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雑記(限界と境界とその外にあるもの)

最近とりとめもなくいろんなことを考えていて。
一見バラバラなことを考えているのだけれど、自分の中では一連の流れの中で考えている感覚があり、どうしても一つの記事にしたくてなんとかまとめてみました(多分あまりまとまってはない)。
ほんとうにただの独り言、短文エッセイ集か何かと思っていただければ幸いです。


理想と現実

今の仕事で、半期に一度必ずやらねばならないのが目標設定だ。
チームリーダーという立場上、目標設定の時期は忙しい。
お客様との間にサービスを提供する上での目標を立て、メンバーの意見を取り入れながらチームとしての目標を立て、部下(メンバー)の目標を本人と話し合い、自分自身の目標を上司と話し合う。

正直目標設定は苦手だ。
私が思い描く目標は、美しい理想の状態で、具体性に欠けるふわっとしたものであることが多い。
目標(理想)と現実の距離が遠すぎて、目標から逆算して行動に落とし込むことがうまくできない。

目標を立てるまではいかなくとも、こうありたい、ここまでできていたいと思う状態は限りなく理想の状態に近い。
理想と現実のギャップが大きいことに無自覚なまま理想を追い求めるから、できていないことばかりに目がいってしまいがちだ。
もっとできることがあるはずなのに、全然できていないと思ってしまう。

限界を受け入れる

今の仕事は、半期ごとの期末期初が忙しい。
今年の上半期~下半期の変わり目は、時間を問わず次々とやってくるWチェックの業務に追われていた。
ルール上、今は他のメンバーにチェックをお願いすることができない。
あまりに量が多いのでいつもよりチェックの質が落ちてしまい、致命的なミスではないものの、普段なら絶対気づくような書き間違いをスルーしてチェックを通してしまったこともあった。

10月中旬には大事な報告のプレゼンが2つ控えていたが、準備どころではなかった。
結局本格的に資料作成に着手したのはプレゼンの前の週で、資料の着手も遅れるわ中身もなかなかまとまらないわで、上司にかなり手伝ってもらってようやく当日に間に合わせることができた。

本来ならば自分でやり遂げるべきことをやりきれず情けない。
これまでの自分なら、そう思って落ち込んでいたに違いない。
しかし今回は、限りある時間の中でできることはやった、これだけの業務量がある中では仕方ない、今の実力の中で充分やったと受け入れられた。
今の自分ではどうにもならないことを限界として受け入れることを、やっと理解できた気がする。

もちろん今の限界に甘んじることなく、その先を追い求めていく姿勢や行動は必要だ。
しかし限界の先を追いかけるには、一度今の限界を受け入れる必要があるのではと思う。

限界の外を人に任せる

チームにおいて、リーダーの役割は自分が手を動かすことではなく、メンバーに任せて見守り、いざというときは責任を取ることであるはずだ。
しかし仕事を任せるということは簡単ではない。
自分でやった方が速いし質がいいなどと思い上がってしまうと、仕事を抱え込むことになり、結果何も進まない。

自分でタスクを抱え込み続けると、本来時間や労力を割くべきマネジメントの方がおろそかになってしまう。
自分と異なる強みを持ったメンバーの方がうまくやってくれることだってある。
そういった時間や能力などの限界を理解できてはじめて、人に任せることができるようになる。

人に仕事を任せる上で、メンバーを自分のクローンのように扱い、自分がやってほしいことをさせるのは決して良い方法とは言えない。
大切なのは、一人ひとりのやりたいことを聞き、その人のやりたいことを叶えながら、そこに自分のやってほしいことも入れてもらう、くらいの感覚ではないだろうか。

上半期を振り返り、下半期の目標について話をする中で、メンバー一人ひとりが下半期にやりたいことを聞いてみている。
改めて聞いてみると、普段は業務に追われて改善にまで手が回らなそうなメンバーも、それぞれの視点から意見を発してくれる。

最近チーム内の情報連携・共有をもっと進めたいと動いてくれるようになったメンバーがいる。
試しにチーム内ミーティングのアジェンダ作成や仕切りを任せてみたら、思っていた以上に立派にその役割を果たしてくれた。

私が理想とするチームは、一人ひとりが自分の意志で動けて、強みを活かしながら弱みを補い合い、それぞれがやりたいことをやっているだけなのになぜかうまく回っているチームだ。
動き始めたメンバーの姿を見ていると、理想のチームを実現する素質は今の職場にもあるかもしれないと、希望が見えてきた気がする。

見せたいところ以外も見せる

自分の限界を認め人に協力を求めるということは、ある意味自分の弱みを人に見せなければならないということでもある。
誰かに助けてほしいと伝えることは、私にとってはとても勇気がいることだ。

基本的には弱みを自ら進んでさらけ出そうとは思わない。
人に話したとしても笑い話にできるか、前向きな結論を言えるところまで解決できていることしか出さない。
本当に悩んでいるところを他人に背負わせるのは気が引けるし、実際人に相談しなくてもたいていの悩みはどうにかなってきた。

素のままの自分でいるということは、見せたいところも見せたくないところもひっくるめた自分自身でいるということである。
それってすごく怖いことでもあると思う。

見せたくもないところを見せていくのはリスクがある。
引かれたら、嫌われたらどうしようと思うし、自分の嫌いな面を人に見せて本当に嫌われてしまったなら、ああやっぱり自分はダメなやつだと暗い気持ちになってしまう気がする。
そんなリスクを背負ってでもありのままの自分を貫ける人って、芯の強い人なんだろうと思う。

一方、ありのままが良いなんて言葉は耳ざわりがいいけれど、どこまで素を出すか、ありのままの自分でいるのかは濃淡があっていいとも思う。
相手によって出す素の濃淡を調節して自分を守っていくことも、出す素の部分を変えて軽い依存先をたくさん持っておくのも、自立した大人のふるまいなのだろうと思う。

見せたいところだけ見せる

理想の姿とは何か。
それを具現化するため、最近やりたいと思っているのが自己演出だ。
つまり人に見せたいところだけ見せる、ということだ。

なりたい自分や演出したい世界観が何なのかを知るために、休日出かけた先で撮った写真や動画を切り取ってつなぎ合わせ、長いこと稼働させていなかったインスタに上げてみたりしている。
写真を撮られるのは苦手なのだが、あえて全身コーデを自撮りしたりもしている。
苦手だからこそ、自らコントロールして練習して、良く写った部分だけを人に見えるところに置いておきたいという気持ちがある。

演出された自己はありのままの自分ではないかもしれないが、完全なる虚構でもないと思っている。
日々の生活、人生を積み重ねた上に人格はつくられるから、どれだけ演出しようとも滲み出るその人らしさはあるのだと思う。
それに、本当に行った場所で写真や動画を撮るのならば、いかに美しく編集しようとも一定程度は真実であると言える。

ふわっとした理想から、自分の延長線上にある理想へ。
自己演出とは、限界を受け入れた上で手持ちのカードをどう活かすのかという勝負のような気もする。

最近、自分自身から生まれるメッセージを何らかの形にしてみたいという欲求がある。
自分自身のメッセージを伝えていくとき、剥き身の自分で世界に挑んでいくのはあまりに無防備で恐ろしい。
戦略的に、自分であって自分でないもの、いわばステージに上がるときの衣装のようなものとして、演出された自己を身に着けたいと思うのである。

計画外も含めて計画する

なりたい自分、見せたい自分を簡単に演出できる手段であり、もはや私の趣味ともいえるのがファッションだ。
この秋はたくさん服を手放し、たくさん服を買った。
シーズンの初めには着る服がなくてどうしようと思っていたはずなのに、気づけばシーズン中に着尽くせるのか心配になるくらい服を手に入れていた。
使った金額を計算して笑ってしまう。こんなはずでは。

どれだけ計画を立てていても、素敵な服には出会ってしまう。
出会ってしまうものは仕方ないのだ。
買って後悔した服なんて1枚もない、と開き直る。

今年出会った素晴らしいファッションアイテムと、それと引き換えに消えていったお金のことを思い返し、来年のファッション予算を立てていく上では、想定外の事態にも対応できるバッファを持たせた計画にしなければと思った。

そしてこれはお金だけの話ではないとも思った。
想定外のことにも対応できるバッファを持たせた上で、限りある時間をどう使っていくのか。
目的に向かっていくために、限りある時間にどんな予定やタスクを入れていくのか。
今まで理想と現実の距離が遠すぎて計画など立てられもしなかったけど、理想と現実の間に「限界」を挟むことで、かえって理想と現実の距離が近くなった気がする。

線を引く

限界を知るということは、自と他を切り離すことである。

私は自他を切り離すところが少し弱いのではと思う。
災害や事件のニュース、街中で出会う誰のものだか分からない感情などを自然と取り込み、影響を受けてしまう。
例えば仕事で様々な要因が絡み合ってうまくいかなかったとき、自分ができることはまだまだあったはずだと思い、必要以上に責任を感じてしまう。
自分ごと化するのは良いことだと思われがちだけど、やはり行き過ぎは弊害が大きい。

他人はコントロールできない。自分の手が届く環境なんてわずかでしかない。
自分ではどうにもできないものに対して、それを「限界」として線を引く。

自分で言うと説得力が薄いが、私は自分に厳しく他人に甘い。
部下の上半期の取り組みを振り返って評価をつけるときも、その人の良いところ、頑張りが次々と思い浮かんでくる。
良いところを振り返るのは楽しいのだが、仕事だと今一歩のところもフィードバックしなければならなかったり、相対評価的につけざるを得ない事情もあったりして、それはそれで気が重かったりする。

「他」だと認識できていれば良いところばかり見て甘々になれるが、仕事のように自己と同一化してしまうと、自分の責任とは言い切れないところさえも厳しく、至らなかったことばかり見てしまう。
仕事を自己から切り離さなければならないと思う。

自分でコントロールできる範囲の外にあるものを「他」と認定する。
自分でどうにかなると思う範囲が狭くなることで、結果いい意味で自分にも甘くなれるのではと思っている。

線を越える

線の話で思い出すのは、夏に参加していた市民ミュージカルのことである。
本番を翌週に控えた練習で演出がキャスト全員に呼びかけたことであり、本番の舞台に上がる直前にもスタッフからキャストに贈られたメッセージが、「線を越える」だった。
この言葉について最近思ったことがある。

線を越えるためには線の存在が必要だ。
線があるからはじめて越えるという行為が生まれる。

イメージしやすいので人と人との関係で考えてみると、自と他が未分化で、境界線がない状態であればそもそも越えるという行為は生まれない。
自と他の間に線を引き、互いを別の存在として認め合っているからこそ、その線を越えるという行為が生まれる。
つまり人間関係の中で「線を越える」ことを実行するためには、一人ひとりが自立している必要があるのではないか。
ミュージカルの主催団体の理念からしても納得ではあるのだが、実は結構高度なことを求められていたのだと今更ながら気づいた。

コロナ禍で人と会うことが制限されてきたおよそ3年間は、個人的には自分にフォーカスする期間だった。
人の顔色ばかり窺うことから脱却して、自己をそれなりに確立できたと思っている。

一人でいるのが気楽だ。
内向的で一人の時間を楽しめるからというのもあるが、それ以上に線の内側、自分でコントロールできる範囲内で物事が完結するからでもある。
線の外側の世界と関わることは、いつか向き合わなければならないと思いつつも目を逸らし続けてきたテーマでもある。

自分を確立した上で、主体的に線を引き、その線の外に一歩踏み出してみる。
そろそろ、ちゃんとやってみてもいいんじゃないかと思っている。

まとまらないまとめ

いろんな方向に話が飛びながらもゆるくつながっていくような感じで、ここまで思考をアウトプットしてみた。
一貫したテーマは特になかったつもりだけど、タイトルにつけた限界と境界、そしてその先にある理想や他者への向き合い方といった話題が全体を貫いているような気がしている。

たまには自分の記録用として、こういう文章を書くのもありかもしれない。
こんなよくわからない文章をここまでお読みくださった方、ありがとうございました!

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