見出し画像

会社のひとたち

 「ご海容願います」という言葉を使う人を初めてみた。

  その人とあたしは初めて一緒に仕事をしていたのだが、その日の仕事はいつもより忙しかった。
 業務過多になった大阪支社の対応が遅れていて、緊急の電話やメールがフロア内を飛び交っていた。資料の不備を指摘したが、大阪支社からの返答はなく、あたしたちはやきもきしていた。

 そんなとき、同報された念押しのメールにその言葉があった。

「そちらの指摘と重複していましたら、何とぞご海容願います」

 とてもやさしい言葉だと思った。そして「海容」という言葉の何とも言えない美しさ。それをこんなに自然に使うなんて。

「メールみました、送っていただいてありがとうございます」
言う必要もないのに、あたしはその人に言った。

 その人は少し驚いたようにこちらを見て、
「見てくれましたか、ありがとう」とほほえんだ。凪いだ海のような静かな深い声だった。

 いいな、と思った。さりげない知性を見せつけられる瞬間に、あたしは本当に弱い。

「たすかりましたよ」ふいにその人が言った。
「大阪では、気が付いていないようだったから」

 大阪支社から電話がかかってきて、あたしの指摘が役に立ったということらしかった。

 退勤したあとも、あたしはしばらくその人のことを考えていた。
 その人は、大柄で眼鏡をかけている。通勤途中にはよく本を読んでいるらしい。ブランド物の鞄は持たず、その代わり簡素なトートバッグをさげている。一見物静かだが、誰とでも親し気に会話しているところをよく見かける。

 いいな、ともう一度思った。

 その人を好きになるのに、それほど時間はかからないだろう、とあたしはほぼ野性的な本能でもって直感する。

 ただし同時に、過去の手痛い経験から、この手の男の人があたしに振り向かないことを冷えた頭の隅で思い出していた。
 そもそも一度一緒に仕事をしただけの女に、突然好意を持たれるなど、その人にとってもはた迷惑な話にちがいないのだ。

 ともかく、慎重にならなければならない。

 一つ息を吸って、あたしは恋人の姿を思い浮かべる。一昨日の残り物を、にこにことたいらげる姿。汗で額にはりついた前髪。猫背。毛玉だらけの靴下。ひいきの球団の勝利にガッツポーズする姿。

 とたんに意味不明な愛おしさが胸にこみ上げ、自分にはすでに愛すべき男がいることを他人事のように思い出す。
 4年ごしの恋人は、すでに自分自身の血肉のように意識することもないが、ふとした瞬間に生き生きとした温もりになる。
 彼があたしの中にいるみたいに。

 それを確かめて、あたしたちはまだ大丈夫だ、とあたしは自分に言い聞かせる。

 そうでもしなければ、この世の中には恋愛の危機に満ちているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?