文学の輪廻 解体する文学の宣言

✳︎この文章は秋の文フリで販売予定の『前衛アンソロジー2 解体する文学』の序文になる予定です。

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
                        夢野久作『ドグラ・マグラ』
生命を構成している三元素は、もともと他の個体の破壊から生じたものではないだろうか。もしすべての個体が不滅だとしたら、自然が新たな個体を作り出すことは不可能ではないだろうか。
                      マルキ・ド・サド『閨房の哲学』
作用するものはすべて残酷である。
                  アントナン・アルトー『演劇とその分身』

 現代には見せかけのクリエイティビティが蔓延している。つまり、根底の維持を基盤とした前進(=クリエイティビティ)が創造的なものとして賞賛されているのである。しかし、そのようなものは全くもって創造的なものではない。そのような見せかけのクリエイティビティはわれわれを未知の領域に連れていくことはなく、ただ既知の領域を引き伸ばし、拡大させるのみである。では、真のクリエイティビティとはどのようなものなのか。そう難しく考えることではない。答えはずっと簡単だ。真のクリエイティビティ(私はこいつを殺人犯と呼ぶのだが)は日常に溢れている。真のクリエイティビティ=殺人犯は、町中、いや世界中の至る所で殺人事件を引き起こしている。その犯罪は日常に溢れ過ぎて誰も気づかないほど巧妙に行われていると言ってもいい。知らないだろうが、君だって、気づかないうちに何度も殺されているんだ。わかるかい? つまり、あらゆるものはアルトーの言うような意味で残酷なものなのだから、われわれは常にあらゆるものに引き裂かれ、殺害されていると言っても過言ではないということだ。確かにこの殺人事件では、一切の血は流れないし、殺された側も気づかない。しかしわれわれは引き裂かれ、解体され、焼き尽くされている。完全犯罪なのだ。犯人は誰だ? あらゆるものだ。あらゆるものはしるしとして現れ、われわれを引き裂く。石ころでさえ、私を恐怖させる。道端で、小さな石ころを見つける。私はなぜかこの石ころが私を睨んできているような感覚を覚える。恐怖を覚える。なぜだ。恐ろしい。その時、あの音が鳴り響く。「ブウウーーンンン」ハテ、私は誰だったか。思い出せないので、テキトウに幸村燕とでも名乗ろうか。良かった、コレで私は幸村燕だ、安心して私を一つの主体として保つことができる。このように、われわれは名前というものの力によって、ドグラ・マグラに陥るのを回避している。既に川の流れに巻き込まれているわれわれにとって縋れる藁は名前しかない。これが常に分離しそうになるわれわれを束ねている。常に殺害され、差異を伴い、反復しているわれわれに一貫性を与えているのは名前なのだ。そして、この束を解き放つこと、それこそが真のクリエイティビティである。つまり最も創造的なものとは最も破壊的なものなのである。われわれは常に殺され、破壊されているにも関わらず、そのような破壊は覆い隠されている。このような状態では、真に創造的なものが生まれるはずはない。真に創造的なものを生み出すには、まず破壊から始めなくてはならないのである。だからこそわれわれはこの偉大なる真の殺人事件を加速させ、拡大させ、可視化させる。そのために最も明確で、決定的な事件現場としての文学を打ち立てるのである。文学空間においては至る所でこの殺人事件は起こっている。殺人犯は常に曲がり角で待ち構えており、読者は角を曲がるたびに惨殺されているのである。文学において、死んでいるのは作者かもしれないが、殺されているのは読者の方なのである。いや殺されている、は適切ではない。読者は常に殺され続けているのだ。そのことを理解すれば、もはや文学は安全なものではない。読書とは目隠しで綱渡りをするような危険な行為なのだ。読者は常に未知の危機に怯え、不安に駆られる。さらに読者は本を読み終え、ページを閉じた後、鏡を見てみて恐怖するのだ。「………誰だろう………おれはコンナ人間を知らない………。」読書とはなんと恐ろしい体験なのか。しかし、それでいいのだ。破壊されてこそ、真の創造が始まる。だからこそ、読書は破壊的体験であるとともに創造的な体験であるとも言える。これこそが「解体する文学」だ。つまり読者を「解体する文学」なのだ。私が提示する文学観の中では読者の安全はもはや保障されていない。常に「ブウウーーンンン」と鳴り響く中を進んでいくドグラ・マグラなのである。しかし、「解体する文学」とは単に読者を解体するというだけではない。文学すらも解体するのである。つまり文学において、新しいものを生み出そうとするならばまず文学を破壊しなければならないのであり、真の創造的文学建設の最大の敵は文学なのである。しかし、残念なことに私はなんら「解体する文学」の形式、方針、一貫性を提示することができない。なぜなら、まさにそれらこそが解体されるべきであり、たとえ私がここで形式を示したところで、その形式はさらなる創造性の解体対象になるのみなのである。だからこそ私はなんら「解体する文学」について具体的なことを語ることができない。では、この序文はどのように読まれるべきなのか。ここで私は君たちに一つ理解してもらいたい。この序文はこの文芸誌のそれぞれの小説に一貫性を持たせるための、つまりはそれぞれの小説を束ねるための文章ではない。この序文はこの本における頭ではないのだ。この本においては各部分を束ねる特権的な箇所など存在しない。このアンソロジーは常にお互いに特権性を奪い合うような闘争の空間なのである。だからこそこの序文は最大の被害者となるだろう。つまり、のちに来る文章たちはこの序文をこそ解体する殺人鬼となる。この序文はジュスティーヌだ。何度も拷問され、辱められ、解体される。しかし、これこそが創造的な文学へ近づく道であり、この序文を破壊することによって創造性は生まれるのだ。われわれは差異と反復の連関の中で、文学の差異を、あるいは差異の文学を打ち立てようとするのである。このような差異と反復こそが文学の輪廻であり、文学の輪廻とは形式の輪廻であり、思想の輪廻であり、ディテールの輪廻であり、同時に読者の輪廻なのである。このように無数の輪廻がミクロな輪廻とマクロな輪廻を形成し、それぞれが歯車のように、噛み合ったり噛み合わなかったりすることで、文学は差異と反復の輪廻の中へ突き進んでいくのである。差異の文学、残酷な文学、「解体する文学」、それらは自らを解体ながら、読者を解体しにかかるだろう。
「解体する文学」は今、解体する。

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