簡で書かれている「差別者への差別」という問題とそこから水底さんが展開している議論の内容は興味深かったです。僕自身として思うのはまず、前提として「どんなことがあれ、その人物自身の『人格』は否定されてはならない」ということです。そもそも「人格」というもの自体の虚構性という問題も勿論なのですが、ここでは個人の尊厳への否定という意味での人格否定というものを用いたいと思います。実際、他人の人格を否定する際、個人の尊厳は一切ないがしろにされているように感じます。ナイナイ岡村の発言に対し、ナイナイ矢部はラジオで公開説教を行いました。その際、人格を否定する言葉も多用されていたと思います。確かに岡村の発言には擁護の余地はありません。しかし、だからといって人格自体を否定される筋合いはないと思います。思考や気遣いなど変えていくべき部分は多くあるにしろ彼が彼であることは、否定されてはならないのです。しかし、「差別者への差別」という問題を考えるとき、注意をしなければいけないのはこの「逆差別」という言葉がマイノリティを沈黙させる言葉として機能しうるということです。そもそも個人の意思や思想に関わらず現在の社会においては、所属集団や性質によって権力/権利の分配に偏りがあります。つまり女性よりも男性の方により権力/権利が分配されており、マイノリティよりもマジョリティに権力が分配されています。そのため、この不当な権力/権利の分配に対して、異議を唱えるのは当然のことです。それに対して権力のある側の人間が「逆差別だ」などと発言してしまえば、もともと権力の関係に偏りがあるために、不当な扱いを受けている人間は沈黙を強いられてしまいます。そもそも、フェミニズムや様々なマイノリティの運動が唱えているのはこの不当な扱い(構造)の是正であって、男性やマジョリティそのものへの攻撃ではないのです。にも関わらず、例えばフェミニズムにおいてはインセルと呼ばれるミソジニー集団によって、「ミサンドリー(男性嫌悪)」と類されるなどし、男性への攻撃をしていると勝手に変換され、攻撃されます。よくオタクとフェミニストがツイッターで揉めていますが、大抵は話が噛み合っていません。それはなぜかといえば、このようなオタクたちの大半はそもそもフェミニストたちが何を問題にしているのかを理解できていません。だから単に自分たちの好きなものが攻撃されたということに対して怒りを示し「表現の自由」を持ち出すわけですが、問題はそこではないのです。ここでこの問題について書くと長くなるのであまり深堀はしないのですが、オタクは「〜していい/〜しちゃダメ」というような自由と道徳の問題として、問題をずらし、自由を主張するわけですが、フェミニストたちが問題にしているのは問題は公共性や背後にある搾取構造などであって、全く話が噛み合っていないわけです。この、「〜していい/〜しちゃダメ」という道徳と自由の問題への置き換えというのは個人的にはかなり重要な問題だと思っています。例えば、少し前に野田洋次郎の優生思想ツイートが問題になりましたが、そこで散見されたのは「そのようなことは言ってはいけない」というものでした。「言ってはいけない」というのは純粋に道徳的な問題です。しかし、優生思想は単に道徳的な問題なのでしょうか?そもそも優生とは、優劣とはなんでしょうか?古代ギリシアでは女性は男性よりも劣っているとされていました。20世紀では優生保護法などによって多くの人が強制不妊させられました。しかし、その優劣を分かつ根拠というのは一体何なのでしょうか?そのようなものは特定のイデオロギーによって定められた産物でしかありません。だからこそ、常に再定義されてしまうような不安定なものなのです。ホロコーストもこのような再定義の産物です。だからこそ、優生思想は単なる道徳的な問題ではないのです。そもそも道徳と呼ばれるものも一つのイデオロギー的な産物であるため、道徳的な問題に期してしまうのは危険です。戦時中戦争強力しない人間は道徳的に糾弾されました。しかし、戦後戦争強力した人間は道徳的に糾弾されるのです。そのようなものです。だからこそ、差別や優生思想などの問題に対して道徳的に立ち向かうのではなく、その本質的な問題に目を向けなければならないのです。「優生思想的な発言はしてはいけない」というような道徳的な問題だけだと、その発言が前提にするような優劣がそもそも存在するかのように扱いかねません。差異と優劣は違います。差異があったからと言って、優劣があるわけではないのです。優劣が生まれるのはあるイデオロギーによる尺度が導入されたあとであって、本来的に優劣があるわけではありません。優劣なんてものは恣意的なものです。だから、単に道徳的な問題として立ち向かうのではなく、相手する問題に根本的な欠陥を見つけなければなりません。勿論、「〜してはいけない」というような発言をしている方々もそれをわかった上で、道徳的に引き受けて批判をしているのでしょうし、そのような発言をなさる方の威厳を失墜させようという意図があるわけではありません。重要なのは優生思想や差別へ反対する主張がそもそも本来的に「〜してはいけない」というような道徳的な主張をしているのではなく、根本的な解決へ向けての主張であるということです。フェミニストが男女の不平等を述べるとき、「男だって辛いんだ」というような主張をする男性がいます。しかし、その辛さのもとはフェミニズムではありません。その辛さはホモソーシャル構造であり「男性性」の呪詛です。だから、「男だって辛いんだ」という人はフェミニズムを支持すればいいのです。男性が経済力で判断される社会を辞めたいならば、女性も男性と同じ割合で同じ確率で、経済力を得られる社会を作ればいいわけです。しかし、何故か敵をフェミニストであると誤ってしまう人が実に多いわけです。これは、男性性の呪詛による抑圧の中で、フェミニストの主張を「道徳的な問題」に帰して解釈してしまうために抑圧的に感じるからです。しかし、先に述べたように「道徳的な問題」と考えるのは誤りであって、フェミニズムの敵は女性性や男性性、そして不当な権力構造です。そのため目的は抑圧ではなく開放なのであって男性にとってもそのように捉えられるもののはずなのです。
と、若干話がずれてしまったように思いますが、以上から僕の「差別者への差別」、または「逆差別」への見解は表明できたかなと思います。つまり、このような「逆差別」などを盾とする人間たちは反差別やフェミニズムなどの主張を道徳的な問題に置き換えてしまうことによって抑圧と捉えて攻撃するということです。そもそも権力/権利の分配はある種出生のロシアンルーレット的な物でしかなく、運ゲーです。そのため、偶然権利を多く与えられた人間が、より少なく与えられた人間を考慮しないというのはかなり身勝手に感じます。同時に「優劣」という考えがこのロシアンルーレットを隠蔽してしまうのです。現代社会においては、人間同士のコミュニケーションに権力の関係が発生してしまう場合が多いです。状況によっては誰しもが権力を持ってしまうのです。そのような権力という暴力を意識的にならなければ、わざとであれわざとでないのであれ、権力(暴力)を行使してしまいかねません。だからこそ、自分たちに分配された暴力に敏感になり、苦しみながらもその力を否定する必要があるのです。以上が僕の考えになります。とはいえ、僕はこのようなことを堂々と語るほど褒められた人間ではありません。人を傷つける発言もしてしまう時はあるし、自らの加虐性を行使してしまう時はあります。なにか「やってしまった」というときは常に反省しつつ、その取り返せなさに嘆いています。そのため、僕がこのようなことを語ることは常にアポリアを孕んでいると思います。でも、僕は積極的にそのアポリアを引き受け、自らと対峙したいと思います。人が差別などを語るとき、常に自らとも敵対しなければならないアポリアがあると思います。そして、文章を書くということは常にこのアポリアを引き受けることだと僕は思っています。ということで、差別についての話は、このへんで切り上げたいと思います。雑然としてしまい申し訳ありません。何度も言いますが僕は全く褒められた人間ではありません。僕の文章で偏見を感じたり、誤っていると思う箇所があればコメント等で遠慮なくお願いします。

 さて、水底さんからは大学生の生活も大切だというハッシュタグの不満の不明瞭な宛先と、漠然とした不安についてどのように思うかという質問でした。まず、思うのは会社や小中高が漸次的に脱オンラインが始まっている中で大学だけがオンラインであり続けるということに対する不満です。これは、状況が問題というよりも、そもそも日本において大学が会社や小中高よりも重要には見られていないというのが根本にあるのが問題だと思います。つまり、ある種の「不要不急」のモラトリアムとして大学が考えられているということです。そのため会社や小中高ほどのリスクを引き受けてまで脱オンライン化することができないのです。また、両者が「置き換え可能である」ということが、両者が同格であるということを示すのではないということを今の社会は考慮していないように思います。つまりリモートでできることはリモートで、という中で「リモートでできる」ということによって、失うものは度外視されているということです。これには東浩紀も言及していたと思います。
最後に漠然とした不安についてですが、これは僕も感じますね。焦りというか、喪失感というか、何かよくわからない大きなものへの不安と不満があります。これについて今はあまり語る言葉を持っていないのですが、歌猫さんの言うように、僕らは本当に開放されたのか?という問題があるとも思います。カフカの有名な挿話「掟の門」のように、我々の目の前に開かれているのにも関わらず入ることのできない門、少し恣意的かもしれませんが、我々の現状はそのようなものでしょうか。

次の古谷さんには気楽に夏休みのお話など近況をお尋ねしたいです。自由に書いていただけると嬉しいです(丸投げ?)。

ではまた。

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