正義によって自殺する物語(現代的表現規制の行く末をポリコレを基に考える)

海外では今、日本のアニメ、小説、漫画などが大人気であると、小耳に挟んだ。
理由は、スパイダーマンやシルバーサーファーなど、たくさんのヒーローを有するアメリカンコミックが、最近絶望的につまらないからだという。
私は気になって、その情報のもとを追ってみた。その結果、アメリカでは現在ポリコレの嵐が吹き荒れていて、そのせいで物語の質が際限なく落ち続けているらしい。
そこで私は、この「行き過ぎたポリコレ」がもたらす、物語の自殺について考えてみたいと思う。

【ポリコレとは何か?】

ポリコレとは、「ポリティカル・コレクトネス」の略語であり、人種、信奉する宗教、性別などによって区別された表現を訂正し、フラットな物言いによる平和的な表現に統一することを目指す運動のことである。
日本でも、事例事態は少ないが導入されており、
看護婦は看護師になり、
保母は保育士になり、
スチュワーデスは客室乗務員になった。

しかし近頃では、「政治的正義」とも訳されるこのポリコレが、行き過ぎた運動になっている。
正義はわれにあり、と勘違いしたのかどうかは知らないが、「自分の気に入らないものから自分が遠ざかるのではなく、気に入らないものを世の中から抹消しようとする」運動になっているのだ。

【行き過ぎたポリコレ】

例えば、ヴィーガンを例にとって考えてみよう。ヴィーガンとは、「人間の営みによって家畜の命を奪ってはいけない」という「政治的に正しい」考えを持つ、行き過ぎた菜食主義者のことである。ベジタリアンレベル100みたいなものだ。
本人だけがそうしているうちはまだいいが、バーガーショップに入って牛の写真を掲げ、「君たちはこの牛を殺したのだ!!」と叫んだり、人がバーガーを食べないようにデモを行ったり、自分の子供に野菜しか与えず栄養失調で死亡させたりしている人が続出しているらしいのだ。
なぜならそれは「生き物を殺さないのは正しい」思想であり、正しいことをしている彼らは自分を正義だと思い、従わない者を排除するべき悪だと定義するからである。ゆえに行き過ぎたヴィーガン(ポリコレ)は、自分の行いを反省しない。本人にとっては、世にはびこる悪者を退治しているにすぎないからだ。
おそらく、子どもを栄養失調で死なせた両親は、子どものことを「いい野菜を与えてあげたのに死んだ子どもが悪い」と考えているだろう。

看護婦を看護師にするなど、言葉や職業の定義の修正に関しては、よいものだと私も考えている。
しかし、その正しさを人に押し付けたり、それによって誰かが感情や生命を害するのは違うと思っている。

このような、自分が正しいと思うものの押し付けは、「自分が面白いと思ったゲームや漫画を、人にどう勧めるか」に例えることができる。

大抵の人は、「これ面白いよ、貸してあげるから読んでみて」と言うだろう。

さらに大抵の人は、「どうだった?」と感想を聞きたがるだろう。

もしかしたら「読んだ?」と1日おきに確認したくなるかもしれない(するかどうかは別にして)。

しかし「行き過ぎた人」の場合、「面白かったでしょ?」と相手の感想=自分の感想であると決めつけ、

「続編も出てるから買ってね?好きだから買うでしょ?」と今後の行動まで押し付け、

「ファンクラブあるから一緒に入ろうよ」と相手を縛り付け、

「ねぇぇ、推しがこんなこと言ってるんだけど、作者絶対許せないよね、抗議してやろう!!」と自分が認めないものに対して攻撃的になる。

この運動、最初のうちは単なるクレームとして無視されていたと思うが、実際に会社の業績などに影響するようになってから、各種企業は「お客様のいうとおりでございます」と、クレームが入ったものは即謝罪、修正するようになった。
そのたびにポリコレは勝利の快哉を叫び、自己の正義をより強固なものとし、次の標的を猛禽のような目で探し始める。

この傾向が続けば、物語が自死してしまうと私はずっと思っていたが、今アメリカから、この懸念が真実となり始めているのである。

【正義の行く末】

もともとアメリカの映画界では「ハリウッド協定」というものがあり、「最低一人は黒人を物語のキーパーソンとして出演させなければならない」「最低一人はアジア系の人間を(以下同文)」という決め事が交わされているそうだ。だからこそポリコレにも親和性があったのかもしれないが、そのせいで今、アメリカの映画界はめちゃくちゃになっている。
要は、いろんな思想、信条を持っている人が感情を害さないことが、物語の第一要件となってしまっているのだ。

その結果として、毒にも薬にもならないようなストーリーが出来上がってしまう。
今アメリカで起こっていることを日本に置き換えるとすれば、
アンパンチは暴力的だから話し合いで解決しろだとか、
ワカメちゃんのパンツが出ているのは児童ポルノだとか、
しずかちゃんのお風呂シーンはのぞき行為という犯罪を矮小化しているだとか、
クレヨンしんちゃんのぞうさんを見ると痴漢されたことを思い出して反吐が出るだとか、
そういうクレームが入るので、もはや「何もできません」という状態になっているようなものだ。

気づいているだろうか。
今、クレヨンしんちゃんでは、しんのすけのギャグ「ぞうさん」は封印され、
ケツだけ星人もズボンをはいたままになり、
みさえがしんのすけを
げ ん
こ つ

するシーンも無くなった。
きっと、そんなことをしてはいけない、なぜならそう考える私が正義だからだ、という集団からクレームが入ったのだろう。

ならばファンタジーならどうだろう。ファンタジーならいつでも命をかけて敵と戦っているし、体の強い男性が敵を倒し、か弱い女性は守られなければならない世界が描けるのではないか。
そう思うだろうが、ファンタジーでもそのような表現をしてしまってはクレームの嵐となるのである。
たとえば有名なゲームのポケットモンスターなんかでも、昔は主人公を選ぶ際、「きみは おとこのこ? それとも おんなのこ?」と聞かれていたが、今では「君の見た目を選んでくれ」となっている。
いや、そんなの生ぬるい例えだった。あるゲームでは、なんと戦争中に妊婦が前線で敵に向かって銃を撃ち、家にいる男性はお針子仕事をして妻の帰りを待ち、その夫婦を素晴らしいと奨励するというグロテスクな表現がされている。

近頃海外では、ライトノベルのうち偏向した性癖を描いているものが「取り扱い禁止」とされたそうであり、表現規制は法によってではなく正義化した人間によって粛々と進んでいる。

もはや日本神話の神々にもクレームが付きそうな勢いである。「豊穣の神が女神なのはダメ。農業従事者には男性が多い」「アマテラスを天岩戸から出したタヂカラオが男なのはダメ。力持ちの女性もいる」とか何とか。
いや、もしかしたら世界の聖典のうちいくつかでは、そのような運動が既に起こっているかもしれない。

現実でも、ファンタジーでも、気に入らないものを排除するべきという動きが「当然」とされてしまっては、人間は紀元前のような、物語を内輪でのみ消費する生活に戻るしかなくなってしまうだろう。

ヒーローは1人だからこそヒーローなのだ。そのことを忘れていはいけない。

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