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作れる人間が一番偉い

数年前からの熟成下書き。最近はTLの構築に成功したのか、ここに書いてあるようなことを感じることはほとんどないんだけど、供養のために公開。

一年ぶりにTwitterを見るようになって、違和感を覚えることが増えた。
一番気になるのは、バズってるツイートにカジュアルな無断転載が多くね? ということ。

ここで私が「カジュアルな無断転載」と呼ぶのは、ソースを記載せずにコンテンツ(多くは画像)を転載しているツイートだ。
それらのツイート主は必ずしも自分がコンテンツの作者であると詐称しているわけではない(だから「カジュアル」)。しかし、ソースを記載しないことで作者の存在を隠蔽している。
そうして、本来は作者に与えられるべきクレジットを横取りしている。

SNSにおけるシェアの概念は「自分が見つけた良いものを他の誰かにも教えたい」という心理を利用したものだったと思う。
その心理が「良いものを見つける自分を承認されたい」→「良いものの独占的な発信源となりたい」という欲望にまで膨張すると、こういうことが起きるんだろうなと思う。
でも、彼らは自らコンテンツを生み出すことができない。
だから他人の物を借りてきて、それが他人の物である(=発信源は別にある)ことを隠蔽して、投稿を続ける。

必ずしも投稿者を詐称しているわけではないから、その行為はこれまでのソースを明記した礼儀正しい「シェア」と同じように扱われて、誰からも糾弾はされない。

でも、そのコンテンツはお前のものじゃねーから!
どこかで誰かが労力とコストをかけて生み出したものだから!

せめて、作者=ソース=発信源を明記するって形でその誰かに敬意を払うべきじゃないの?

今は誰も一次情報を探す労力をかけようとしない。
TLに流れてきた瞬間に即座に共感できて消費できる情報であれば、その出自はどうでもいいと思われている。

それは理解できるというか、私だってRTされてきたツイートのツイート主のプロフィールをわざわざ見て「こいつに果たしてこの絵が・写真が・図が作れるのか?」なんて確認しない。
でもそういう「より多くの共感できるコンテンツを、より手軽に得たい」という欲望が、こういう現象を加速させているんだと思う。
SNS上の作法が一年そこらで変わるはずもないので、私が以前Twitterを見ていたころにもこういう現象はあったんだろう。しかし、一年のブランクを経て戻ってきた人間には、「カジュアルな無断転載」現象は加速しているように見えた。

多かれ少なかれクリエイティブなことをしている/クリエイティビティをリスペクトしている人間は、こういう状況にうんざりしていると思う。
しかし、やがてこういう「共感第一」のコミュニケーション方法は滅びて次の段階に行くだろう。
だって、みんなうんざりしてない? 私はうんざりしてるよ!
良質なコンテンツそのものでなく、「わかる」「笑える」「かわいい」「知ってる」っていう、そこに付随するコンテキストこそが重視される状況にうんざりしている。うんざりしている人間が大勢いることも知っている。
(2017年6月25日放送「文化系トークラジオLife『"共感"される"エモい""パワーワード"を"忖度"して"PR"!』」とか)

そして「シェアされること」がコミュニケーションの質の指標ではなくなったとき、そのときに生き残るのは、勝利するのは――本来与えられるべき称賛を取り返すのは、物を生み出せる人間だ。
私がアイアンマンシリーズの中で一番好きなのは『アイアンマン3』なのだが、それはトニー・スタークがなぜヒーローであるのかをはっきりと描いているからだ(以下ラストのネタバレを含みます)。

ヴィランとの戦闘の最中で手持ちのアイアンスーツをすべて失ってしまったトニー。その状態で彼は「私がアイアンマンだ」と宣言する。彼をアイアンマンたらしめるスーツはすべてなくなったっていうのに。
つまり彼がヒーローなのは、彼がスーツを持っているからじゃない。スーツを作る能力があるからだ…と私は解釈しました。
何度スーツを奪われたって、壊されたって、その「作る能力」は誰にも奪えないのだ。

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