生存書簡 十二通目

2020年2月26日

松原礼時さんへ

 最近は新型コロナウィルスの感染拡大で、日本も大変なことになってきましたね。うちの大学でも、感染対策のためにサークル活動が停止、延期になってしまいました。活動停止には登山も対象となるらしく、最近は登山、読書、バイトのループだった春休みから登山が抜け落ちてしまい、読書三昧が予想されます。3月頭に文科省国立登山研修所に行く予定だったので、その課題等でここ数日忙しかったのですが、それもコロナの影響で中止になってしまったので残念です。僕にとって山を登ることはロブ=グリエ的な意識と中井正一的な実存のあり方に没入できる体験であるので、いつかは小説として消化させたいと思っています。言語の問題と登山を織り交ぜた小説の草稿は練ってあるのですが、いつ形に出来るかはわかりません。近況報告はこのあたりにして、返答に移りたいと思います。
 サドの言語的なツッコミと伊藤・樋口のSF的なボケ。面白いですね。そもそも小説と批評との関係はボケとツッコミの関係に似ていますよね。ツッコミというのは、ボケの発話に対してある種の解釈を施すことによってボケの面白さを伝える。だからこそツッコミ次第でボケの面白さは変わってくるし、ぺこぱみたいにそれ自体ではつまらないボケも面白くなる。それに一つのボケにも様々な解釈がある。これはまさに小説と批評の関係ですね。そして、優れた小説、批評は常にそれ単体で多少なりともボケとツッコミ(小説的ユーモアと批評性)を併せ持った漫才になっていると思います。サドの小説においても思想と言語の問題(ボケとツッコミ)は内包されていますし、樋口さんの小説『構造素子』は僕はまだ買ったまま読めていないのですが、少し読んだ感じかなりかなりの漫才担っていると思います。
 そういえば、一昨日鹿野祐嗣先生の『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』を購入したのですが、1ページ目にはおよそこんなことが書いてありました。いま手元に本がないので要約になってしまうのですが、「一つの哲学書が解釈を生み出すようにそれに注釈をつける行いもまた賽子の1振りとなる」と(うろ覚えなので後で修正します)。これを読んで、哲学や批評とはツッコミに潜むボケに対し新たな可能性を開くツッコミの連続の歴史なのではないかと思いました。
僕が書いた前衛アンソロジー第二弾「解体する文学」の序文『文学の輪廻 解体する文学の宣言』は一つのボケとして寄稿者たちに受け取られてほしいと思って書きました。寄稿者の皆さんが僕のボケに対して多彩な角度からツッコミとして、そして新たなボケとして小説を生み出してほしいと思っています。次の前衛アンソロジーにはそのような秘密の一貫性が潜んでいます。前衛アンソロジー、楽しみですね。僕たちで最高の漫才を作れれば良いですね。
 ということで今回は以上です。お返事待ってます。

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