生存書簡 二通目

2019年12月7日

Takuさん、松原さんへ

 こんにちは。朝。夜勤終わりのまどろみの中、僕はこの手紙を書いています。机の上には大量の本が平積みにされていますが、手元には創作手帳と先日購入したフィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』、チャールズ・L・ハーネス『パラドックス・メン』の二冊とさらには来週読書会で使うアルトーの『演劇とその分身』があります。あとは机のいたるところにソレルスの読みかけの著書たちが放置されていること以外には特筆すべきことはありません。列挙や捲したてるような語りによってある種の速さを感じさせる語り手の『素晴らしいアメリカ野球』とワイドスクリーン・バロックと冠せられた『パラドックス・メン』どちらもまだ序盤までしか読んでいませんがとても面白そうです。

 松原さんからのご質問にお答えする前に、軽く近況報告させていただきたいと思います。先日、環原望さんとお話する機会があり、ドゥルーズやスピノザ、ソレルスからアルトーまでの様々な話題で盛り上がりました。その中で、僕の小説「螺旋状の瞳」についても感想、ご指摘をいただきました。何個か挙げてくださったのですが、その中の一つに「螺旋状の瞳は映画的な視点でありながら否定形を使うことで映画では再現できない小説固有なものを書いている」というような指摘がありました。僕自身は自分の作品についてそのような視点から考えたことがなかったので(そもそも『螺旋状の瞳』をどう読むのが正解だとか、明確な主張を持っていなかったので)驚きつつ、納得してしまいました。やはり作品は作者の手から離れていくものですね。『螺旋状の瞳』が単に僕の書いた作品というのではなく一つの〈他者〉となってくれたことに嬉しく思います。人から自分の作品について感想等をいただくのは滅多にないことなので、貴重な経験でした。

 さて、近況報告を終えたところで松原さんの質問について自分なりに回答をしたいと思います。質問は「サルトルの〈アンガージュマン〉をテル・ケル、或いはソレルスがどう捉え、どう乗り越えようとしたか」ということでしたね。正直この質問はかなり難しいところで、実際ソレルスがサルトルに言及している箇所を僕は読んだ事がありません(存在するのかもしれませんが)。しかし、そもそもサルトル的な土俵でテル・ケル或いはソレルスを考えるのは、それ自体が間違いだと僕は思います。ここで僕の机の辞書棚からモーリス・ナドーの『現代フランス小説史』(みすず書房)を取り出してテル・ケルの欄を開いてみました。そこには以下のような事が書いています。二箇所引用しますが、内容の関係で前後します。ご容赦ください。

 ”彼らは世界を、人間を、あるいは人生を変えようというどのような意志ももっていない。彼らの原動力をなすもの、それは、あるがままの《世界を欲すること》、換言すれば《世界を表現すること》なのである。”【モーリス・ナドー『現代フランス小説史』(訳・篠田浩一郎)1966,みすず書房,203ページより引用】

”断乎として《文学的》であるため、「テル・ケル」ははじめから、作家にとってもっとも重要であるもの、書くという行為に力点を置き、はじめは手探りでおずおずとしたものであっても、エクリチュールの幸運と不運、エクリチュールのもろもろの可能性と力の研究に突進する。”【同書 203ページより引用】

 このようなテル・ケルの定義には疑う余地は大量に残されていると思いますが、重要なのはテル・ケルが世界や人間、人生を変えるというような政治的な意志を直接的にはもっていない、或いは結果的にそうなるとしても志向しているわけではないということです。その点でまず彼らはサルトルたちの考え方とは全く異なっていると考えられます。では彼らは何を目指しているのかといえばただ「あるがままの世界を欲する」ことです。しかし、これが全くもって単純ではありません。なぜなら言語で世界を写すことの不可能性や言語の限界、言語の有限性についてはテル・ケル以前の作家たちによって何度も露呈されてきたところであるからです。では、彼らはどのようにしてこのような不可能性を避けえるのでしょうか。彼らは言語の法の抜け穴をたった一つ見出します。それが「書く行為を書く」ということです。この奇妙に捻れた回答は一見議論を逆行させている、或いは問題の放棄をしているというような印象を与えるかもしれません。しかし、そんなことはありません。「書く行為を書く」ということは明確に彼らの志向する「あるがままの世界を欲する」という点とつながります。これに関しては詳しく説明するため、一度遠回りして論じていきたいとおもます。なお、現状の日本ではテル・ケルの中心作家たちの著書はソレルス、クリステヴァぐらいしか読める環境ではなく、安易にテル・ケルを固定化しかねないので、ここからは「テル・ケルは」を「ソレルスは」に置き換えて話していきたいと思います。

 話をかなり遠回りにして進めたいと思います。まず、先ほどのサルトルとも関連することなのですが、教科書的にはフランス現代思想の大きな流れとしては実存主義→構造主義→ポスト構造主義というようなものがあるとされています。今回は哲学が問題になっているわけではないので、この構図に異議申し立てするのは控え、便宜的に受け入れて考えたいと思います。そうしたとき、ソレルス(というかこの場合はテル・ケルの方が適切)はどの位置に当たるでしょうか。個人的には、構造主義とは異なっているにも関わらず、明確にその延長上に存在し、それにも関わらずポスト構造主義とは全く別物という認識が一番正しいように思われます。つまり構造主義の亜種のような存在です。なぜそうなるかといえば、構造主義においいては大まかには構造の分析とその中での主体の形成が問題になっており、ポスト構造主義に置いては構造の構造の分析、或いは構造の変革、生成の原理が問題になっているのに対して、ソレルスの中で問題になっているのは構造の中で生成される〈意味〉であり、シニフィアンがシニフィエと結びつく〈瞬間〉であり、シニフィアンとシニフィエが別の結合をする〈作用〉、つまり構造の中で構造を逸脱するものが問題になっているからです。ソレルスやクリステヴァはこのように言葉が意味を作り出す性質を意味形成性(意味生産性)というような語で説明します。彼の作品でもっとも顕著なのは人称です。例えばソレルスの『ドラマ』の中で彼或いはぼくと呼ばれる存在は不安定な表象しかされず、その存在は読み進めるにつれて何度も変化し続けていきます。彼、或いは僕は何者でもなく、そして常に変わり続けていく存在なのです。そもそも彼とぼくが同じ人間なのかも読者には明確には判断がつきません。他にも『ドラマ』の中には「きみ」という「彼女」と呼ばれる人物を指しているのか、読者を指しているのかはっきりしない人称使われます。さらに「きみ」という人称があるにも関わらず「あなた」や「あなたたち」などという言葉、が使われ人称が錯綜します。そのことによって、読むたびに人称が指ししめすものがシフトしていくのです。このような人称のシニフィエ・シフトチェンジを使った語りはソレルスの他の作品で何度も見受けられ、例えば『公園』の表題作では彼と僕は別人のように語られているにも関わらず、一部箇所で彼を書いている文が僕を示していたり、僕の行動を示す文が彼の行動を示していたりとシニフィエのシフトチェンジが行われます。『遊び人の肖像』でも具体的には何者もささないが、何者をもさし示す「彼ら」という人称が語られたりします。以上のようなことからソレルスが人称の問題に意識的なのは一目瞭然でしょう。なぜ彼がこんなにも人称にこだわるのかといえば、それは「人称」というものがそもそもその都度文脈によって意味を生成するものであるからだと思われます。そしてソレルスはこのようなことを他の言葉などにも行おうとします。それによって言語に新たな結びつきを生み出すこと、これはソレルスの小説の目的の一つだと言えるでしょう。

 他にもソレルスが未来形を多用するということも注目に値します。未来形とは現在から未来への変化を伴った言い回しであって常に変化を志向しながら、そこに到達しているわけではありません。これは意味が常に形成されながらも、その意味にとどまることができずにまた別の意味に形成され続ける意味形成性と明確にリンクします。

 ではこのような意味形成が「あるがままの世界を欲する」こととどのように繋がってくるのでしょうか。これに関して重要になってくることは、意味の生成は書かれることによって行われるのではなく、読まれることによって行われるということです。バルトがソレルスの本を読む読者の状態を「肩越しの読者」と呼んでいましたが、その言葉はまさにこの状況を示しています。つまりソレルスの小説では常に書くことが問題になっていると同時に読むことの問題ともなっており、読者と作者の関係が常に空間を伴いながらも、同一地点に存在するかのように読まれるということです。これに最も近い状態は演劇でしょう。この類似をソレルス自身も意識しているからこそ、『ゆるぎなき心』の作中で演劇を練習する女優を何度も出したり、『ドラマ』という演劇を連想させながら、さらにラテン語で「出来事」(意味の形成は常に出来事として起こる)という意味のタイトルをつけ、何度も舞台裏や芝居という言葉を使ったのでしょう。『女たち』の中でソレルスらしき語り手がクリステヴァらしき恋人に「映画をもっと見た方がいい」というように言われ、映画をあまり見ていないことが示唆される場面があります。ソレルスにとって不変の結晶と化した映画ではなく、常に演じられることで意味が形成される演劇の方が重要視されるのは、今までの考えから予想されるところです。朗読が得意と言うソレルスが『H』や『天国』と言う、朗読されることで初めてまともに理解できるような本を書いているのも、やはり読むことの不可欠性だと思います。

 このようにソレルスの小説は読まれることによって意味が形成される装置として機能しており、それによってある種の無限性を担保している。よってソレルスは書く行為を書くことによってある種の無限性を孕ませることで全てを語ることの可能性を切り開いていると言えるでしょう。これが彼なりの屈曲した「あるがままの世界を欲する」ための手段なのだと思います。

 ソレルスについては以上の通りです。わかりにくい説明を長々としてしまい申し訳ありません。ということで、まだまだ話したいことはあるのですが次回に回します。最後にお二人に質問を残して終わりにしたいと思います。

 松原さんへ「最近戯曲へ傾倒していらっしゃるようですが、松原さんは戯曲のどのような点に注目していらっしゃいますか。また、この度ソレルスの話で出てきた演劇という問題についてはどう思われますか?」

Takuさんへ「Takuさんがどのようなものに興味があるかあまり知らないのでお聞かせ願いたいです。バディウの読了ツイートは見ましたが、まだ10代でバディウに手を出しているとは凄いです。もしよろしければバディウについてお話をお聞かせ願いたいです」

 長々と申し訳ありません。 

 幸村 燕

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