物語のキーワードは【嘘】と【犯罪】。半沢直樹を下敷きに、エンターテイメントとは何かを考える

ヤフーニュースの見出しを渉猟していたら、このような記事があった。

「倍返し」のためなら何でもあり?半沢直樹が再び犯した検査忌避罪とは

私はこの記事を読んで、こう考えた。

「何いってんの?小説やドラマの登場人物が犯罪者なんて、当たり前のことじゃん」

このことから、小説の「嘘」について考えたいと思う。

【小説の登場人物は、みんな犯罪者】

なぜドラマから小説の話に?と思う方もいるだろうけれど、半沢直樹は元々、池井戸潤さんという作家が書いた小説のキャラクターである。
半沢直樹シリーズは、もともと「オレたちバブル入行組」というタイトルであり、登場人物を共有するシリーズは「オレバブシリーズ」と呼ばれていたが、ドラマのヒットをきっかけに改題された。

池井戸潤さんご自身が元銀行員ということもあり、彼が書いた銀行が舞台の小説は「銀行のリアル」として見られることも多い。
つまり、我々が生きる現実でも「半沢直樹シリーズと同じことが起こっているのでは?」と読まれているということだ。

しかし、ドラマなどをご覧になればわかるが、近頃の小説や漫画、ドラマなどには必ず「この物語はフィクションです」と注釈が入っている。
フィクションとは、「作り話、創作、虚構、嘘」などの意味がある。

つまりは、小説やドラマは作り話であり、リアルではない。
それなのに、私たちは小説やドラマをリアルなものとし、「いるいる、こういう人」「わたしにもこんな時期があったなぁ」と、自分に引き付けて消費している。
これは何故なのだろう。

それは恐らく、小説やドラマには、「本当の部分もあるし、嘘も含まれる」からだろう。

【この小説どおりにやっても人は死なない】

だいぶ昔、貴志祐介さんの「青の炎」という小説を読んだ。
主人公の少年が父を電気ショックにより殺害し、証拠を全て隠滅したものの、少しずつ犯人として追い詰められていく…というサスペンスだった。
非常に面白く読んだのだが、著者あとがきに、このようなことが書かれていた。

「作中に出てくるトリックどおりに電気を流しても人は死なない」

ストーリーが進むきっかけとなる電気ショックによる殺人について、著者みずからがトリックを否定してみせるという、異様な注釈だった。
しかし私は読み進めているときは、そのようなことを全く気にしなかった。
差し迫るサスペンス性に、圧倒されていたからである。
つまり、トリックは嘘だったが、そのあと追い詰められる主人公の境遇や心情はリアルだったのだ。

(近年、「面白ければ何でもいい」という、わかったような言葉がエンタメ業界では聞かれるが、それはこういう場面でのみ使われてよい言葉だと思う)

【小説の嘘とホント】

エンターテイメント作品の中には、必ず嘘が含まれる。含まれるのだが、それは実際にこのとおりにやっても完全犯罪は不可能だよ、作中のとおりにやってもうまくいかないよ、でも全部が嘘っていうわけでもないよ、嘘によって動き出す登場人物やストーリーはリアルだから、こっちを楽しんでね、ということだ。

つまり小説やドラマなどのエンターテイメントでは、「リアルでこのとおりにやっても、必ずどこかで破たんするよ」という「嘘」が書かれているが、小説内では破たんせず、上手に進んでいき、作中人物も嘘が露見しないことを前提に行動し、話が進んでいく。そしてその嘘がいつかばれそうになるときこそが、その物語の山場となるのだ。

小説や物語は「リアルでは嘘」によって駆動し、「小説内では本当」のこととして物語が進むという逆転現象が起こっており、我々はそのねじれを楽しんでいる。

作家の力量やエンターテイメント性とは、その「リアルでは嘘」の部分を「小説内では本当」に見せかける文章力や構成力のことではないだろうか。

池井戸潤さんは、そのあたりが本当に上手な作家さんなのだろう。
だからこそ、半沢直樹の作中での行動をリアルの法律に当てはめると罪になる、という「当たり前じゃん、そんなの」という記事が大発見のように書かれてしまうのだ。

近頃では、小説が嘘である前提に立ち、嘘に特化した、いわゆる「異世界転生もの」が勃興しているが、それだけ作家に「うまい嘘」をつける人が減ったということなのだろう。
さらには、登場人物が犯罪者、という面に特化した、白井智之さんのような作家さんも登場した。白井さんは私がいまとても注目している作家さんだ。

「嘘」と「犯罪」、これからの小説界もこれらをキーワードに進んでいくことは間違いなさそうである。

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