どこまでも続く1っ本道

フェルディナンド・ヤマグチの走りながら考える、について考える

『2019年11月18日付けの日経ビジネスオンラインゼミナール「フェルディナント・ヤマグチの走りながら考える」第523回 藤原大明神秋季大降臨祭・その3 マツダは再び「黒歴史」を繰り返すか?』の4ページ目は、現在の自動車産業の状況に関する珍しくまじめな歴史・文化論となっている。記事のこの部分は自動車技術の置かれている現状の要約としてもよくまとまっているので非常に興味深く読んだ。

ただし、このお二人の発言から、これほどのレベルの人でも、まだまだ「コネクテッドカー・自動運転」の時代に顕現してくる技術開発の本質的な課題を深くは理解できていないなぁ(あるいは表現できていないだけかも)と思えた。以下は私の個人的感想である。

私は、ここでの話は、以下の項目とも密接な関係があると考えている。
① ボーイング737MAXの二度にわたる墜落事故と運航停止
②「自動運転」の開発の失敗(の原因になりそうな工学的・社会学的な様々な要因)

おそらく、一般の方には上の2点を詳しい説明なしに結びつけて考えることは難しいだろうと思う。それについて詳細な議論を始めると長くなるので別に機会に譲り、ここでは表記の記事のお二人の発言と上の点について感じたことを記しておく。

●マツダ藤原副社長のご発言
『EVをやって、自動運転もやって、コネクテッドもやって、さらに先進安全もやらなければならない。いや応なしです。この流れはもう誰にも止められません。しかもこれらの技術は、我々自動車会社が今までやったことのない分野ばかりです。通信? 分かりません。セキュリティー? 分かりません。先進安全のカメラ? センサー? 電池の技術? みんな分かりませーん(ここで両手を挙げてバンザイのポーズ)。』・・・(1)

という発言、まったくその通りだと思う。

 この発言の本質は「自動車」の位置づけが「独立した閉じたシステム」から、「広いネットワークシステムのなかに存在する一端末」に変わるという事にある。そこでは、いままで自動車産業の開発技術者・経営者が経験したことのない「外部とのインターフェースの意識」が必要となる。これは簡単そうに聞こえるかも知れないが、これを行うには開発技術者・経営者の発想の「コペルニクス的転回」が必要になる点が重要である。
新技術そのものよりも、それを取り込むための「頭の中で考える事」の入れ替えの方がはるかに難しいのだ。これはもはや哲学・思想の転換と言った方がよい。
 繰り返すが、単に『いままで「機械のかたまり」であった自動車に「通信技術」が取り入れられる』というような表面的な理解で対処できるような生易しいものではない点が重要だ。

●フェルディナント・ヤマグチ氏のご発言
『例えばNECの人から「この通信ユニットの開発費は10億円です。アセンブリーすると、1台あたりの原価は10万円になります」とか言われても、ああそうなのね……となってしまう。』・・・(2)

これもその通りだろう。

 ただし、フェルディナント・ヤマグチ氏は職業柄か紙面の制約からか経済的な観点(価格)にしか触れていないが、それは物事の一面しかとらえていないのは残念だ。この通信ユニットが10万円かどうかよりもさらに難しい課題が残っている。
 たとえば、一見同じ機能の通信ユニットをA社は10万円だといい、B社は5万円で出来ると提案されたとしよう。普通は機能・品質が同じなら安い方が良いに決まっている。が、通信ユニットの場合にはそれ以外の要素も加味して考えないと判断を誤る。いわゆる「非機能要件」というヤツだ。
 もはや「閉じたシステム」ではない自動車に使われるこの通信ユニットは車の外にある通信相手と対向しそれと通信して初めて価値が生じるモノである点を忘れてはいけない。
 そこには今までの自動車にはなかった車外とのインターフェースがある。しかも、そのインタフェースは無線や電気レベルの物理層、その上で意味のあるデータを確実に送受するリンク層、所望の相手と通信するためのネットワーク層、本来通信したい主体であるアプリケーション同志が通信を行うアプリケーション層など幾層ものレベルで構成されている。
 それらの各層が「仕様通り」動作していることのベリフィケーションが必要であるだけでなく、バグが無く、正しく通信が実現されていることのバリデーションをも行う必要がある。
関連note 『自動運転 超「ミッションクリティカルなシステム」であるがゆえの難しさとは』
 さらに問題なのは万が一にも通信がうまく行かない時に、自分と通信相手を含めた通信システム全体のどこが悪いのかを切り分ける必要がある点だ。相手が悪いのか自分が悪いのかの切り分け、自分の中でもどこが悪いのかの切り分け。この切り分けのための手段を後から追加するのは極めて大変だから予めそれらの手段をどこまで組み込んでおく必要がある。それをどこまでやるべきかの判断も必要になる。
 通信ユニットがうまく動作しない場合に、まず不具合のポイントを特定しなくては手直ししようがない。そのためには上記の切り分け機能は必須である。これがうまくできていないと10万円の通信ユニットの障害切り分けに1億円の費用がかかるということは決して珍しくない。
 この点に関しては「通信ユニット」を使いこなす立場の自動車業界の人も十分に分かっている人が少ないし、「通信ユニット」を売り込む側の業界の人の認識も不十分だと私は感じている。分らない同士が付き合ってもうまく行くはずがない。

●フェルディナント・ヤマグチ氏のご発言
『すると豊田章男さんがしきりに、100年に一度、100年に一度と言っているのは、決してオーバーではないということですか。私は何か大げさだなぁと思っていたのですが。』・・・(3)
 これも甘いと思う。「今が一番大変だ」という表現は半世紀前の高度成長期以来、綿々と続いているけれど、今始まりつつある自動車産業の大変革は「100年に一度」で済むような一過性の問題ではないと私は考えている。この「変革」は際限なく続く性格の変革になる。いったんソフトを入れてしまったら、そして外部とのインターフェースを持つようになってしまったら「100年に一度」で済むような話ではなくなる。私の見方では、これは単なる「これから100年を超えて続く長丁場の大変革の始まりの一瞬」に過ぎない。

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