Part7 : 【ヤマアラシのジレンマ】2年前に書いた「両親をそれぞれ失って」加筆修正版
2年前に私が書いていた記事を再編集してアップしていくシリーズ。
本日は親子の葛藤がテーマとなります。
そして今回も読み手側は大変だと思います。
心構えを持ってして、お臨みください。
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前回「母の美化した話を聞くのが耐えられなかった」という文章が登場していたと思いますが、今回はその点に言及していた過去の記事を取り上げていきます。
当時、耐えられなかった理由をこんなふうに書いておりました。
なぜかというと
実は母の最晩年のとき、
我慢に我慢を重ね父が、
ついにはその限界が来て
その感情が出てしまった時がありました。
また、ちょうど母の体力が弱っている時分でしたので
結果的に母にさらに追い討ちをかけるようなことに
なってしまいました。
そのことは、直接母から話として聞いておりましたが、 娘としては
父の思い出話や
最愛の奥さんとして
美化されたその話を聞くたびに 「そんなことを言いながら
おまえはあんな仕打ちをしたくせに」
と、憎悪のような感情を持っていました。
けれども
心の奥底から湧き出る黒い感情に耐え
話を聞いて(聞くふりをして)いました。
あの頃の父との会話は
長い拷問のような時間でもありました。
「我慢」という記述ですが、これは父とは違う思惑で動く母に、すなわち癌という病気を患ったことにより人生に対する価値観が変わり、母が父とは違った、彼の思わぬ方へと向かっていたことに対する抑圧した感情、を指しています。母が自分の手の届かぬ場所に行ってしまうのではないか、その不安や恐れを、素直に母に伝えれば良いものを、それをただ「我慢」したことにより、結果限界がきた、そういう意味です。
娘からすれば、どういう理由があれど、母を傷つける理由にはならないと考えていましたし、まして23歳の私にはとても理解し難いことでした。故に、父への理解をするということに結びつくにはまだまだ時間を要しました。
引用、続きます。
父の話を聞く時間を終えた後
一人になることは可能でしたが
その時に幾度となく葛藤がやってきました。
「父親から離れたい」
「いや、最後まで見てやるんだ」
相反する気持ちに
増幅される負の感情に
何度か自分が
どうかなってしまうんじゃないかと思いました。 人間、難しいもので
簡単に「嫌い」、と思えれば、
どんなに楽かと思えます。
それか、「無関心」であれば、どんなに楽かと。
「嫌い」だけれども、「好き」でもある。
この矛盾した感情にとても振り回されました。
また、父のことを本気で憎むことが
できない自分に気づくまでも
ここから何年もかかりました。
言葉数は少ないですが、2年ほど前の私の葛藤が見え隠れするように思う文章です。
特に、「嫌いだけれども、好きでもある」という一文は、当時の心中を象徴するものだと感じます。たとえどんなに理不尽な目にあおうが、何度失望することがあろうが、たった一人の父親であり、残された大切な肉親のうちの一人であるのに、変わりなかったので。
当時の私は、父に対していつも
「なんで、お父さんはそうなの?」
「なんで、わかってくれないの?」
と、ずっとこのような感情を持っており、
父への叶うはずのない期待と怒りの感情で
心の中でのモヤモヤが常にありました。
母のことで、自分の世界に閉じこもっていく父。
それに対して、こんなはずじゃなかったと憎む私。
今考えてみれば、
身内であるお互いに甘えていたのかなと思います。
この文章を読んで思うのは、結局のところは父に対する甘えでしかなかったなということ。自分が変わる以前に「相手に変わってほしい」という感情が優先されていたなと今なら気づけます。30も超えた今、俯瞰して見ることができるようにはなりましたが、相手に変わってほしいと思う以前に、まずは自分から変わろうと考えられるようになるまでは、やはり経験と時間があの時の自分には必要でした。
ただ、父との我慢強く過ごすそれらの体験のおかげで、これまでとは違った思考の変化が2012年の私にたくさん訪れたように思います。
その後、2013年から2014年にかけて、亀のような遅さではありましたが、さらに少しずつ私の行動の仕方や思考の癖が変わっていきました。
また、父は父で、足掻こうとする末娘に対し、本当にゆっくりではありましたが、態度が軟化していくように見受けられました。
57歳違いの世代間のギャップはどうしてもありましたが、「音楽」の話においては共通の話題の項目として、少々食い違うこともありはするもののいつでも話すことはできましたし、私は私で、母の過去の話の流れに行ってしまう前に、父の大好きな歴史の話や、戦争時代の昔話など、そういう話を先に引き出して、気持ちよく話をしてもらうという試みをすることを学びました。
悩んでいたときに、調べているうちにいわゆる「傾聴」という言葉に出会いまして、それを少々勉強し、考えるようになったことで、父との会話の時間の苦痛が少なからず抑えられるようになりました。
お互いにちょっとだけでも楽に過ごせるようになるのでは、私から変化してアプローチすることに繋げられるのではないか、という発想からの行動でしたが、結果的に両者共に同じ空間にいるストレスが多少なりとも減ったのではないかと思います。
互いにまだまだ問題は抱えてはいたものの、自分から行動を起こすことで心にほんの少し余裕ができていき、私の中で「モンスターのような先生」という認識が、次第にぼやけていくように。
「一人の老いた父親」というイメージに移り変わっていくようになっていったのも、考えてみればこの頃だったかもしれません。
互いにとって心地よい心理的な距離を探る努力をしていけたことが、結果父へのイメージが変わっていく大きな理由へとつながったのでしょう。
こうして親子でのコミュニケーションがわずかながらでもとれるようになっていった父と私。2012年後半に差し掛かるにつれ、少しだけ我が家に落ち着きの様相が見えてきました。
そのために、私も休学していた学校のこと、イタリアでの学業にきちんとけじめをつけようと思う余裕ができていきます。今からならどのタイミングでいけるかな、プランを組み立ててみることに。
基本的にイタリアでは試験を受けられるシーズンがいくつかあります。そのうちの一つが、夏の6月。この当時、ちょうど私が考え始めた頃から約1年後に当たる時期。それならばと決めた内容が、
2013年6月に休学していたイタリア クレモナ・モンテヴェルディ音楽院での卒業試験を通り抜ける、そして滞在中最低でもコンクールの一つに挑む、大まかにその二つの目標に絞りました。滞在期間はビザの都合により3ヶ月のみ。ということは逆算して3月から3ヶ月。
あわよくば、休学していた学校の卒業試験で姉と同じく満点を獲得したい、そして国際コンクールでは自力で磨いた腕前を試すため、自分で考えて勉強した内容が今の世の中でどれほど通用するのか、知るためにそのように目標を設定しました。
目標の設定内容の理由は「姉」です。試験もコンクールも、その時点で姉は私の先を行っておりましたので、たとえどんな事情があろうとも、期間限定だろうと、私も何かしら結果を出したい。横山令奈の妹として、ヴァイオリン一家の一員としての誇りを賭けて、挑みたい。
そう決意しましたので、まずは3月イタリアに戻るための準備からだ、思い始めて行動を開始していきます。
ここから横山家に、また新しい変化を起こしていきます。
本日はここまで。
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